月刊オダサガ増刊号

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不可解な幼児 16 札幌オリンピックと公害

2014-03-17 17:22:07 | 不可解な幼児
1972年には1964年に引き続き、日本でオリンピックが行われた。学校に行くと授業もロクにやらず、オリンピックばかり見ていた。俺達がサボっていたわけではなく、担任の福田先生自ら、授業中にテレビをつけていた。授業中に授業以外のことをやっても構わないということを知った。

1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博、1972年の札幌オリンピックと立て続けに大きなイベントで盛り上がった日本であったが、1975年の沖縄海洋博は思いっきりこけた。

自分などは愚かな小学生だったので、当然、海洋博も盛り上がるものと信じていた。

1970年に電車賃が捻出できずに大阪万博に行きたくても行けなかった関東人が沢山いた。そんな日本人が5年後に飛行機に乗って沖縄に行けるはずもない。どんなにいいイベントであったとしても人が来なければ成功はしない。

1972年に沖縄が変換され、1973年から1ドル360円の固定相場制から変動相場制に切り替わった直後の1975年に飛行機に乗ったことのある日本人がどれだけいたのだろうか。海外旅行などは論外としても国内の飛行機代だってバカにならなかったはずだ。

1973年に日本の高度経済成長期は終了した。オイルショックが大きな打撃であったのは間違いないが、国民も浮かれすぎていたのかもしれない。挙句の果てには1976年のロッキード事件まで勃発して、日本の夢と希望は次第に縮小していった。そんな時代の過渡期に行われたのが沖縄海洋博であった。

さて、札幌オリンピックに話を戻すと、スキー70メートルジャンプで日本人が金銀銅メダルを独占したのが素晴らしかった。その印象が強すぎて他のことは全く憶えていない。

北海道でオリンピックが開催され、沖縄県が47番目の都道府県になったことは、なんというか、日本の復活を象徴する出来事であったように感じた。

ところが同時に、公害が大問題になっていた。川崎市に隣接する大田区ではしょっちゅう、光化学スモッグ警報が出ていたが、具体的な対処をした記憶はない。なるべく外で遊ばないように、などと大人に言われていたが、お構いなしに普通の生活を送っていた。

ただし、多摩川は近寄りたくないドブ川であった。河川敷で日曜日になると野球をやって遊ぶのだが、たまにボールが多摩川に飛び込む。

そこには目を覆いたくなるような光景があって、油まみれの川に魚が浮いていた。自分達のボールも一緒になって浮いているので、ボール拾いは命懸けであった。

子供の草野球の割りには、なぜかユニフォームだけは同級生同士で背番号まで決めて買っていた。誰が言い出したのかは知らないが、監督やコーチがいるわけでもない小学3年生の草野球のために俺達はユニフォームを揃えていたのだ。とはいっても、帽子、グローブ、バット、ユニフォームだけでスパイクを履くという概念はなかった。さすがにガキであった。

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