時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

首渡しの理由の違い

2010-06-03 05:36:21 | 蒲殿春秋解説
いきなり物騒なタイトルで失礼しました。
本文にも書かせていただきましたが一の谷の戦い後、その戦いで討ち取られた平家一門の首が都大路を渡されました。

この事実に関しては「玉葉」「吾妻鏡」「平家物語」ともに同じ内容を記しています。
しかし、それを決行させた範頼、義経の朝廷に対する申入れの内容が史料によって大きく異なります。

「平家物語」
平家一門の首渡しに難色を示す公卿らに対して
『かつて自分達の父義朝が同じ屈辱を味わった。父の無念を晴らすため勅命を承って命がけで戦った。これで自分達の申入れが受け入れられないのならばもう朝敵を討つのや辞める』
と義経が強硬に主張。

「吾妻鏡」
首渡しに難色を示す公卿達。
範頼、義経が私の宿意を果たすために、主張しているのではないかとも公卿達は考える。
しかし、範頼、義経が強硬に首渡しを主張するので結局首渡しが決行されることになる。

「玉葉」
院宣により首渡しは拒否される。
しかし、それをきいた範頼、義経が『義仲の首が渡されたのに、平家の首を渡さないのはおかしい』と主張。再度首渡しを主張する。
しかし、三種の神器を奪還したい公卿達は首渡しには反対。
それでも範頼、義経は強硬に首渡しを主張して首渡しが実行されることになる。

範頼・義経の父の敵討ち性格を強く打ち出している「平家物語」
しかし、実際には『義仲の先例』を出して首渡しを決行させようとした「玉葉」のほうが事実だったのではないかと思われます。

「平治の乱」義朝は首を渡されたと思われますが、このときの義朝の官位は従四位左馬頭。公卿に到達するにはまだまだの立場です。

一方、「一の谷」の時の平家の立場は「先帝の外戚」であり、一門に公卿が何人もいる状態です。
首渡しに公卿達が反対した理由の一つが、「先帝の外戚関係」と「朝廷におけるかつての地位の高さや政務への功績」でした。(この点に関しては「平家物語」「吾妻鏡」「玉葉」とも一致しています。)

そして「玉葉」の記載に従えば、公卿達は『平治の乱』の先例を出して『首渡し』を拒否しています。その『先例』とは乱の首謀者とされる藤原信頼が『公卿の地位にあった』と理由で処刑はされたものの『首渡し』は行なわれなかったという事実です。

つまり、実際には公卿の地位には程遠かった義朝、しかも二十年以上前の事例を引き合いに出してもその論理は朝廷からは相手にされなかっただろうということが推測できるわけなのです。
しかも父が首渡しされたその乱では『首渡しを免除された人物』が存在していたのです。

そのように考えますと『平治の乱の先例』を出した「平家物語」の記載はフィクションであったと考えるほうがよいのではないかと思われます。
実際には全国的に諸勢力の蜂起があって混沌として、単なる『源平の戦い』と言い切れない『治承寿永の乱』を『源平の戦い』に集約しようとし、さらには実際には蜂起した勢力のうちの一つでしかない源頼朝を『源氏方の総大将』とみなす「平家物語」の史観が反映されているような気がします。
(ついでに言えば『平治の乱』も源義朝と平清盛の戦いではなく、後白河院近臣や二条天皇側近等の対立や暗躍が乱の勃発の主原因でしたし、平清盛は元々どの勢力からも中立な立場だったようです。)

さて話は飛びましたが、平家の首渡しを強硬に主張した範頼と義経の論拠はやはり「玉葉」の記載どおり一の谷の戦いの直前に行なわれた義仲への処分があったと見なすほうが正確であったのではないかと思われます。

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