時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百十九)

2010-09-01 05:48:07 | 蒲殿春秋
義高の行方は杳として知れなかった。頼朝はじれる思いで義高の発見を願っていた。
その一方で頼朝は自らの敵が東国に一歩一歩近づいてきている事を知る。
かねてからの計画を実行さねばならない。

やがてその敵は自らが支配している駿河に入る。その敵に頼朝は一通の書状を送る。

その敵一条忠頼は満ち足りた気持ちで駿河の邸に入った。
信濃国の支配を巡って対立していた木曽義仲を討ち果たした。
その恩賞としてかねてからの念願であった官位を得た。それも忠頼が最も望んでいた武蔵守の地位を得たのである。
武蔵守として武蔵国衙に入り、かの地の武者たちをこれから従えるのである。
武蔵国を抑えることで源頼朝に並び立つことができる。いやいつか頼朝を凌駕してやる。そのような気持ちが忠頼の中に満ち溢れている。

多くの河川があり坂東の交通の要である国。そして大小の武士団が多く存する武蔵国坂東を支配する上で要となる国である。
かの平清盛も平治の乱の後坂東を押さえる為に真っ先に手に入れたのが武蔵国である。

その忠頼には同道者がいた。
故小松殿ー平重盛の子平忠房である。
坂東には重盛の家人であった者達も少なくない。重盛の子忠房も坂東支配に利用できる。

この忠房は一条忠頼にとって魅力的な事柄を語った。
忠房の兄維盛が今熊野にいて熊野の有力者と接触を図っているというのである。

熊野三山は水軍を擁し、その水軍の活動は奥州から南海や瀬戸内にまで及んでいる。
この活動の範囲は当然坂東にまで及んでいる。

この熊野三山の内部には常に対立がある。
本宮と新宮の対立である。
この治承寿永の乱においてもこの対立が鮮明となった。暫くの間本宮と新宮の対立が先鋭化していたが
やがて本宮の湛増が新宮を抑えて熊野三山の実権を握った。
その湛増は現在源頼朝と提携を結んでいる。

しかしその熊野に平維盛が入った。維盛は福原の戦い(一の谷の戦い)の直後に平家の屋島の本営から離れて熊野に入ったのである。
維盛は湛増と対抗する勢力と結ぼうとしている。
この維盛の活動が成功したならば、熊野の実権は親頼朝の湛増の手を離れ、小松一族に近い勢力が抑えることになる。
そうなれば小松一族と提携している忠頼は海上交通の面において頼朝を大きく凌駕できるであろう。
東海の海に面した駿河国は手中に収めている。大小の水軍を有する伊豆国にも忠頼の勢力は及んでいる。
武蔵国を押さえ、熊野三山と提携すれば坂東の水運の多くの部分を押さえられる。

一方そうなると湛増と提携してる頼朝は熊野の支援を失う。武蔵国の水運は忠頼に奪われる。
頼朝が従えうる水運は相模と房総に留まる。さらに頼朝が支配下に治めている上野、下野から海上に出る道も奪われる。
海上交通の面で頼朝は実利を失うのである。

忠頼は大きくほくそえんでいる。
その忠頼をさらに喜ばせる知らせが届いた。
木曽義仲の遺児志水冠者義高が鎌倉を脱出したというのである。
これで自らの信濃国支配を頼朝が妨害しにくくなった・・・・

上機嫌な一条忠頼のもとに鎌倉の源頼朝から一通の書状が届く。

その書状には忠頼の武蔵守任官を寿ぐ内容と、その祝賀の宴を鎌倉で行ないたいので是非鎌倉に来ていただきたいと記されている。

忠頼は大声を上げて笑った。

━━勝った!
忠頼は内心勝ち誇った。

忠頼は頼朝の使者に返答した。
近く鎌倉へ行くと。

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