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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-3--NO5

2010-10-12 19:08:30 | 鶴の友について

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8月21日に続いて、9月15日の夕方に再び私は新潟市西区内野町にある鶴の友・樋木酒造を訪れました。

この日の朝5時半に出発した私は、常磐道、磐越道、日本海東北道を経由し10時ごろ村上市にある〆張鶴・宮尾酒造に到着しました。
村上にも〆張鶴・宮尾酒造にも宮尾行男社長にも10年以上ごぶさたしていた私には、色々な思いがありました。
何回かのFAXの往復でお忙しい宮尾行男社長の日程の中に私の9月15日の訪問を入れて頂き、2時過ぎまで宮尾行男社長のお話を伺うことができました。
(〆張鶴行きのことはいつになるか分かりませんが、〆張鶴について--NO3という名前の記事で書くつもりです)

当初はその1日しか休みがなかったので、そのまま帰途につく予定だったのですが、直前になって翌日の16日も急遽休みになったためご都合を伺うため電話で連絡させていただいたところ、夕方にお邪魔することになったのですが、さらに前日に樋木尚一郎社長から15日の夕方から16日の”予定”のご連絡を頂いていたのです。

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2時半ごろに村上を出て神林岩舟ICから日本海東北道に入り新潟中央JCTから関越道をひと区間だけ利用し新潟西ICから、日本海東北道より走りやすい高架で片側2車線の新潟西バイパスに入り、高山ICで降り3時半ごろには鶴の友・樋木酒造に到着しました。

私のように直接取引関係の無い人が訪れることの多い樋木酒造ですが、この日も取引の無い某酒類大手メーカーの方と一緒になり、なかなか聞けない面白いお話しを伺いました。

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私が酒販業界を離れた平成3年にその報告のため新潟県を訪れ、今回と同様に村上の〆張鶴・宮尾酒造から鶴の友・樋木酒造に移動してきたとき泊まった宿が上記のホテルです。

新潟市に、鶴の友とJリーグの新潟アルビレックスの熱狂的なファンの”ビジネスホテルの親父さん”がいます。ジーコがいたチームのある県の県民である私は新潟アルビレックスの件にはまったく関わりはありませんが、鶴の友の件については多少の”責任”があります。

昭和50年代半ばより酒販店として、新潟の酒に関わってきた私は、平成3年に”家庭の事情”で実家を出て今の会社に入ることになりました。入社直前のその年の3月に、お付き合いのあった八海山、〆張鶴、千代の光、久保田(朝日酒造)の各蔵元に、今までのお礼を申し上げるのと、”業界”を去る報告をするために新潟を回りました。

 取引は無かったものの、新潟市に行くたびに蔵におじゃましお話を伺っていた鶴の友の樋木尚一郎社長にも、ご迷惑にならない程度に最後に一言だけご挨拶をしてその足で、帰路に着くつもりでした。しかし、新潟県最終のその日お忙しい〆張鶴 宮尾行男専務(現社長)に午前中に少しお時間をいただき午後には新潟市へ移動する予定だったのですが、私の後にも来客のご予定のあった宮尾専務に代わって宮尾隆吉社長(故人)が別れを惜しんでくださり(大変にありがたいことで、今でも昨日のことのように覚えています)、新潟市に着いたときにはすでに夕方になっていました。

内野の樋木酒造にたどり着いたときには、もう6時を回っていました。遅くなったお詫びと今までのお礼を申し上げてすぐに帰るつもりだった私に、「Nさん、このすぐ先の寺尾にうちの酒のファンでビジネスホテルをやっている人がいる。お世話になっているのだが、私が泊まるわけにもいかない。ちょうどいい機会だから、Nさん、あなた私の代わりに泊ってくれませんか」と樋木社長が言われ、そうゆうことになってしまいました。

ホテルに行くまでの3~4時間食事を間に挟んでいろいろな話を伺い、私も自分でも驚くほど率直な本音を申し上げました。その最後に樋木社長はきわめてさりげなく、「Nさん、人の生き方にはいろいろあると思いますが、私は二つのことがあればいいと思っている。ひとつは、一生懸命に仕事をして女房子供を養う。もうひとつは、その仕事が人様に迷惑をかけないもので、ほんの少しでもいいから周囲の人のお役に立てる仕事であること。この二つがあれば私は生きていけると思っているんです」と、私が今でも忘れられない言葉を私に向けて言ってくださいました。

