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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

〆張鶴について--NO3

2010-11-06 00:10:21 | 〆張鶴について

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9月15日の朝5時半に出発した私は、常磐道、磐越道、日本海東北道を経由し10時ごろ村上市にある〆張鶴・宮尾酒造に到着しました。

十数年前に比べ新潟市から村上へ向かう”道路の状況”は良くなっていましたが、新潟市と比べると”違いがある”ことを改めて感じました。
現在日本海東北道が社会実験のため無料で走行台数が多かったわりには、新潟中央JCTから入り神林岩舟ICで降りるまでは順調に走れましたが、”ふつうの国道の高架のバイパス”である新潟バイパスや新潟西バイパスよりも走りにくいと私には思えます。
しかし以前のあちこちの道を細切れに駆使して渋滞を避けて走っていたのと比べると、遅ればせながら、かなり便利になっているとも私には感じられます。
新潟市から〆張鶴・宮尾酒造に1時間以内に到着することなど、私が現役の酒販店だったころには、とうてい考えられなかったことだったからです。

新潟市の”道路の環境の良さ”は、私個人の感想では「北関東では逆立ちしても勝てない」ほど優れたものに思えます。
それに比べると村上市の道路の環境は、けして不便ではありませんが、地方都市として「ごく普通でけして進んでいるとは言えない状況」だと私には感じられます。

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私が現役の酒販店のころには無かった(瓶詰めのための施設と大きな冷蔵保管庫で構成された)宮尾酒造第二工場の駐車スペースに車を置かせてもらい、歩いてすぐの昭和五十年代からその外観が変わっていない〆張鶴・宮尾酒造に向かいました。

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上記の写真は川の反対側から見た宮尾酒造ですが、私にとって三十数年前に見た”懐かしい景色”とほとんど同じ光景なのです。
〆張鶴・宮尾酒造が存在する村上市は全体として「歴史や伝統を守る環境に恵まれている」------私の”個人的体験”でもそのような印象を強く感じます。

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蔵の道路に面した入り口も、私の”記憶のまま”の〆張鶴・宮尾酒造でした。

〆張鶴について----という記事はふたつしかありませんが、鶴の友についてシリーズの中でも日本酒雑感シリーズの中でも、私は何回も〆張鶴と宮尾行男社長・宮尾隆吉前社長(故人)について書かせていただいています。
ひょんなきっかけでほぼ同時に八海山、〆張鶴・宮尾酒造そして早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に出会ったことが、「ここまで日本酒の世界に魅せられる」ことになるきわめて大きく決定的な出来事だったことは当時の私にはまったく想像できなかったのです。
現在から振り返ってみると、このとき既に今の私の「日本酒に対する感じ方と考え方の立場」はもう造られ始めていたのかも知れません。


私の新潟県と関わりの”原点”は、八海山のある六日町の隣町である塩沢町(現在は南魚沼市)にあります。
現在も塩沢在住の学生時代の友人Nから八海山のT専務(当時)、南雲浩さん(六日町けやき苑店主)に人の縁がつながり、その縁からさらに〆張鶴・宮尾酒造、早福岩男さんにまで本当に短い時間で六日町から村上市、新潟市へと縁がつながっていったのです。

もし南雲浩さんが〆張鶴・宮尾行男専務(当時)にすぐに会うことができるように”紹介”していただけなかったら、私は、早福岩男さんとの出会いもかなり遅れ千代の光の池田哲郎常務(現社長)とも”すれ違い”になったかも知れないと思えるのです。
そして〆張鶴という酒と宮尾酒造という酒蔵を昭和五十年代初めに知ることがなかったら、たぶん私は、伊藤勝次杜氏の生酛に関わることも鶴の友・樋木酒造の”価値の本質”を自分なりに知り自分なりに理解することなど不可能だったと思えるのです。

