時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

忠臣二君に仕えなかったわけではない

2006-06-17 22:22:29 | 源平時代に関するたわごと
時代劇でよく「忠臣二君に仕えず」という雰囲気や
お家大事、忠義大切というイメージがありますが
平安末期から鎌倉初期にかけては必ずしもそうではないようです。

ぶっちゃけた話
「こんなに使えない主君なら仕える必要はないや、この人やーめた」
ということが実に堂々と行うことが出来た時代なのです。

また、いま書いている小説で時々出てくる範頼の主
藤原範季は「院の近臣」でありなおかつ「摂関家の家司(家来)」
なのであります。
つまり堂々と複数の主人を持つことができたのであります。

それはいかんぞ!
と主張を始めたのが源頼朝です。
つまり、当時としては彼の方が常識破りだったわけです。
鎌倉殿に仕える御家人は鎌倉殿以外の主をもってはいけません
と言い始めたのです。
されど彼の主張は最初から受け入れられたわけではなく
「官位を勝手にもらわないで」という命令も判らない御家人も大半でした。
なにしろ彼らも鎌倉殿の御家人であると同時に
それぞれの荘園領主に仕える身分でもあったのですから。
(ちなみに荘園領主の出兵命令にも従う義務もあつたようです)

それに、頼朝の足元も足元、大江広元さえもあの曲者源通親との
縁がつよく彼の推挙で官位をもらっていました。

そして、関東地方の御家人はなんとか頼朝の主張
(自分があなたの唯一の主、他のえらいさんに話を通すのも鎌倉殿)を受け入れる方向にいったのですが
西国の方はうまくいかなかったようです。
なにしろ、西国の方の御家人の統制は守護に名簿を提出すればそれでよい
という緩やかな拘束権しかなかったですし
頼朝がそうしたかったけどできなかったのか、最初から西国が眼中になかったのかはわかりませんが。

複数に主人を持つのが当たり前の時代
それに、
「こんな主人いーらない!」
と言われたら御家人の方から三行半をつきつけられても
文句は言えない鎌倉殿でした。

そんな状況の中
鎌倉殿のみに御家人の意識を集中させて、
その頂点に何十年も君臨し
「ただひとりだけの主君に仕えさせる無謀なる挑戦」
に挑み半ば成功させた頼朝はやっぱり偉大だと思います。
もっともそうしなれば、各御家人達は
「鎌倉殿も主だけど、あの人も私のあるじ
鎌倉殿とあの人が対立したら私はどっちについたらよいのでしょうか?」
という事態に陥り
鎌倉幕府は瓦解してしまったでしょう。
(承久の乱の西国の御家人が都方になったのは上記のような状況があったから
だとも言われています。)
それに、彼のこの無謀なる挑戦がなかったならば
江戸時代の美しい主従関係が完成していたかどうかは微妙なところでしょう。

ちなみに、
「忠臣二君主に仕えず」という言葉は
その後一部の人々にはみえたものの実際には利害の関係でよく
主をかえまくった時代が続き
江戸時代になって普遍的になったようやく定着したのではないかと思われます。

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