小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

590 大国主に秘められた製鉄の性格 その11

2017年05月13日 02時12分41秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生590 ―大国主に秘められた製鉄の性格 その11―
 
 
 さて、そろそろ本題に戻ろうと思います。
 ここまで、但馬における製鉄に関わるとされる氏族たちの関連をお話してきましたが、
本題はアメノミカジヒメでした。
 あらためて紹介するとアメノミカジヒメはアヂシキタカヒコネの妻です。
 ここまでで見てきたことを振り返りますと、アヂシキタカヒコネとホムチワケの伝承には
丹(水銀)が関係しているようです。
 水銀の採掘される地では鉄などの鉱物も採取されるので、製鉄との関連が考えられる
わけです。
 アヂシキタカヒコネの神話を伝える『出雲国風土記』の仁多郡の条には、
 
 「以上の諸郷より出る鉄は堅くして、もっとも雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ」
 
と、あることや、ホムチワケ伝承に登場する曙立王を祀る佐那神社の鎮座する地が
三重県多気町仁田で、同じ三重県多気郡多気町には丹生という地名が存在あり、
ここに丹生鉱山が存在することなどはすでに紹介しました。
 
 一方、大和における鉱山は吉野郡に多く存在しました。
 その中に井光鉱山(吉野郡川上町井光)があります。
 井光という地名は神の名でもあります。
 『古事記』、『日本書紀』ともに、大和を目指して熊野から吉野に入った神武天皇の
軍は、井光(イヒカ)という神に出会います(井光の表記は『日本書紀』のもので、
『古事記』の表記は井氷鹿)。
 この神は、光る井から出現した、と記されていますが、これは水銀の採坑を表わして
いると考えられています。
 なお、イヒカは別名を水光姫命という、これは神武天皇から与えられた名とする伝承が
ありますが、光水というのは井光と同じものです。
 ちなみにこの伝承は奈良県葛城市の長尾神社に伝わるもので、長尾神社の主祭神が
天照大神と豊受大神なのですが、配神として水光姫命(ミヒカヒメノミコト)と白雲別命が
一緒に祀られているのです。
 
 また、『延喜式』の神名帳には、吉野郡に神社は十座と記され、その内訳は大社五座、
小社五座となっています。
 大社五座は以下のようになります。
 
 吉野水分神社(大社)
 吉野山口神社(大社)
 大名持神社(明神大社)
 丹生川上神社(明神大社)
 金峯神社(明神大社)
 
 つまり、吉野水分神社と吉野山口神社の二社が大社、大名持神社、丹生川上神社、
金峯神社の三社が明神大社となっているわけですが、そのひとつに丹生の名を持つ
神社があることに気づかれることでしょう。
 なお、明神大社三社それぞれの祭神は、大名持神社では大名持御魂神(オオナモ
チミタマ神)が主祭神で、須勢理比咩命(スセリヒメノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノ
ミコト)が配祀されています。
 オオナモチとは言うまでもなく大国主の別名のひとつで、スセリヒメはスサノオの娘で
あり大国主の妻です。そして、スクナヒコナは大国主とともに国作りを行った神です。
 次に金峯神社の祭神は金山彦命(カナヤマビコノミコト)で、この神は製鉄の神とされ
ています。
 そして、丹生川上神社なのですが、こちらに関しては祭神が不明なのです。
 実を言うと、式内社丹生川上神社の所在がわからないのです。これに比定される神社は、
丹生川上神社上社、丹生川上神社中社、丹生川上神社下社があり、いずれも丹生川上
神社をしょうしているわけですが、どれが『延喜式』に載る丹生川上神社なのか決着が
ついていない状態なのです。
 
 このように明神大社でありながら所在地のわからない丹生川上神社ですが、『日本書紀』に
登場する水無という地名が丹生川上神社の鎮座する地であった、とする説もあります。
 『日本書紀』では、神武天皇が八十梟帥を攻略する際に、
 「天の香具山の社の土を取りて天の平瓫(あめのひらか)八十枚を作り、同時に厳瓫
(いつくへ=神酒を入れる瓶)を神に供えよ。その上で厳呪詛(いつのかしり=呪術の
ひとつ)を行えば敵はおのずから伏する」
と、いう神託を受け、宇陀で服属したオトウカシと、倭氏の祖シイネツヒコに香久山の土を
採りに行かせます。
 敵の中、両名が香久山の土を採取して戻って来ると、神武天皇は続いて、
 「吾今まさに八十平瓫を以て水無に飴(たがね)を造らん」
と、言って飴を造ります。
 飴(たがね)は、アメのことではなく、水銀と他の金属との合金と解釈されています。その
飴を造った場所が水無なのです。
 
 そんな丹生川上神社ですが、『類聚三代格』には「大和国丹生雨師神社」と記されていま
すが、実際、奈良・平安時代には祈雨神として奉幣使が派遣されていたといいます。
 しかし、明神大社の位を授かり、奉幣使が派遣されるほどの丹生川上神社がその所在
さえわからなくなってしまうまでになってしまったのはどうしてなのでしょうか。
 その謎には、大名持神社も関係があるようです。
 つまり、なぜ吉野において大国主が祀られており、それが明神大社の位を受けているのか、
ということです。しかも、貞観元年(859年)には正一位を授かっているのです。
 ところが、そんな大名持神社も明治時代にはいち郷社となってしまっているのです。