ホテルに着いたのは11時ごろだったと思います。このホテルの親父さんは元新聞記者(この時点ではまだ現役で二足のわらじを履いていました)で、大変面白くまたある種の”凄さ”のある興味深い人でした。朝から動き回り、宮尾専務、宮尾社長、樋木社長とお会いし話し続けてかなり疲れていたのに、なんと朝の3時までこの親父さんと話続けることになってしまいます。もともと鶴の友のファンだったこの親父さんに結果的に”新潟以外での評価”という視野と、その酒質の凄さの”客観的”評価を意図せずに与えてしまい、”火に油を注ぐ”結果となってしまったのです。 樋木社長も苦笑いせざるを得ないこの親父さんの”熱狂のステップアップ”を私が助けてしまったのです。

今でも、私が新潟市に行ったときの”定宿”はこのホテルです。だだ私ももう若くありませんので朝の3時は勘弁してもらっています(親父さんのほうがはるかに元気です)。

鶴の友について--NO4より引用(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20060703

平成3年以来数回泊まらせてもらったのですが、満杯で泊まれなかったときもあり、また最後の新潟行き(前回)は事情があり西堀のホテルイタリア軒に泊まったため、ホテル寺尾に宿泊するのは十数年ぶりだったのです。
最初に泊まったときは中央の建物の7室だけだったのですが、最後(前回)に泊まったときは右隣りに新館が建っていて、今回は左隣りもホテル寺尾の敷地になっていました。
樋木尚一郎社長から話としては伺っていたのですが、実際に自分の目で見ると、「恐るべし!ホテル寺尾の親父」という心境になります。
元々家庭的な対応で、仕事で長期滞在するお客さんが多かったのですが、部屋数が拡大した現在も仕事で新潟市に来る人にはありがたい人気のある宿のようです。

チェックインし車を置いて、樋木尚一郎社長の運転するお車で新潟市の繁華街に向かいました。
目的は西堀のホテルイタリア軒の向かい側にある、”てんぷらの田さき”さんです。
”てんぷらの田さき”さんの取り扱う日本酒は、ほとんど鶴の友だけと言っても過言ではないほど「フルラインで鶴の友が揃って」います。
鶴の友の中でも一番数の少ない大吟醸の”上々の諸白”も、ここに無ければどこにも有りません。
私は樋木尚一郎社長と数回ご一緒させていただいただけですが、鶴の友・樋木酒造の価値の本質を良くご存知のご夫婦がされているお店-------そんな印象を強く受けています。
鶴の友のファンには大変ありがたいお店ですので、新潟市にお出かけの際はお寄りになることをお薦めいたします。


ホテル寺尾には早めに帰ってきたのですが、10時ごろから親父さんと鶴の友別撰を飲みながら色々な話をさせていただきました。
もう八十に近い年齢でありながら相変わらずこちらがあおられてしまうような元気ぶりです。
10年分の話をしているうちにあっという間に12時になってしまい、昔と違い親父さんもご家族から健康面を強く注意されているようで、お互いに無理をせずお開きとなったのです。


翌日は残念ながら朝から雨で、その天気が一日中続きました。
9時に鶴の友・樋木酒造に再び伺った私は、樋木尚一郎社長のご友人のF先生のご案内で、ある意味で現在の樋木尚一郎社長にとって一番大事な”仕事”と言える「観光立国、町おこし、景観保存のボランティア活動」の現場である新潟市西区そして西蒲区を三人で回らせていただくことになっていました。

詳しいことは省略させていただきますが、天候に恵まれなかったため、写真は一枚も撮れなかったのですが、樋木尚一郎社長から十数年電話で伺っていた「観光立国、町おこし、景観保存のボランティア活動」の実際を少しですが直接目にしその活動の輪の広がりとその活動の中での樋木尚一郎社長の存在感の大きさを私なりに実感させていただきました。

新潟市西区内野町の地酒の蔵に徹する鶴の友・樋木酒造は、「酒造りの範疇を大きく越えた酒造りにはまるで関係無い範囲」でも地元に大きく貢献している”地酒の蔵”なのです。


以前にも書いてることですが、私は日本酒に関わった人間としてはある意味できわめて恵まれていたと言えますが、別なある意味では”楽ではなかった”とも言えます。

恵まれていると思う面は、おそまつで能天気で若く未熟な私にとってはベストのタイミングでベストの蔵やベストの人に出会えたことです。
昭和五十年代初めに八海山と〆張鶴そして早福岩男さんに出会い、その1~2年後には千代の光と鶴の友に出会い、さらに伊藤勝次杜氏の生酛にも出会い”生酛そのものだけの発売”に関われたことなどがその代表例です。

