判決
フェニキア皇国の少年ドランが日本に住むようになって半年ばかりのことだった。彼は新宿紀伊国屋書店で「文學界六月号」を買うと、その足で大久保の早稲田大学理工学部キャンパスに向かった。学生読書室に潜り込みそこでゆっくりと文芸誌を堪能するのが、毎月一日の愉しみだった。JR山の手線池袋方面行きの車内は異常なしという感じの、午後三時に見合った込み具合と抑制された喧騒であり、後三十分もすれば始まるだろう充実した紙の感触とレトリックとの戯れが齎す愉悦への期待高まる想像を少しも阻みはしなかった。また、車体の揺らぎに似た揺れが彼の心を転がしもし、その軌跡の囲った分だけ胸も膨らむのだった。五分後、高田馬場駅に着き、缶ジュースの栓を引いた時のような音を立ててドアが開くと、もはや不安の換わりに畏れだけしか抱えられない不満と憂いを含んだ顔をしたスーツ姿の男女が妙に抑圧された足取りで車内に乗り込んできた。少なくとも彼にはそう見えたということであり、それらと入れ違いに彼は目を輝かせながらホームに足を降ろし、連続した動作で進み、そして階段を下っていった。理工キャンパスには戸山口からの方が近いが、彼はいつも早稲田口に向かう。なぜならば、早稲田口の東側のロータリー前にある「甘栗太郎」で甘栗を一袋買うというのもまた彼の愛している習慣だったからだ。間もなくすると、十ばかりの自動改札が並んでいるのが目に入る。自動改札は一方通行になっているものが多く、出るには右側の、有人改札から遠い方を利用することが多い。甘栗の触感と紙面の感触の想起から口腔に込み上げてくる涎を、まるでスプーン競争のように、こぼすまいとして足を速めて改札口に向かった。しかし、その時妙に明るく光るものの気配を彼の角膜はその右端において感知してしまった。歩を緩め、前方右下に目を遣ると、改札口の隅に壁に向かい合う形でしゃがんでいる二十前後の女の姿があった。
ドランに対して背中を向けてしゃがんでいる女は一人だった。黒髪をソバージュにし肩甲骨の辺りまで伸ばしていて、背は低く、白黒のボーダーのティーシャツに細身のジーンズを履いていたが裾を折っていた。腹にくすんだ赤のカーディガンを抱きかかえており、両手を膝頭に乗せ、顎を少し上げて何かを見詰めているようであるが、視線の先には乳色の汚れた細かいタイルがあるだけだった。横顔は青白いがこけてはおらず、寧ろ全体的に線の太い感じがするため、不健康というよりも化粧が濃いという印象が先立つ。口紅は真っ赤で、舞妓の劣化コピーという観さえある、要するにイマドキから若干脱落してしまったような出で立ちだった。したがって、どんなに彼女自身の肌が陰気な白光を放とうとも、少年の目に留まるような存在ではなかった。少年ドランの目が感知してしまった光とは、ずり落ちたジーンズから半ば剥き出しになった彼女の尻にへばり付いているショーツの生地と形によるものだった。いわゆるティーバックであり、グリーンのサテン地にレースをあしらったそれは彼女の尻の裂け目の線を、その暗がりへと続く道筋を華美に強調しているという類いの役割しか果たしていない。それを彼女は余りにも鈍感にこの人の行き交いの前において晒し続けているのだった。人々の誰として、咎めるものはないが、既に立ち止まってしまっているドランが観察するには、その内の少なくない者が気づいていはいるし、中には何食わぬ顔をして通り過ぎた後に振り向いてもう一度確認しては名残惜しそうに、未練を背中に残しながらホームへと向かう流れに飲まれていく中年男の姿さえ確認されるのだった。
