小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

567 大国主と垂仁天皇 その4

2017年02月02日 01時40分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生567 ―大国主と垂仁天皇 その4―
 
 
 スサノオがヤマタノオロチを斬った剣は、『日本書紀』の一書に「蛇の韓鋤剣(オロチノ
カラサヒの剣)」とあることは、これまでに何度となく採り上げてきたことですが、『日本
書紀』の別の一書には「蛇の麁正(オロチノアラマサ)」と記されています。
 そこには、
 
 「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正という。今は石上にある」
 
と、あり、ヤマタノオロチを斬った剣は石上神宮に納められたと記すのです。
 
 ところが、『日本書紀』のさらに別の一書では、
 
 「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」
 
と、記されているのです。
 この吉備の神部は、備前国赤坂郡(現在の岡山県赤磐市)に鎮座する備前国一宮の
石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)に比定されています。
 石上布都魂神社の祭神はスサノオですが、本来の祭神はスサノオがヤマタノオロチを
斬った剣であり、そして、その剣の名が布都御魂だと伝えられています。
 
 大和の石上神宮はタケミカヅチが神武天皇に与えた神剣を祭神としていますが、その
剣も布都御魂といいます。吉備の石上布都魂神社の布都御魂と大和の石上神宮の
布都御魂は別物ということになるわけですが、しかし、『日本書紀』の別の一書に記され
ていることや社名の一致などを見ると、両者の布都御魂は同じものであった可能性も
否定できません。
 しかも、両者は地名の点でも一致します。
 
 吉備の石上布都魂神社の鎮座地は旧赤坂郡ですが、大和の石上神宮が鎮座する
天理市にも赤坂の地名が存在するのです。
 そして天理市の赤坂には和爾坐赤坂比古神社が鎮座します。
 社名からわかるように、この神社の祭祀氏族は和邇氏です。
 和邇氏は、日子坐王の出自にも関係します。
 と、言うのも日子坐王は9代開化天皇と丸邇臣の祖日子国意祁都命(ヒコクニオケツノ
ミコト)の妹、意祁都比売(オケツヒメ)との間に生まれているのです。
 また、和邇氏は近江へと進出していったとされています。近江国滋賀郡、現在の滋賀県
大津市に和邇の地名があり、その周辺が和邇氏の近江における拠点だといいます。
 
 継体天皇の母、振媛が垂仁天皇の七世の孫ということはすでに紹介しましたが、この
振媛は越前国坂井郡高向の人だと『日本書紀』に記されています。
 一方、継体天皇の父は彦主人王(ヒコウシ王)という人物で、こちらは近江国高嶋郡の人
であった、と『日本書紀』は記しています。
 
 ともかく、垂仁天皇の皇子や皇女には剣にまつわる伝承があるわけで、これはすなわち
製鉄に関係しているということになります。
 それが、皇子や皇女だけでなく垂仁天皇自身にも製鉄が関係しているのではないか、と
考察したのが、谷川健一(『製鉄の神の足跡』)です。
 
 垂仁天皇の和名は、イクメイリビコイサチノミコト(『古事記』では伊久米伊理毘古伊佐知命、
『日本書紀』では活目入彦五十狭茅天皇)といいます。
 父の崇神天皇の和名がミマキリビコイニエノミコトなので、入彦を挟んで、イクメとイサチの
ふたつの名称がある形となっています。
 このうち、イクメの意味について、日本古典文学大系『古事記』は解釈を記していませんが、
日本古典文学全集『古事記』は、
 
 「名義は未詳であるが、イクメは地名か」
 
と、注釈しています。
 岩波日本古典文学体系『日本書紀』の注釈は、
 
 「活目は地名か。旧辞紀、天孫本紀に活目邑、活目長沙彦などがある。五十狭茅のイは、
斎(い)または数多の意。サチは、矢(サチ)から転じた」
 
として、やはり地名から来たものとしています。
 また、『日本書紀』の垂仁天皇五年の記事に、
 
 「来目に幸して、高宮に居します」
 
という一文もあり、イクメ地名説を採る研究者は少なくありません。
 
 これらに対して、西郷信綱『古事記注釈第二巻』は、
 
 「夢でサホビコの逆心を知ったのにもとづく名と思われる。夢は寝目(イメ)、つまり睡眼中の
目で、その目をほめて活目といったのだ」
 
と、解釈しています。
 
 そういったところで、谷川健一の解釈ですが、これはなかなかに大胆な説になっています。