時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

土肥さんワープ?(吾妻鏡)

2010-12-29 22:25:23 | 源平時代に関するたわごと
「吾妻鏡」元暦元年(1184年)4月29日条に次の事が記されています。

「前斎院次官親能、使節として上洛す、平家追討の間のこと、西海に向つて之を奉行す可しと云々、土肥次郎實平、梶原平三景時等同じく首途(かどで)す、兵船を調へ置き、来る六月海上和氣に属する期に合戦に遂ぐ可きの由仰せ含めらる、と云々、」
(龍肅訳注「吾妻鏡」(一)岩波文庫より抜粋、一部字を変更)

現代語訳は
「前斎院時間(藤原)親能が使節として上洛した。平家追討の件で、西海に向かい(頼朝の命令を)奉行すつためという。土肥次郎実平・梶原平三景時も同時に出発した。兵船を調え、来る六月、海上が穏やかな時を期して合戦を行なうよう、よくよく命じられたという。」(五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡2 平家滅亡」吉川弘文館 より抜粋)

この文章だけをみると何の問題も無いように思えます。
しかし、この約1、2ヶ月の「吾妻鏡」の記事をみるとおかしなところが出てきます。
元暦元年3月17日条によると
1.土肥実平は3月6日に都を出て西国に向かった。
2.3月17日に土肥実平に同行している板倉兼信から鎌倉に文が届き、使者が西国へ戻った。
とあります。

この状況を考えると3月中旬には既に土肥実平は西国にいることになります。

だとしたら4月下旬に「土肥実平と梶原景時が同時に出発した」とう記載は矛盾しています。
この「出発」に関しては
1.藤原親能は上洛と書かれている以上鎌倉を出発。
2.梶原景時は平重衡を伊豆まで護送してきたので鎌倉から出発した可能性が高い。
となるでしょう。

となると「同時に出発した」というのは文面を見る限りでは土肥実平も鎌倉から出発したと読み取れます。

しかし、3月中旬に西国にいた土肥実平が4月下旬までに鎌倉に戻っていたとは当時の状況からして考えづらいものがあります。

この4月29日条の記事どこかおかしくないでしょうか・・・・

土肥さんもしかして、西国と鎌倉の間で瞬間移動(ワープ)していたんでしょうか・・・

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