当時の〆張鶴は、(本醸造、純米、大吟醸も含めて)現在よりも淡麗で綺麗でありながらそれに一体化した絶妙の丸みとふくらみもあるバランスの美しさが特徴でしたが、「欠点が無いのが欠点、すべての部分で90点で平均90点の素晴らしい酒質だが、ある意味で”真面目が背広を着ているような”面白味の無い酒」との”感想”も一部にはありました。
その時代の八海山は〆張鶴とはまるで逆で、軽さと切れの良さとかろうじてそっけなくないと言えた”最小限のやわらかさ”を持つ、良い意味で”バランスの崩れた”、「ある部分が120点、ある部分60点で平均90点の分かりやすい酒質」の酒でした。

その時代の〆張鶴と八海山は、新潟淡麗辛口という言葉でひとくくりされた中でも、上記のような違いがあったのですが”その違い”は酒質だけではありませんでした。
どちらかと言うと八海山は分かりやすく〆張鶴はやや分かりにくい-------たぶん飲む側にはそんな評価があったと思うのですが、むしろ当時の私は〆張鶴・宮尾酒造の”姿勢”のほうが八海山・八海醸造より分かりやすく、軽さと切れを強調した”淡麗大辛口”とでも言うべき八海山の本醸造(それはそれで当時は素晴らしいものだったのですが)よりも、淡麗で切れの良さを持ちながらもやわらかな丸みとふくらみを持ち食べ物をも包み込んで一体となったバランス美が感じられた〆張鶴に強い魅力を覚えていたのです。
普通に造れば「重くて、くどくて、しつこいの純米三悪」になりがちの純米酒なのにそれをまったく感じさせない〆張鶴・純に、特に強く心引かれていたのです。

バランスの取れた酒質と言う言葉は、「すべてのパートが高レベルで”突出した部分”が見当たらないため、一見すると面白味に欠けるように思えるが、自然で無理がないため食べ物の邪魔もしないし長く飲み続けても飲み飽きしない」と言い換えられると私自身は感じてきました。
〆張鶴はその”バランスの取れた酒質”のため、最初の出会いから長い間私にとって、”高性能の試験紙”のような存在でもあったのです。

他の蔵の酒の自分なりの判断に”迷った”とき、私は必ず〆張鶴と飲み比べていました。
〆張鶴と比べると、その酒の長所、欠点、特徴が私自身は判断しやすかったのです-------その酒単体では分からなかった部分が、まるで”あぶり出し”のように浮かんでくるように感じられたからです。
ある意味で、この”〆張鶴と比べる”ことがおそまつで能天気な私の”進むべき方向”を決定した-------今はそのことが強く実感できるのです。

”〆張鶴と比べる”のはむろん酒質なのですが、おそまつで能天気な私も時間が経てば経つほど、「結果である酒質を理解するためには、結果の原因や結果に至る過程が分からないと理解できるはずが無い」と感じ始めたのです。
〆張鶴の酒質を生む設備、杜氏の技術、原料米へのこだわりとその精白--------自分の目で見て自分の耳で聞き少しでも理解しようと努めたのですが、当然ながらそう簡単に分かるはずもないのです。
しかし分からないなりに、〆張鶴・宮尾酒造では”当たり前”のことが北関東の私の県の蔵だけではなく新潟県の蔵であってもけして”当たり前ではない”ことに思い当たったのです。

”当たり前でない”ことを”当たり前”にやっていることが「〆張鶴の酒質の”理由”」であるなら、”その理由の原因”はいったい何なのか------おそまつで能天気だった私にも、少しずつですが、思い当たることが出てきたのです。

原料米の五百万石やその磨きへのこだわり、ジャケット式タンクや冷却ジャケットだけではなく全体の空調にまで及ぶ”低温発酵”へのこだわり------〆張鶴・宮尾酒造で私がごくふつうに目にしごくふつうに耳にした光景や言葉は、実は宮尾行男専務(現社長)・宮尾隆吉社長(故人)の酒に対する”考え方”、生真面目な酒造りに取り組む”姿勢”の反映であり、「〆張鶴の酒質を生んだ最大の”理由”」ではないのかと思い始めたのです。
言い換えると、最初に出会った蔵のひとつである〆張鶴・宮尾酒造が、「”酒質”というハードだけではなくそのハードを産み生かすソフトも含めて」私自身が今後出会う蔵を判断する”基準”になっていたように思えるのです。