では楽ではなかった面はというと、それも上に書いたことそのものなのです。
おそまつで能天気なおまけに酒販店としての”自覚”がまったく無い二十歳代前半の人間が、まだそれほど知られてなかったにせよ八海山、〆張鶴、早福酒食品店という”新潟淡麗辛口の最前線”にいきなり飛び出てしまったのですから、楽であるはずがないのです。
さらに自分の”人間としての出来具合や能力の無さ”を省みず鶴の友・樋木酒造に”当たって砕け散り”、淡麗辛口の対極にあったと思われる生酛にまで手を拡げてしまったのですから楽であるはずはなく、「日本酒の世界に入るんじゃなかった」と後悔したのは一度や二度ではなかったのです。

昭和五十年代初めから平成3年まで酒販店として自分が経験してきたことや積み上げてきたキャリアの価値の本質は、現役の酒販店時代の私はあまり分かっていなかったように思えます。
私本人は”自分なりの原則”からあまりぶれないように努めたつもりであっても、実際のところは次から次へ状況が変化する中でその状況にかろうじてついていくのが精いっぱいではなかったかと思えるのです。

現在の私から見ると、この「恵まれていたが楽ではなかった経験」は、16年以上日本酒業界を離れていることを含めて、昭和五十年代初めに新潟の蔵でよく出会った一回り以上年齢が上の”少数の日本酒大好きの酒販店仲間”の人達の中でもあまり無かったことだったと思えるのです。

年齢だけではなく酒販店としても”年季が入り熟成”していたこの方々は、新潟淡麗辛口やそれ以外の日本酒についても”シンプルに対応”していました------売れるかどうか、その酒があることが自分の店にとってプラスかというきわめて分かりやすい対応だったのです。
おそまつで能天気な私のように、まるで正反対のものを同時に抱え込んだり自分の人間としての出来具合の低さを自覚できずに「嶋悌司先生や鶴の友・樋木尚一郎社長に当たって砕け散る」ようなことをするには大人過ぎた人達ですが、それでも(人によりますが)10~30%の日本酒への愛情が70~90%を占めていた”商売優先の気持”と並立していました。
現在の酒販店、特に”久保田以後”に日本酒に関わった方は(尼崎の山本酒店・山本正和さんや牛久の松蔵屋・石田英雄君のような例外の方もいますが)
日本酒や日本酒に関わる人達への愛情が”ビジネスの中に埋没”しているように思え、私個人にはあまり感じることが出来ないのです。

私の周囲では今でも日本酒のファンが、増えるスピードが遅くても確実に増え続けています。
日本酒や日本酒を支える人達に対する説明のほとんどが、難しい専門用語を極力避け自分の体験したことを話すだけですので結果として分かりやいということもあると思うのですが、私自身の”日本酒の世界”に対する気持が伝わるから日本酒のファンになってもらえるのかなぁ------思い上がりなのかも知れませんが、私はそう感じています。

もし自分が思っていることが間違いでなければ、私の向いている”仕事”は
日本酒を大事に大切に売っていく酒販店だということになります。
事実もう昭和五十年代初めの新潟淡麗辛口を”自分の体験”として話せる人が少なくなり続けていますが、その体験の視点からの”私の感想”も少数の庶民の酒飲みの役に立つのかも知れません。
そしてそれ以上に、早福岩男さんや宮尾行男・〆張鶴社長、樋木尚一郎社長と本当に久しぶりにお会いしお話を直接伺えたことで、「この方々と”同じ業界”でささやかであっても一緒に仕事をさせてもらうのが自分にとって一番”自然な道”ではないか」------そんな気持に駆られているのです。

若き日の出会いからもう三十数年が経ち、私が業界を離れても変わらぬお付き合いをさせていただいた早福岩男さんや宮尾行男・〆張鶴社長、樋木尚一郎社長も現役を離れる時がはるかに遠い日ではなくなった今、私自身も若いころの”自分の原点”に立ち戻って酒販店の立場で、千代の光・池田哲郎社長も含まれた私にとって本当にありがたい存在の新潟県の方々と再度一緒に仕事をしたいと思っている自分自身に、私は改めて気ずかされたのです---------------。