Sagami タイムズ 社説・時代への半鐘

潮流の本質を見極める

それぞれの職責

2012-04-24 11:38:03 | 学問
 軍国主義がもたらした圧制への反省と多くの人命を犠牲にした敗戦からの教訓を土台に、私たち日本人は「国民主権」「基本的な人権の尊重」「平和主義」という、三つの基本原理を掲げた日本国憲法を制定した。


 この尊い理想を達成するために導入されたのが「三権分立」という制度。多くの人民の血を流したヨーロッパにおける君主政治からの脱却をねらったものを潮流とするものだが、権力の一極集中を避け分散することで、国民一人ひとりの肉体的・精神的自由や経済的な活動を束縛することのないように生み出された、いわゆる、庶民革命によってもたらされた人類の英知であるともいえる国家統治の仕組みだ。


 しかしどうだろうか?人類の普遍ともいえる尊い理想を達成するために取り入れられたはずの三権分立だが、果たして今の日本においてこの仕組みが、源流の目指しているところの海のように、理想や目的を失わず私たちの暮らし向きの中で本当にうまく作用しているのであろうか、はなはだ疑問である。


 憲法では、私たちの生活の規範ともいうべき法律を定める機関は唯一国会(立法)であるとしている。しかし、実際に法律(議案)を起草するのは行政権を司る内閣がほとんどだ。それは一方で、内閣の職責として憲法に定められているからでもあるが、この性格が、本来は独立しているはずの立法と行政を混同してしまうことになってはいないのか。


 内閣とは、国会議員の中から国会の使命に基づいて選出された内閣総理大臣が首長を務める合議体で、組織する国務大臣は総理大臣の任命を受けその半数以上を国会議員が占めることになる。そして、それぞれの国務大臣の下に補助機関として各省庁が存在しているわけで、いわゆる政府とはこれら集合体のことだ。


 本来なら、選挙で選ばれた政治家である総理大臣をはじめ国務大臣は、所管において、行政を司る上での補助機関(省庁)が提案してきた法案などに関しては眼を光らせ、あるいは、厳しく指示し助言し、また、その補助機関を組織する官僚に対しては指揮監督の面で十分に配慮しなくてはならないはずなのだが、肥大化した官僚組織の威厳故なのか、はたまた、大臣らの職務の多さや勉強不足からくるものなのかは分からないが、現状は、官僚が上げてきた予算案や関連法案、人事案などの議案に判を押すだけ、署名をするだけになっているように思えてしまう。いうなれば、本末が転倒した、逆に官僚を補佐する機関に成り下がってしまっているのではないかと疑うほどだ。日々の忙しい日常業務の中でいつの間にかに芽生えてしまった仲間意識から生じる弊害なのかもしれないが・・・。


 国会もそう。その職責を全うしているといえるのか、立法権は我にあるという気構えを本当に心得ているのか?こちらも疑問が残る。与党は、同じ政党輩出の総理大臣や国務大臣が署名した法案だからといって、国民の声を聞かずろくに議論もせず、成立に至らせてはいないか?大臣の資質を質すことも時には必要だが、野党も法案に対しての議論をまずは徹底として執り行う必要がある、劇場型でお茶を濁してはいけない。


 また、司法はどうだ。起訴の独占権(ただし、検察審査会による強制起訴を除く)を持つ検察庁(行政側)の主張するがままに被疑者を勾留などしてはいないか?訳の分からないまま勾留期間を延長されるといった場面が多いとも聞く。これは、人権侵害の最たるものだ。


 そもそも、庶民主権を支えるための三権分立とは、権力を持たないものに対してその肉体的、精神的、経済的権利を担保しようとするためのもののはず。それを、三権に携わる者がお互いに癒着し、都合の良いようにこの制度を運用しようとするならば憲法の掲げる精神を歪めかねない。


 今の日本には、消費税の増税やTPP(環太平洋経済連携協定)への参加、米軍基地に関わる諸問題など庶民だけに痛みと負担を強いる課題が山積している。政治によるリーダーシップが発揮されないまま縦割り行政の下、震災の痛手から未だ抜け出すことのできない被災した国民も多くいる。


 これらの課題を解決するためには、まずは、選挙権や罷免権はあくまでも国民の側にあるということを自覚し、それぞれの権力を持つ者がそれぞれの立場で誠意を持ってその職責を全うしようとすることがなければならないと考える。これぞ、まさしく国民主権の姿なのだから。


 そして、そうすることで初めて憲法の掲げる理想を成し遂げることができるであろうし、その抱く三つの基本原理を未来永劫と受け継いでいくことができるようになるものと考える。