中年男のエレジー 郷愁

yahooブログとの交差点にしたいと開設しました。ヤフーブログ終了により、アメーバとライブドアから発信を始めました。

タンスから江戸時代の寛永通宝がでて

2022年01月29日 22時56分19秒 | 日記

寛永通宝の

旧い紙幣も

15枚ほどあります

嘉慶通宝

寛永通宝

同じ寛永通宝でも大きさが違います

寛永通宝の裏側 元や文の文字が入っています

文久永宝

二銭硬貨

五十銭硬貨

さて、どうしようか…

それよりも誰の残した古銭か

とりあえずここに入れました

一緒に出てきた刻印

私の父親の篆刻です

父親が昭和38年に残した古銭の日本画

本日の写真です。
 
 母親がタンスの中から古銭を見つけて持ってきました。このお金の由縁が話題となり、父親が使用した日本画の刻印が一緒にあったため、私は父親が集めた古銭と思いましたが、父親は絵を描くにあたって名古屋の東海銀行本店の中で旧い貨幣を見せてもらって描いたと母が言い、絵画には我家の古銭とは違う貨幣が描かれているため、どうやら江戸時代から先祖の残した貨幣と思われます。
 
 大量に残されていた寛永通宝は江戸時代の寛永13年(1636年)から鋳造され、明治初年まで通用したとあることから、私より3代前となる曾祖母の親かそれ以前の先祖が残した古銭と思われ、曾祖母は貯金はしても使うことを知らず、昭和30年頃に家が2軒建てられる貯金通帳が長期間放置したため無効になっていた話もありました。
 
 さて、何所へ売りに行こうかと話が盛り上がる家族を制して、このお金はこのまま後世に残すことにしましたが、数年前に事務所を息子に明け渡した引っ越しで、昭和時代の集めていた紙幣が行方不明になっており、隠してあるヘソクリについても私が死ねば存在すら判りません。
 
 両親を失った父親の幼少期や、60歳を越えてから乳母車に野菜や花を積んで行商に出て、3人の孫を育てた曾祖母の苦難の時代を考えると、この古銭を大切に保管して子孫に語り継いでもらいたいと思います。
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源義朝が湯殿で暗殺された場所に立って

2022年01月26日 23時32分51秒 | 日記

野間大坊大御堂寺の源義朝公御廟に眠る人々のお墓
 
大御堂寺から300メートル歩くと密蔵院へ

知多四国第52番 鶴林山密蔵院

大師堂

大師堂内

新発見

蜜蔵院の沿革

境内奥の山

100メートル

200メートル

300メートル

目的の松

はりつけ松の説明

のどかな風景ですが…

先週土曜日の写真です。
 
 今から900年前の話となりますが、平治2年(1160年)に源義朝(源頼朝の父)は入浴中に随行していた鎌田政家の舅、長田忠致・景致父子に平家からの恩賞目当てで暗殺され、随行していた義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家も暗殺前日に影致によって殺害されています。
 
 鎌田政家の妻は長田忠致の娘と言いますから、忠致は娘の夫を殺害し、政家が仕えていた主君義朝を暗殺し、その首を大御堂寺の横にある池で洗い、平家の恩賞をもらうために首を持って上京したと伝わっています。知多半島から京都まで移動した時間を考えると、持参した首の状態や検分した平家の武士の当時の顔がよみがえってきます。
 
 下克上と言われる戦国の時代にあって、親子や兄弟が殺しあうのは当り前の世情かもしれませんが、平家のために娘婿を殺した長田親子は暗殺した義朝の息子である源頼朝の下で働き、頼朝のために恩賞もあげますが、この野間の地で頼朝によって磔にされ、その松が枯れてはいるものの蜜蔵院の裏山に残されていることはリアルですね。
 
 さて、今から400年前には本能寺の変で織田信長が暗殺された後に、後継を争う柴田勝家と豊臣秀吉の間で争いが起こり、柴田勝家側についた信長の三男信孝も、秀吉と次男信雄によって本日添付した蜜蔵院で自刃しています。
 
 知多半島は知多八十八ヶ所の巡礼の地になっていますが、かつてはそのお寺で暗殺が行われ、その後当事者が裏山で磔の刑に処され、織田信長の三男はその家来だった秀吉と自分の兄弟によって蜜蔵院で自害していた歴史が目を閉じると浮かび上がってきそうです。
 

2018年 2月19日 私の記した一言です。

 お寺で人が殺されたり、人々が普通に生活する場所で切腹する残酷な歴史が数百年前は普通に行われており、私の住む津島市に近い七宝町にある「桂の六地蔵」についても、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたと言われています。

 この蟹江合戦についても、織田信長が本能寺で倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いですから、信長や秀吉の出身地である愛知県の尾張地方でも残酷な殺し合いが行われていたことが判り、三男の信孝を秀吉と一緒になって切腹させた次男信雄も、徳川と連合を組んで戦っていることを考えると、小汚い秀吉や家康に対して兄弟が多い織田信長の子供たちが団結して信長の意思を継承して欲しかったと思うのは私だけとは思えません。

