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サッカー日誌 / 2015年07月19日


日本サッカー・リーグ50年(11)


プロ化への道のり

JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)

★日産自動車の昇格
 「読売クラブ」がJSLの1部に加わった翌年、1978年に日産自動車が1部に昇格した。
 日産自動車は会社(企業)である。
 しかし、サッカー・チームは、これまでの「実業団」とは違う形を目指していた。
 永年雇用の社員をプレーヤーにするのではなく、プロのサッカー選手として短期契約した。
 また読売クラブと同じように、チームとしての「プロ化」を目指した。親会社を広告スポンサーにするにしても、サッカー・チーム自体を「独立採算」の企業にするのが目標だった。
 日本リーグ1部のなかに、形態は違うにせよ、プロ・サッカーを目指すチームが2つになった。
 しかも、1980年代には、その2チームが優勝争いをするようになり、観客動員もリードした。
 実業団の限界は、明らかだった。

★アマチュアリズムの崩壊
 1980年代になって、長年にわたって日本のスポーツを縛っていた「アマチュアリズム」が崩壊した。
 アマチュアリズムとは「スポーツによって、金銭的、物質的利益を得てはならない」という考え方(倫理)である。
 これは、当時のオリンピックの参加規程だった。
 また、日本体育協会の「アマチュア規程」では「プロとアマの組織を一緒にしてはならない」とされていた。これは日本独特の偏狭な規定である。そのために、日本ではサッカーのプロは認められない状態だった。
 ところが、1984年のロサンゼルス・オリンピックの「商業化」をきっかけに、オリンピックのアマチュアリズムは崩壊した。それを受けて「体協アマチュア規程」は1986年に撤廃された。
 その結果、「水面下のプロ」の形だった読売クラブと日産自動車の組織が公然と認められるようになった。

★Jの基礎を作った功労者
 1993年にJリーグができたのは、その結果である。
 アマチュアであることを建前としていた「実業団」が、プロを名乗るのに障害がなくなった。
 日本サッカー・リーグの「実業団」が、こぞってプロになることができた。その結果がJリーグである。
 Jリーグ創設の功績を、たまたま転換期の当事者だった特定の個人だけに帰するのは公正でない。
 次の人びとの功績を、日本のサッカーの歴史に刻み込むべきだと、ぼくは考えている。
 日本サッカー・リーグ創設のときの功労者、西村章一、重松良典、石川八郎などの諸氏である。
 また、日本初のクラブ創設を推進した読売クラブ初代事務局長の笹浪栄光、実業団の新しい在り方を打ち出した日産自動車の加茂周などである。
 この人たちの「提灯をもった」ジャーナリストとしての、ぼく(牛木)の功績をJSLは認めてくれた。
 JSL50年のパーティーで「乾杯の音頭」をとる役割で、ぼくを壇上に上げてくれたのは、そのためだろうと、自分で勝手に考えて、感謝している。
(この項、おわり)


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