ティーバックはいわば公衆の面前で野糞の姿勢をとっている女の尻、まだ残る昨年度の寒風に鳥肌が粟立っている青白い皮膚の上で人口的な光と曲線による造形的な異彩を放っていた。そして、それはドランの母国フェニキア皇国皇帝フェノメノ二世が頭に戴く冠を逆さにしたのに似ていた。フェノメノ二世の老獪な笑みと柔らかな金色を帯びた白髪の上に輝く国家において最も価値ある装身具と、日本の野暮ったい女が暴露してしまった秘めたる大胆さの象徴との類似性。それを感じてしまった自分。ドランはえもいわれぬ屈辱感を覚えた。フェノメノ二世が城の窓から手を振り見下ろす庭園に集う兵士たち、その中には彼の父親も混じっている。屈強な男どもの歓声が、あの女の排泄器に纏わりつく布製の冠に注がれている。あるいは、あの女が脱ぎ捨て、まだ体温の残る蒸れた下着を頭に被る老いた皇帝の微笑とその深みに安寧としている皇国の民……。勿論、少年にとってイメージは漠然としたものだった。しかし、まだ幼い彼の精神には、現に起こっている血液の逆流感と頬の火照りが全てだった。
彼は、小刻みに震え、気を抜くとへたり込んでしまいそうな程の脚の頼りなさを感じながら、女ににじり寄っていった。
「きみ、パンツが丸見えですよ!」
声を絞り出し中途半端な言葉使いで恥じらいについて諭す少年は、年上の女にとってどのように見えただろうか。振り向いた目は一瞬戸惑いを顕しはしたが直ぐに愛玩動物に対するような眼差しへと変わった。そして、しゃがんだままドランの方に向き直ると、彼の頭を優しく撫で「ありがとね」と囁いた。彼女の掌が彼の頭髪の上を滑る感触にドランは戦慄した。それは、《日本の田舎臭い半ケツ女にいいこいいこされる紀伊国屋書店の袋を下げた子ども》という立場に対してなにやら甘美なもの看取してしまった瞬間だった。物理的には彼女のつけている香水の粒子が彼にそういう作用を及ぼしたからだったに違いないが、それはどうであれ、彼はまた同時にそういった女性における性的なもの、あるいは女性における母的なものとが奇妙に配合された香りを鼻から吸い込んでしまった自分をもやはり自覚したのだった。喜びの自覚による怒りは、往々にしてやりばのない暴力へと転化される。ドランは女の手を振り払うと走り出した。並ぶ自動改札機の一つに乗り上げると、変声期を迎えたばかりのか細い雄叫びを上げながら、紀伊国屋書店の緑のビニール袋から「文學界六月号」を取り出し、それをびりびりに破いて、辺りに撒き散らした。その年の「文學界六月号」は第百回文學界新人賞の結果が載っており、結局受賞作なしだった。ドランも「我が愛するフェノメノ妃」という作品を投稿していた。一次落ちだった。また、その号には花村萬月氏の「象の墓場――王国記XIV」が掲載されていて、話の後半はめくるめく日本的エロが展開されていた。しかし、その一切がドランの目に触れられることなく、遅咲きの桜の花弁が突風に吹き飛ばされるが如くに構内に飛散していった。引きちぎられた紙片のどれ一つにも「愛」の文字は含まれてはいなかったという。
つまり、これは去年の話なのだ。
フェニキア皇国の少年ドランが日本に住むようになって半年ばかりのことだった。彼は新宿紀伊国屋書店で「文學界六月号」を買うと、その足で大久保の早稲田大学理工学部キャンパスに向かった。学生読書室に潜り込みそこでゆっくりと文芸誌を堪能するのが、毎月一日の愉しみだった。JR山の手線池袋方面行きの車内は異常なしという感じの、午後三時に見合った込み具合と抑制された喧騒であり、後三十分もすれば始まるだろう充実した紙の感触とレトリックとの戯れが齎す愉悦への期待高まる想像を少しも阻みはしなかった。また、車体の揺らぎに似た揺れが彼の心を転がしもし、その軌跡の囲った分だけ胸も膨らむのだった。五分後、高田馬場駅に着き、缶ジュースの栓を引いた時のような音を立ててドアが開くと、もはや不安の換わりに畏れだけしか抱えられない不満と憂いを含んだ顔をしたスーツ姿の男女が妙に抑圧された足取りで車内に乗り込んできた。少なくとも彼にはそう見えたということであり、それらと入れ違いに彼は目を輝かせながらホームに足を降ろし、連続した動作で進み、そして階段を下っていった。