 我家の住む土地から4キロしか離れていない場所で生まれた信長や、歩いて2時間の距離に生まれた秀吉の声が聞こえそうな年齢まで歳を重ねたことも実感するようになりました。今から1200年前の空海の声が聞きたいと四国の僻地を訪れているだけに、400年前の信長や秀吉の声が聞こえそうに思えても不思議ではありませんね。

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横井庄一さんグアムで発見され半世紀が経過

2022年01月24日 22時26分45秒 | 日記

本日の夕暮れ 午後5時37分

本日の朝日新聞朝刊

本日の朝日新聞夕刊

 
 本日は横井庄一さんがグアム島で発見されて50年目にあたり、朝日新聞朝刊に掲載された天声人語の中で私の名前を見た知人から複数の電話が入り、午後にも東京や全国各地の方々からの問い合わせが届きました。
 
 記念館が休館になって2年が経過しており、その間にテレビや新聞で報道されると、直接電話連絡ができない人々は、ネット検索から私の事務所や自宅の電話番号を探して、全国各地から問い合わせや、中には名古屋に来て現地から電話をかけてくる人も存在します。
 
 私の寿命があと何年あるかは判りませんが、我家で小学校5年生まで「大鹿庄一」として生活していた横井さんの幼少期と、横井さんが私に語った言葉を思い出しながら、残された人生の中で横井さんの記録を残していきたいと思っています。
                                        1月24日の一言
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自宅で、木曽路一番の美味しい五平餅を焼いて

2022年01月19日 23時29分28秒 | 日記

自宅で五平餅を焼きました。

21年11月29日

中山道上松宿 中村の五平餅

                 長野県木曽郡上松町大字小川 (,寝覚) 2443-1

           電話 0264-52-2183 10時~17時(時期により異なる) 定休日 不定休 

3個分入っていました。

同封されていたタレ

クルミ、胡麻、落花生、砂糖、しょうゆ、みりん

作り方のレシピ

真空パックに数ヶ所穴を開けてレンジします。

電子レンジで1分から2分加熱します。

ずいぶんと柔らかくなりました。

出来立てのような感触です。

タレを付けます。

タレの残り

少し焦げ目が付くまで焼きます。

2本同時に焼きます。

まもなく出来上がります。

本日の写真です。
 冗談やお世辞抜きで真空パックのお土産とは思えない美味しさです。

 ↓↓ 過去の五平餅や団子の記事一覧です。↓↓クリックしてご覧下さい。

 昨年夏から訪れた奥三河や木曽路の五平餅の中で、私の身勝手な評価で最高点をつけた旧中仙道上松宿にある「中村」で、11月末に購入して持ち帰った真空パックの五平餅でしたが、店内で食べた味と遜色ない柔らかい焼きあがりになりました。

 かつて、お土産の五平餅を自宅で焼いたことがあり、餅の一部が煎餅のように固くなった記憶がありましたが、レシピにあった電子レンジで温めたためか、近くの街角のスーパーで売られる五平餅よりも柔らかく、自分好みに焼いたため香ばしくなりました。

 もっとも、購入してから時間は経過していたものの、餅は真空パックで保存され、タレも容器にテープを巻いて密封してあったため、餅さえ店と同じ食感になれば、タレは本職の自家製のため美味しくて当たり前なのかもしれません。

近くのスーパーで売られている普通の五平餅より美味しいことは間違いがありません。

 

                                   1月19日の一言

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海部元総理大臣の訃報を聞いて 時間は戻りません

2022年01月18日 01時02分55秒 | 日記

私が戴いた書

現在は三男の接骨院に掲げてあります。

平成元年(1989年)9月発行のふるさとアサヒ第10号

                            私が編集発行していたミニコミ紙です。

昭和51年文部大臣就任祝賀パーティの1枚

                           津島青年会議所のメンバーと

平成2年1月のふるさとアサヒ第13号

年頭の挨拶分

 現職の総理大臣のあいさつ文を貰いにいきましたが、地元の有力者に依頼すると「総理大臣の挨拶文なんかもらえない」との返答で、「あんたで貰えるものなら貰ってきたら」と「若造のお前扱い」の冷たい反応しかなく、恐れを知らない私は直接訪れ、当時秘書であった田中志典氏(元犬山市長、元愛知県議)の計らいで年頭のあいさつ文と写真をいただきました。

懐かしい顔です

思い入れのある長文の挨拶文を戴きました。

議員時代 箱根のホテルで夕食に招いていただきました。

 私は平成11年に仕事を辞めて市議会議員に転出しましたが、立候補した初めての選挙中に我家の事務所前で海部さんに応援演説をしてもらいました。
 
 地元の人たちには私と同時期に県会議員に当選した井桁さんの縁で海部さんの応援をいただいたと思われているものの、実際には私の立候補を心配する稲沢市の先輩たちが海部さんの地元事務所(稲沢市)まで連れていっていただき、海部事務所の指導を仰ぐようになりました。
 
