絆の法則

澤谷 鑛

さだまさしのおばあちゃんの思い出

2010-01-09 | Weblog
★ヒロ!
 
いまだに苦い思い出として残っているのは、小学一年生のときの僕の誕生会。
僕を一番可愛がっていた祖母から「マー坊の一番好きなものをプレゼントするよ」と言われていて、これはすごい物をもらえるぞと期待していた。
そしたら色とりどりのご馳走が並んでいるテーブルの上に、山盛りのおにぎりがあった。でもそのおにぎりは、その場の雰囲気にまったくそぐわないんだな。
おばあさんのおにぎりは、さださんの大好物で、お腹がすくと「おばあちゃん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいたのです。
さださんのおばあさんはいつものおにぎりを作って、豪勢な料理の並ぶ中に置きました。
小学一年生の子供が、おばあさんの胸のうちを理解できるわけもなく、彼はおにぎりに手もつけず友達と遊びに出て行ってしまいました。豪勢な料理の皿は平らげられ、手付かずのおにぎりの山だけが残りました。
なんとなく子供心にも気にかかりながら家に帰ると、祖母が薄暗い土間の食堂でそのおにぎりを崩しながらお茶漬けにして食べているんですよ。
それを見た途端、「今から食べるけん」とかなんとか言ったんだけど、「そんなに気をつかわんでもいいから」って、祖母は厭味一つ言わなかった。
僕は子供心にも、自分がいかに祖母に酷なことをしたんだろうと思って、泣きながら二つばかりムシャムシャ食った記憶が今も鮮明に残ってるんです。
『精霊流し』(幻冬舎文庫) 解説から

 
 
 

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5 コメント

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おにぎり (三谷和英)
2010-01-09 08:03:39
厭味一つ言わないおばあちゃんと、泣きながら食べる、さだ少年・・・

苦い思い出ではあるけれど、あたたかい気持ちにさせられるお話ですね。

双方に相手を思いやる気持ちがあるからでしょうか。
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想い (野乃花)
2010-01-09 21:42:35
 おにぎりのこめられたおばあさんの想いと、泣きながら食べる少年の想い。どちらの想いも暖かく、情景が浮かび涙がとまりません。
 愛を与えることも受け取ることも同じぐらい大切でどちらも心が暖かくなり、感動しました。
 「何か人にしてあげること」に続き、多くの感動をありがとうございました。
 友達からのメッセージ・さだまさしのおばあちゃんの想いでからのメッセージを受け取られているヒロさんは素敵だな~と思います。
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ハマナスの歌 (紅林千賀子)
2010-01-10 00:06:37
>「そんなに気をつかわんでもいいから」って、祖母は厭味一つ言わなかった。

これを拝読して、私は約2年前の2月15日にこのブログに掲載された・・・
忘れもしない詩を思い出しました。

澤谷先生の師である詩人・浅野 晃先生の「ハマナスの歌」です。

http://kizunanohousoku.blog34.fc2.com/blog-date-20080215.html

厭味ひとつ言わないそのお婆さんは、もうそれすら捨てている・・・

可憐なハマナスの花と無邪気な子どもの姿を歌われた、忘れもしない「ハマナスの歌」。

最近、まるで印籠のようにメガネ屋さんで渡された、老眼鏡を掛けながら^^
ご文書を拝読し、ハマナスの花になりたい・・・そう思いました。

★ヒロ!さん
またまた素晴らしいお話をありがとうございました!
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純粋なおばあちゃんの真心 (山さん)
2010-01-10 07:50:43
あまりにも純粋無垢な愛情を示されたおばあちゃん。
そこには何の打算や体裁繕いもない。
「そんなに気をつかわんでもいいから」って厭味一つ言わなかったのも、本当の愛情からの行動だからだったからであろうと。

だからこそ、残ったおにぎりをお茶漬けにして食べるその後姿に、少年はその真の愛情を感じ取り、泣きながらおにぎりを食べたのでしょうね。
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子どもの命を育てる愛。 (さくらみるく)
2010-01-12 18:00:15
誰でも、まだ未熟な子どもの時にはひとつやふたつはこのような経験をしているんだと思います。誰の胸にもきっと、触れるとちくりと痛い思い出が詰まっている。だからこのような話を読んで、もらい泣きしてしまうのですね。

さださんは、おばあちゃんを悲しませたことに気付いて、泣きながらおにぎりを食べた。そんなことをしても取り戻せない、償いきれない。だから泣きながら食べた。

でも、自分が傷つけてしまったことにさださんはお気付きになれた。気付けるお心をお持ちであったのですね。それが素晴らしい。その痛みはきっと一生さださんの心に残り、一生さださんの優しさとなって、たくさんのたくさんの人の心を癒やし満たす源になったのでしょう。


子どもの優しさとは、このおばあちゃんのように、押し付けることも主張することもない無条件の受容や包み込むやさしさで育つのでしょうか。静かにただ傷つけられても微笑むことができる、責めることのない大きな愛が子どもの命を育てるのでしょうか。

前の日記で書かれていた男性とこのおばあちゃんとが、重なって感じられました。

わたしもまた、このような愛を受けてきた。このような愛に包まれてきた。お手伝いで住み込んでくださっていた優しいおばあちゃんにはお子さんがおられず、使用人の遠慮が無くなることはなかったものの、本当に母のように愛していただいた。

母がいない寂しさから、わたしはこのおばあちゃんによく当り散らしました。それは、何を言っても受け止めてもらえるという安心感があったからなのでしょう。ずいぶんとひどいことを言った記憶もあり、悔やんでも悔やみきれません。大きな大きな愛で、包まれ生かされていた。どんなわがままも許されていた。そして、そのおばあちゃんの愛は、そのまま、母の愛でもあったのだと今ならばわかります。

大きな大きな愛の中で生かされていたことに、改めて気付かせていただきました。ありがとうございました。
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