理工キャンパスには戸山口からの方が近いが、彼はいつも早稲田口に向かう。なぜならば、早稲田口の東側のロータリー前にある「甘栗太郎」で甘栗を一袋買うというのもまた彼の愛している習慣だったからだ。間もなくすると、十ばかりの自動改札が並んでいるのが目に入る。自動改札は一方通行になっているものが多く、出るには右側の、有人改札から遠い方を利用することが多い。甘栗の触感と紙面の感触の想起から口腔に込み上げてくる涎を、まるでスプーン競争のように、こぼすまいとして足を速めて改札口に向かった。しかし、その時妙に明るく光るものの気配を彼の角膜はその右端において感知してしまった。歩を緩め、前方右下に目を遣ると、改札口の隅に壁に向かい合う形でしゃがんでいる二十前後の女の姿があった。
ドランに対して背中を向けてしゃがんでいる女は一人だった。黒髪をソバージュにし肩甲骨の辺りまで伸ばしていて、背は低く、白黒のボーダーのティーシャツに細身のジーンズを履いていたが裾を折っていた。腹にくすんだ赤のカーディガンを抱きかかえており、両手を膝頭に乗せ、顎を少し上げて何かを見詰めているようであるが、視線の先には乳色の汚れた細かいタイルがあるだけだった。横顔は青白いがこけてはおらず、寧ろ全体的に線の太い感じがするため、不健康というよりも化粧が濃いという印象が先立つ。口紅は真っ赤で、舞妓の劣化コピーという観さえある、要するにイマドキから若干脱落してしまったような出で立ちだった。したがって、どんなに彼女自身の肌が陰気な白光を放とうとも、少年の目に留まるような存在ではなかった。少年ドランの目が感知してしまった光とは、ずり落ちたジーンズから半ば剥き出しになった彼女の尻にへばり付いているショーツの生地と形によるものだった。いわゆるティーバックであり、グリーンのサテン地にレースをあしらったそれは彼女の尻の裂け目の線を、その暗がりへと続く道筋を華美に強調しているという類いの役割しか果たしていない。それを彼女は余りにも鈍感にこの人の行き交いの前において晒し続けているのだった。人々の誰として、咎めるものはないが、既に立ち止まってしまっているドランが観察するには、その内の少なくない者が気づいていはいるし、中には何食わぬ顔をして通り過ぎた後に振り向いてもう一度確認しては名残惜しそうに、未練を背中に残しながらホームへと向かう流れに飲まれていく中年男の姿さえ確認されるのだった。
ティーバックはいわば公衆の面前で野糞の姿勢をとっている女の尻、まだ残る昨年度の寒風に鳥肌が粟立っている青白い皮膚の上で人口的な光と曲線による造形的な異彩を放っていた。そして、それはドランの母国フェニキア皇国皇帝フェノメノ二世が頭に戴く冠を逆さにしたのに似ていた。フェノメノ二世の老獪な笑みと柔らかな金色を帯びた白髪の上に輝く国家において最も価値ある装身具と、日本の野暮ったい女が暴露してしまった秘めたる大胆さの象徴との類似性。それを感じてしまった自分。ドランはえもいわれぬ屈辱感を覚えた。フェノメノ二世が城の窓から手を振り見下ろす庭園に集う兵士たち、その中には彼の父親も混じっている。屈強な男どもの歓声が、あの女の排泄器に纏わりつく布製の冠に注がれている。あるいは、あの女が脱ぎ捨て、まだ体温の残る蒸れた下着を頭に被る老いた皇帝の微笑とその深みに安寧としている皇国の民……。勿論、少年にとってイメージは漠然としたものだった。しかし、まだ幼い彼の精神には、現に起こっている血液の逆流感と頬の火照りが全てだった。
彼は、小刻みに震え、気を抜くとへたり込んでしまいそうな程の脚の頼りなさを感じながら、女ににじり寄っていった。
「きみ、パンツが丸見えですよ!」
