時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

平頼盛の立場

2009-02-19 23:54:30 | 蒲殿春秋解説
「平家物語」などの内容をよくご存知の方は、この小説もどきをお読みになって平頼盛の書かれ方に疑問を抱かれたかも知れません。

平頼盛は都落ちする平家には同行せず都に留まります。
その理由としてよく知られているのが
「かつて母池禅尼が以前源頼朝の命乞いをしたからその頼朝との縁を頼りに一門を見限った」
という内容だと思います。

しかし、「吉記」などをみると全く違うことが書かれています。
まず、「愚管抄」では頼盛が頼ったのは「八条院」です。
そして、「吉記」七月二十八日条では、公卿の会議で頼盛の処遇に対する会議がもたれています。そして結局降伏してきたものであるから罪には問わないという方向に話が進んでいたようです。

この二つの文書によると頼朝が出てくる余地は全くありません。

さて、その次に頼盛の鎌倉下向についてです。
よく知られている話では、当時都を制圧していた木曽義仲の圧迫を逃れる為とも言われています。「玉葉」に気になる記載があります。
「玉葉」十一月二日条に、頼盛が頼朝と行き会い、何事かを「議定」したとあるのです。
もし、単なる逃亡だったら頼朝と「議定」するのはおかしいと思います。
頼盛は何者かの意を汲んでその背後に誰かがいるからこそ頼朝は頼盛と「議定」したのではないかと思われるのです。

また、頼盛が「逐電」した「玉葉」に記されている十月中旬は木曽義仲は都におらず播磨またはそれより西にいます。
都における義仲の影響力は皆無ではないとは思いますが義仲の圧迫という点では多少疑問符がつきます。

つまり、頼盛の下向は義仲の圧迫を逃れたのではなく、都の有力な誰かが背後にいて頼朝の元にむかったのではないかと思われるのです。
その有力な誰か、というのは後白河法皇ではないかと私は思うのです。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