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セイピースプロジェクトのブログ

【原発】原子力の「平和利用」を見直す―福島原発事故から日本の原子力政策を問う―

2011年04月09日 | 原発・震災
 今回の福島原発事故は、原発推進派のいわゆる「安全神話」を瓦解させ、原子力発電そのものの危険性を明るみにした。そもそも、戦後の日本社会は、「唯一の被爆国」として、核兵器どころか軍事力を保持することを建前としてではあれ禁止されてきた。ところが、原子力の民事利用すなわち原子力発電事業に関しては、53年のアイゼンハワーによる「アトムズ・フォア・ピース」(平和のための原子力)演説、国際原子力機関IAEAの設置を契機とする、アメリカの原子力政策転換(原子力商業利用解禁、原子力における国際協力促進と原子力貿易解禁)を受けて、54年から原子力予算が成立し、原子力開発利用体制が整備され始めていたのである。

 このあたりの事情、核武装論の代表者である中曽根康弘を中心に日米両政府が民間から行った世論形成の全貌は、NHK 現代史スクープドキュメント「原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力政策~」(http://www.youtube.com/watch?v=k0uVnFpGEms)に詳しい。特に、福島原発との関連で興味深いことは、第5福竜丸事件を契機として、広島・長崎の記憶が冷めやらぬ中、反核・反米の世論が極めて高揚していたことである。「原発導入のシナリオ」は、そういった反核世論に対して、原子力の「平和利用」を打ち出し、「資源小国」日本が経済成長する上で、安定的な電力供給を約束する「夢のエネルギー」として、原子力に対する反感をそぎ落としていった。結果として、60年近くものあいだ歴史的に醸成されてきた原子力の「平和利用」概念によって、核エネルギーに対する批判的視座は換骨奪胎された。それは、ドイツを中心とする世界的な脱原発世論の高揚と対比しても、現在の福島原発事故による日本社会の反応をみてもわかる。
 
 そもそも、原子力の「平和利用」とは極めて奇妙な考え方である。原子力発電事業に携わる者が熟知しているように、「原子力」という言葉は俗語で、正しくは「核エネルギー」である。(ともにNuclearという訳語)。欧米では、「核エネルギー」は軍事利用と民事利用の双方をさすが、日本において「原子力」は民事利用のみをさす。例えば、米国では原発は原子力の「商業利用」であるとされ、中国では端的に原発は「核発電」と呼ばれている。アメリカの原爆製造計画(マンハッタン計画)を発端とする核エネルギーすなわち原子力は、根本的には、爆弾としての軍事的性質を有するのである。事実、原子力発電事業に不可欠な「原子炉」や「再処理」技術は、プルトニウムを利用した長崎原爆をつくるために開発されたものにほかならない。すなわち、原子力の「平和利用」とは、「平和利用」と称しながら、長崎原爆という軍事利用の過程の一部を商業的に民間利用しているにすぎないのである。(事実、1974年の核実験で「平和利用」を称していたインドは、1998年の核実験でプルトニウム原爆を製造している。)

 小出裕章は、端的に原子力の平和利用を批判するために、以下のデータを提示している。
 �標準的な100万KWの原発は毎日3kgのウランを核分裂させている。
 �広島原爆で核分裂したウランは800gなので1基の原発は毎日広島原爆4発分
 �1年間の運転(年間稼働率75%)で、死の灰(核分裂生成物)は1000発分
 �日本の保有する45トンのプルトニウムは、長崎原爆4000発分
 
 また、吉岡斉が指摘しているように、日本の原子力政策の特徴は、国家安全保障の基盤維持のために先進的な核技術・核産業を国内に保持するという方針を不動の政治的前提としてきた。つまり、日本は、核武装を差し控えてきたが、そのための技術的潜在力を保持し続けたのである。(核兵器に転用可能ないわゆる「機微核技術」としてのウラン濃縮・核燃料再処理・高速増殖炉)それは、冷戦下における核兵器による抑止を基本とする安全保障政策、日米同盟の安定性を担保し、事実1968年の外交政策企画委員会において日本の核武装につき議論した記録においては、高速増殖炉をただちに核武装できる手段として位置づける表現もあるという。(NHK スクープドキュメント「“核”を求めた日本~被爆国の知られざる真実~」)
  
 昨今、世界的な「核軍縮」を推進する上で多用されている「唯一の被爆国」日本。しかし、原子力政策について見ると、日本は、核兵器保有国以外でウラン濃縮や再処理などの「機微核技術を保有する唯一の国」にほかならない。この意味で、六ヶ所再処理場など核燃料サイクル事業は、日本の原子力政策の根幹をなしているが、今回の原発事故はそのような原子力の「平和利用」の矛盾を露呈させるまでには至っていない。これまでの日本社会における原子力の「平和利用」に関する世論や言説は、原発の「安全神話」と並んでまさしく「神話」そのものであり、軍事利用との一体性についてはタブー視されてきた。しかし、私たちは従来の原子力の「平和利用」を見直し、「国家安全保障」のための原子力の公理(吉岡)という暗黙の政治的前提を問い直す岐路に立っているのではないだろうか。(文責:隅田聡一郎)

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1 コメント

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核エネルギーの罪と罰 (iggris5)
2011-04-21 19:57:43
核エネルギーは科学者にとって、悔恨の所産であったのではないかと思う。核の膨大な力を先ず、戦争終結の大義とは言え大量破壊兵器として開発、使用に加担した事である。開発者たちは達成感と同時に、パンドラの箱を開けてしまった罪悪感に苛まれたのである。幾多の科学者の懺悔の声明を見聞していると、彼らの良心が時の国家、政府を動かし、平和利用を通して贖罪しているように思えてならない。。
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