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私が〆張鶴以降に出会い取り扱いをさせていただくか、取り扱いをしたいと要望した銘柄にはひとつの共通点がありました。
「〆張鶴を実際に飲んでいる人にも”飲んでもらえる魅力”がある」という共通点です。

千代の光には、〆張鶴と同じような淡麗さと切れの良さをもちながらも綺麗なやわらかい甘さ と魅力的な香りがありましたし、大木幹夫杜氏の造り出す國権は〆張鶴の持つバランスの美しさはありませんでしたが、大木杜氏の得意とした(〆張鶴とは違ったタイプの)華やかで強い香りとその香りにバランスした厚みはあってもけしてくどくない味のふくらみがありました。
生酛一筋の南部杜氏の長老格の伊藤勝次杜氏の造り出した生酛の本醸造も純米も、〆張鶴に比べやや幅と厚みがあっても切れが良かったため重いともくどいとも感じない酒質でしたが、生酛本来の「熱燗になっても崩れない”頑固とさえ言える芯の強さ”」をそのやわらかなふくらみの奥に内在させていました。

言い換えると私は、〆張鶴と同じ水準の酒かあるいは〆張鶴に近い水準で”〆張鶴とは違うタイプの魅力”を持つ酒しか”取り扱えなかった”のですが、今考えてみると、「酒質は蔵元の(生酛の場合は伊藤勝次杜氏の)酒造りの”考え方や姿勢”を反映したもの」という”〆張鶴で感じたこと”に私自身が強い影響を受けたからなのかも知れません。
そして、”〆張鶴で感じたこと”があって始めて私は、鶴の友という酒と鶴の友・樋木酒造という酒蔵の”価値の本質”を私なりに理解することが出来たと実感し感謝しているのです---------。

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十数年ぶりに〆張鶴・宮尾酒造の正面の入り口から蔵の中に入りました。
小さな小売のスペースのすぐ裏が事務所でその左側が応接室なのは三十数年前と変わってはいないのです。
本当に久しぶりにお会いした宮尾行男社長は、髪の毛が少し白くなったと思える以外は、十数年前とほとんど印象が変わらなかったため”時間のギャップ”を感じることなく以前と同様にお話を伺うことができました。
そして瀬波温泉の温泉街を海側から遠望できる”お食事処”で昼食をご馳走になりながら、宮尾行男社長に色々な”質問”をさせていただき率直な”ご解答”もいただきました。
お忙しい宮尾行男社長の貴重なお時間を午後2時ごろまで割いて頂き、お話もゆっくりと十分に伺い蔵の中も久しぶりに見せて頂きました。
昭和五十年代から若手杜氏として宮尾行男専務(当時)、宮尾隆吉社長(故人)と一緒に〆張鶴を造り上げ支えてきた”藤井正継杜氏の〆張鶴”が十数年造りを共にした若手・中堅の社員の方々にしっかり受け継がれている”光景”も目にすることもできました。

時の流れは遅いようで早く昭和五十年代に若手杜氏だった藤井正継杜氏が引退されることには私自身も感慨深いものがありますが、宮尾酒造の造り出す〆張鶴の”酒質を支える根幹”は、三十数年前も十数年前もそして現在も変わっていないことを私なりに改めて実感させていただき、2時半ごろ(鶴の友について-3--NO5に書いたように)新潟市西区内野町にある鶴の友・樋木酒造に向かうため、また機会を見つけて今度は泊りがけで来たいと思いながら、(私にとっては若いころから訪れていたため)懐かしい”記憶”が少なからず残っている村上市上片町を後にしたのです-------------。