 「靴を3足履きつぶす覚悟で地元を歩け」と、海部さんの弟で秘書の尚樹氏に激を飛ばされて選挙運動をスタートさせましたが、それをさかのぼること10年前に地元で発行していた「ふるさとアサヒ」の挨拶文を、当時一宮市にあった海部さんの事務所を訪れて依頼しており、この挨拶文をミニコミ紙へ掲載したことで海部系と思われ、ミニコミ紙の複数の配布場所から置くことを断られました。
 
 さて、議員になってからも色々と海部さんのお世話になりましたが、しばらくして行われた市長選挙で海部陣営の推した候補者を私が応援しなかったため、津島市の海部陣営の政治関係者から締め出され、海部事務所を訪れることは無くなりましたが、元々が津島市の海部陣営の関係者とは無縁だっただけに無念な思い出となりました。
 
 海部さんの訃報を現実のものとして、受けた恩は多いものの、何一つとして恩返しができないままに現在に至った後悔は大きく、私にとっての海部さんは国会議員でありながら、政治上のつながりではなく、私のためなら何でもやると言われたランカ堂写真店の高橋さんとの写真つながりの延長で、高橋さんは海部さんのご尊父とも親交のある津島市で一番の海部ファンでもありました。
 
 私と海部さんをつないでくれたのは、決して政治的な打算や計算ではなく、その間をつないでくれた私の恩人や先輩が存在していたことから、引退された直後にでも当方から訪れて何かしら微力でも恩返しなり御礼ができておれば良かったと思いますが…
 
 知人は勿論ですが、恩人や先輩の訃報が身体に堪えるようになり、元気に散歩に連れられていく愛犬を見ても相棒の姿を探していることがあり、何時でも会えるとの感覚を改め今を大切にして生活していきたいと思います。
                                         1月16日の一言 
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横井庄一さんに関する取材を受けて

2022年01月08日 07時51分58秒 | 日記

朝日新聞社の看板記事「天声人語」

朝日新聞の天声人語を執筆する論説委員Yさんから横井庄一さんの取材を受けました。

創刊140周年にびっくり

 私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。

 なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。

 その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。

名古屋市博物館 名古屋市瑞穂区

本日の写真です。
 
 朝日新聞社から「横井庄一」さんについて取材依頼を受け、最近のテレビ番組や新聞記事が発見当時とは随分と違う脚色が見受けられるため、名古屋市博物館で生前の横井さんを知る元学芸員さんとともに取材を受けました。
 
 コロナ禍で記念館は2年近く休館状態になっており、久しく語ることもなく認知症気味の脳をリフレッシュするために、横井さんの経歴を読み直し、戸籍や幼少時一緒に生活した家族関係を整理すると、過去に報道された記事に大きな疑問が湧いてきました。
 
 生後3か月頃に離婚して実家である我が家に戻ってきた母親は、赤ちゃんの庄一さんを我が家に置いたまま住み込みで奉公に出てしまい、庄一さんは従姉妹になる私の祖母や伯母となる私の曾祖母ら3人と小学校5年生まで「大鹿庄一」として貧しい極貧の生活を送ります。
 
横井さんが「明日への道」に記した自分の生い立ちです。

 その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
 洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
 その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。

の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。

私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オーシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 

 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません
                                 横井庄一手記「明日への道」

 添付した文章はグアム島から帰国した横井さんが記した明日への道の記事ですが、実際には生々しい事実は伏せられているものの、生まれた直後から母親とは小学校5年生になるまで別々の生活となり、再婚先の横井家に母親は庄一さんの存在を隠したまま嫁いでおり、子供が居なかったため連れてくるように言われて大正15年に横井家へ入りました。
 
 昨日過去の戸籍簿を見直して確認したところ、その後小学校と珠算学校を卒業して昭和5年に豊橋市の洋服店に住み込みで勤務していますが、大正15年に横井家に入りながら昭和7年になるまで横井家には入籍もされていません。
 
 過酷な幼少時の体験から、「母一人、子一人」とか、息子の戦死を否定する母の存在がグアム島で生き抜いた原動力と報道されてきましたが、現実には母親は戦後間際の昭和23年に横井さんの永代供養を寺に依頼し、昭和30年に立派なお墓も建立しています。

 「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。

 世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。

 グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。

 現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。

                                     1月7日の一言

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謹賀新年

2022年01月05日 00時16分32秒 | 日記

明けましておめでとうございます。
 
 コロナ禍で先の見通せない現状ですが、四国遍路と上高地を中心にして走り回りたいと思います。最近では多くの先輩や友人が鬼籍に入っており、疎遠となっている旧知の知人や友人たちを訪ねられる一年にしたいとも思っています。本年も宜しくお願いいたします。
 
令和4年元旦
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