声を絞り出し中途半端な言葉使いで恥じらいについて諭す少年は、年上の女にとってどのように見えただろうか。振り向いた目は一瞬戸惑いを顕しはしたが直ぐに愛玩動物に対するような眼差しへと変わった。そして、しゃがんだままドランの方に向き直ると、彼の頭を優しく撫で「ありがとね」と囁いた。彼女の掌が彼の頭髪の上を滑る感触にドランは戦慄した。それは、《日本の田舎臭い半ケツ女にいいこいいこされる紀伊国屋書店の袋を下げた子ども》という立場に対してなにやら甘美なもの看取してしまった瞬間だった。物理的には彼女のつけている香水の粒子が彼にそういう作用を及ぼしたからだったに違いないが、それはどうであれ、彼はまた同時にそういった女性における性的なもの、あるいは女性における母的なものとが奇妙に配合された香りを鼻から吸い込んでしまった自分をもやはり自覚したのだった。喜びの自覚による怒りは、往々にしてやりばのない暴力へと転化される。ドランは女の手を振り払うと走り出した。並ぶ自動改札機の一つに乗り上げると、変声期を迎えたばかりのか細い雄叫びを上げながら、紀伊国屋書店の緑のビニール袋から「文學界六月号」を取り出し、それをびりびりに破いて、辺りに撒き散らした。その年の「文學界六月号」は第百回文學界新人賞の結果が載っており、結局受賞作なしだった。ドランも「我が愛するフェノメノ妃」という作品を投稿していた。一次落ちだった。また、その号には花村萬月氏の「象の墓場――王国記XIV」が掲載されていて、話の後半はめくるめく日本的エロが展開されていた。しかし、その一切がドランの目に触れられることなく、遅咲きの桜の花弁が突風に吹き飛ばされるが如くに構内に飛散していった。引きちぎられた紙片のどれ一つにも「愛」の文字は含まれてはいなかったという。
つまり、これは去年の話なのだ。
うわーん!
面白れぇ!
東京にはいろんなオナゴがおるんだなぁ……
さんさんの方も読んできました。
続きがあるんですね。僕も続きを作ろうかなと思ったのですが、残念ながら今週は時間が取れそうにありません;;
潮さんへ
有難うございます。
東京には色んなイナゴが大量発生しておりますー
といった感じですね。でもまあザクからネモになったといった印象でしょうか。
物書きが文章を綴るとき、それが如何なる状況、状態であってもその人の力量がどうしても本質として姿を現します。
この作品は、身内で受けるネタ文に過ぎませんね。この程度のクオリティでは確かに鍛錬場に出すのはキツイと思います。寧ろ投稿されない方が良いでしょう。読まれる方が苦痛を覚えると思います。でも私は読むでしょう。もし鍛錬場にざっくんさんの作品が出れば。その男気を買って。
女のケツを見たという現象を回りくどく、自慰的に綴った妄想日記。それがこの作品を読んでの感想です。それでは、失礼致します。
あの、もし投稿しても読んでもらわなくて結構です。
少なくともあなたのような読者を想定してはおりません。
あなたのような読者とは、要するに非常に感情的で、自らの偽善的な態度に余りにも無反省な人のことです。
なぜ、偽善か? それは、今回あなたが「鍛練場投稿作品/作者を擁護しているかのように見せかけて、実は自分の僕=さっくんに対する不満をぶちまけたいだけというのが見え透いている態度」を根拠にしています。実はご自身でもこの論理のすり替えに似た構造を理解してらっやらないかもしれませんが。
僕が最初にあなたに対してそらまめさんの感想欄で言ったことの意味が分かってらっしゃらないようなので説明しますと、あなたの発言は凡そ僕に対する私怨によってなりたっています。なぜかは知りませんが、それは実際にあなた自身が僕のことを煽ったと明言されていることからも分かります。
確かに形の上では最初は、僕のそらまめさんの感想欄における発言の一部に「非常に憤りを感じて」のもののように見せていますが、それ以降は、僕の発言内容よりも、僕個人の、発言とは関係のないところに対する罵詈に終始しています。これは議論のすり替えというよりも、寧ろ、前々から僕に突っかかる機会を窺っていたと考える方があっているでしょう。こういうのは、一般的にごはんのような場ではマナー違反とみなされるべきものです(特定個人に対する自覚的な攻撃)。
