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日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について--NO4

2006-07-03 00:45:03 | 鶴の友について

NO1~NO3で、鶴の友のおおまかな実像が少しは分かっていただけたでしょうか。

新潟市に、鶴の友とJリーグの新潟アルビレックスの熱狂的なファンの”ビジネスホテルの親父さん”がいます。ジーコがいたチームのある県の県民である私は新潟アルビレックスの件にはまったく関わりはありませんが、鶴の友の件については多少の”責任”があります。

昭和50年代半ばより酒販店として、新潟の酒に関わってきた私は、平成3年に”家庭の事情”で実家を出て今の会社に入ることになりました。入社直前のその年の3月に、お付き合いのあった八海山、〆張鶴、千代の光、久保田(朝日酒造)の各蔵元に、今までのお礼を申し上げるのと、”業界”を去る報告をするために新潟を回りました。

 取引は無かったものの、新潟市に行くたびに蔵におじゃましお話を伺っていた鶴の友の樋木尚一郎社長にも、ご迷惑にならない程度に最後に一言だけご挨拶をしてその足で、帰路に着くつもりでした。しかし、新潟県最終のその日お忙しい〆張鶴 宮尾行男専務(現社長)に午前中に少しお時間をいただき午後には新潟市へ移動する予定だったのですが、私の後にも来客のご予定のあった宮尾専務に代わって宮尾隆吉社長(故人)が別れを惜しんでくださり(大変にありがたいことで、今でも昨日のことのように覚えています)、新潟市に着いたときにはすでに夕方になっていました。

内野の樋木酒造にたどり着いたときには、もう6時を回っていました。遅くなったお詫びと今までのお礼を申し上げてすぐに帰るつもりだった私に、「Nさん、このすぐ先の寺尾にうちの酒のファンでビジネスホテルをやっている人がいる。お世話になっているのだが、私が泊まるわけにもいかない。ちょうどいい機会だから、Nさん、あなた私の代わりに泊ってくれませんか」と樋木社長が言われ、そうゆうことになってしまいました。

ホテルに行くまでの3~4時間食事を間に挟んでいろいろな話を伺い、私も自分でも驚くほど率直な本音を申し上げました。その最後に樋木社長はきわめてさりげなく、「Nさん、人の生き方にはいろいろあると思いますが、私は二つのことがあればいいと思っている。ひとつは、一生懸命に仕事をして女房子供を養う。もうひとつは、その仕事が人様に迷惑をかけないもので、ほんの少しでもいいから周囲の人のお役に立てる仕事であること。この二つがあれば私は生きていけると思っているんです」と、私が今でも忘れられない言葉を私に向けて言ってくださいました。

ホテルに着いたのは11時ごろだったと思います。このホテルの親父さんは元新聞記者(この時点ではまだ現役で二足のわらじを履いていました)で、大変面白くまたある種の”凄さ”のある興味深い人でした。朝から動き回り、宮尾専務、宮尾社長、樋木社長とお会いし話し続けてかなり疲れていたのに、なんと朝の3時までこの親父さんと話続けることになってしまいます。もともと鶴の友のファンだったこの親父さんに結果的に”新潟以外での評価”という視野と、その酒質の凄さの”客観的”評価を意図せずに与えてしまい、”火に油を注ぐ”結果となってしまったのです。 樋木社長も苦笑いせざるを得ないこの親父さんの”熱狂のステップアップ”を私が助けてしまったのです。

今でも、私が新潟市に行ったときの”定宿”はこのホテルです。だだ私ももう若くありませんので朝の3時は勘弁してもらっています(親父さんのほうがはるかに元気です)。

私はこの時、新潟には2度と来ないつもりでした。日本酒の世界から”足を洗い”完全に離れるつもりで、仕事も酒に無縁の職場を選んだのです。しかし、〆張鶴の宮尾さんや千代の光の池田さんの対応のやさしさに”揺らぐもの”が私の中にありました。その”揺らぎ”が最大になったのは鶴の友においてです。

〆張鶴や千代の光はご迷惑をお掛けするだけにせよ十数年のお取引がありました。しかし鶴の友はお取引も無く、ただ樋木社長にご迷惑をお掛けしているだけの”関係”だったのです。 樋木社長も、宮尾専務(当時)や池田常務(当時)同様に私の”悲壮な決意”を察していました。いかに曲げられない”家庭の事情”があったにせよ、十数年一緒にやらせていただいて成功を目前にしたこの時期に、”敵前逃亡”に等しい離脱をするのですから、もう二度と新潟の皆様に顔を会わせられないと私は”思い込んで”いたのです。これが最後と思って新潟に来ていたのです。

前述の樋木社長のお言葉は、その”私の気負い”を正面からは否定することなく、やんわりと包み込んで取り除くようなものでした。翌日、半分寝ている状態でチェックアウトをしようとした私は、支払いが昨日のうちに樋木社長によって済まされていることを知りました。

その足で再度蔵を訪ねました。宿代の件はまったく採りあってもらえず、そのまま本物の囲炉裏のある部屋で樋木社長のお話を伺うことになりました。 「Nさん、酒を売るのが仕事という立場から離れるのは悪いことばかりではないですよ。仕事だと、商売上の”政治的立場”やしがらみがあって、自分の本当の思いどうりには動けないことがあるでしょう。個人の趣味なら、本音だけで走れるでしょう。この十数年、Nさんは酒販店としても普通ではない経験とキャリアを積み重ねてきた。それで得たものがあなたの周囲の”庶民の酒飲み”の役に立つんじゃないですか。”ボランティア活動”としてあなたの知識を活かしたらいいんじゃないですか。そのための応援はもちろん私もするし、宮尾さんや池田さんもしてくれるんじゃないかなぁ」-----何回も何回も繰り返して、樋木社長は私に諭すように言ってくださいました。

現在の私は、”足を洗う決意”や”気負い”が本当にあったのかと自分でも疑うほど”ボランティア活動”にいそしんでおります、いつか”業界”に帰る日が来るだろうことを予感しながら-----。

樋木酒造の蔵と住居は、樋木社長といえども勝手にいじれない、文化財に指定されています。ゆえに残念ながら、鶴の友は減ることはあっても増えることの無い状況にあります。尊敬する大先輩の早福岩男さんがかつて、「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」と言われたことがあります。樋木社長にとって何の得もないマイナスでしかない私への対応ひとつとっても、早福さんの言葉は本当にそのとうりだと実感できます。矛盾が矛盾では無くひとつの酒の中に同居している、あの素晴らしく不思議な鶴の友の酒質は、酒の神様の樋木家の人達の”心の置き所”へのプレゼントだと私には感じられてなれません。

誤解を恐れずに言うと、すべての”庶民の酒飲み”に鶴の友を飲んでもらいたいと思っているわけではありません(量の限界があり事実上それは無理ですが----)。飲める人の数に限界があるがゆえに、新潟市以外の数多くいる”庶民の酒飲み”の中でも、本当に鶴の友の価値が分かる人だけに飲んでもらいたいのです。思い上がりかもしれませんが、それが私の本音です。このブログは鶴の友を飲むべき人で、まだ鶴の友に出会えていない”庶民の酒飲み”のために書いているのですから------。