サッカー日誌 / 2012年02月21日


加茂周さんの功績を考える


企業チームをプロクラブに

日本サッカー史研究会2月例会
(2月20日 JFAハウス会議室 )

★日産を育てて三冠を達成
 日本サッカー史研究会の2月例会に加茂周さんを招いて、お話を聞いた。
 1970年代後半から1990年代にかけて、日本のサッカーが大きく変わった時期に、重要な仕事をした指導者である。その業績は、しっかり記録、評価しておかなければならない。
 日本リーグ時代のヤンマー、日産、Jリーグになってからの横浜フリューゲルスなどで選手、コーチ、監督を務め、1995年から1997年にかけて日本代表チームの監督だった。
 いろいろな業績を残しているのだが、日産自動車(横浜F・マリノスの前身)でやり遂げた仕事が、サッカー史に特筆すべき最大の功績だと、ぼくは思う。
 日産自動車では、監督として神奈川県リーグから関東リーグ、日本リーグ2部、1部とチームを育て上げ、1988~89年のシーズンにリーグ、リーグカップ、天皇杯の三冠を達成した。もちろん、これもたいしたものだが、ぼくの視点は違う。

★実業団を変えた
 ぼくの考えでは、加茂さんが日産でした仕事のもっとも重要な意義は「企業スポーツ」を変えたことである。
 1960年代~1980年代の日本のスポーツは会社チームが主流だった。「実業団」と呼ばれていた。選手は企業の社員で、スポーツ活動は建前としては「社員の福利厚生」あるいは「社員の士気高揚」だった。アマチュアとしてのスポーツという考えだった。
 加茂さんが1974年に日産自動車チームを引き受けたときは、会社側の考えは、やはり「実業団」だったという。
 加茂さんは「このままではレベルアップはできない」と考えた。そこで会社側に交渉し、選手のサッカー環境を改善することから手をつけた。そして契約選手制度を導入し、会社チームを内部から「プロ化」していった。

★日本スポーツの革命
 実業団では選手は社員だった。だから会社の仕事をしながら、スポーツをしなければならなかった。
 加茂さんが導入した「契約選手」は、正社員として雇用されるのではなく、スポーツに専念する者として短期契約し、チームのためにプレーした。
 そのころ、日本体育協会の間違った「アマチュア規程」のために、日本のサッカーでは「プロ」を認めることはできなかったが「契約選手」は事実上のプロだった。
 同じころ読売サッカークラブ(現在のヴェルディ)も選手は事実上、プロ契約だった。しかし、読売クラブの場合は創立の最初から「社員チーム」ではなく、社員でない選手で構成する「クラブ」だった。加茂さんは実業団をプロクラブに変えた。
 いまから思えば、これは日本のスポーツの「革命」だった。




コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
共和食品(株)代取 会長 (杉本 昭太郎)
2012-03-12 20:58:12
1980年代の社会人サッカー大会などを含めて加茂さん程の指導者は少ない。あらゆる可能性に挑戦しあの時代にあれだけの実績を残した事は日本サッカー会において後にも先にもこうした人が出ることは中々ないのではないか。素晴らしい実績の持ち主である。
 
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