世の中にはいろんな人がいます。だから、あなたのようなちょっと外れた人がいるのも許容はします。しかし、僕個人がその全部を引き受けるわけにはいかないのです。
最後に一つ。ご忠告です。
私が上とこちらに書いたコメントはあくまでも一読者としての見識です。なので、決して削除することの無いよう、申し上げます。
作家には読者を選ぶ権利はありません。
もし私に読まれたくないという気持ちがあるなら、それは身内だけで誉めそやされたいという貴方の傲慢です。私からのコメントを削除するという事は、貴方が作家として、一読者の見解から逃げた事になります。逃亡の烙印となります。
作家を本気で目指しているのであればご理解頂ける事かと思います。
というわけで、さようなら。
>あくまでも一読者としての見識
はよく免罪符として使われますが、今回僕はあなたの悪意をそれなりに立証した上で、あなたの一連のコメントを荒らしに類似したものとして削除すると言っているのです。
したがって削除します。もし、それが厭ならば、悪意のないことを説明してください。それ以降の一読者云々はそれこそあなたの言っている「論理のすり替え」に他なりません。
>一読者の見解から逃げた事になります
こう言った詭弁もよく使われますね。
もし、僕のそらまめさんの感想欄においてつけられたコメントも「鍛練場投稿策の一読者の見解」ならば、どうしますか?
僕は少なくともあなたよりはそういった欺瞞的な態度に対して敏感なようです。あなたよりかは自覚してそういった表現を極力避けるようにしています。
僕は、あくまでも「あなた」一人を忌避しようとしているだけです。(あなたが巧みにすり替えているように)一読者の延長線上にある読者一般から逃げているわけではありません。
そして、いい意味で悪意が魅力だと感じました。イタい人間を描写するのが上手ですね。嫌悪って共感しますから、いいと思います。イタい人間、劣る人間、そういう人間をどんどん書いていけばイイのだろうなと。。
ちょっと話ずれますが。ごはんで若そうな人が、生理的嫌悪を感じる人間を殺害する話を書いてたりしますよね。そういうの読んで、馬鹿だな、と思ったりするんですよね。「本当は嫌っちゃいけないんだ」と言う世間的思考をしている子が「でも自分は悪意を書けたぞ、強いだろ」という自惚れ感が伝わってくるんですよね。
でも、さっくんなら、そっち系を書いても自惚れなんてせずに、冷静に淡々と、上手に書けちゃう方だと思ったりしました。なぜか作家の場合、常識人。つまり社会性に優れ強い人のほうが、そういうのが書くと上手ですよね。さっくんもそういうタイプだと感じました。
で、言い争い。相手、明らかにイチャモンだね。
(でも、さっくん。ウキウキしてなぁい?)
最近はまた文章が硬質化してきているのですが、以前と違うところは、愚かさに対する愛着というか、文体に愛嬌を持たせようとしているところかな(そんなに意図的なものではなく、書いていく内にそうなったのですが)? などと思っています。
僕に社会性があるかどうかは分かりませんが、もし僕が
>「本当は嫌っちゃいけないんだ」
と思っているとしたら、全力でそれを伝えようとしますね。そこら辺がもしかしたら、ゆふな さきさんが「馬鹿だな」と思われる方との違いかもしれません。
とは言え、もう少し詳しくは、僕の場合「~しちゃいけないんだ」「~しなくちゃいけないんだ」というのがそもそもなく、瞬間的な感覚に非常に重きを置います。
この多様化した世の中、常識がない、というか、一歩引いて常識を見詰めることこそが常識的なのかもしれませんね。
>(でも、さっくん。ウキウキしてなぁい?)
はい。何でも勉強ですから。