ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2011年02月28日
相川亮一さんの逝去を悼む
読売クラブのスタイルを作った男
(2月24日 新横浜で密葬)
◇クラブのサッカーを切り開く
相川亮一さんが亡くなった。64歳だった。
1970年代から1980年代の初めにかけて読売サッカークラブを指導し、学校スポーツ、企業スポーツ中心の時代に、クラブのサッカーを切り開いた功労者である。いまの東京ヴェルディも、さかのぼれば、相川さんが骨格を作ったと言っていい。
ある会合で、たまたま「相川さんが亡くなったらしい」と聞き、尋ねてもらったところ親族だけで密葬するということだった。
しかし、目立たないように参列することはできるだろうと出かけた。広く知らせることはしないということだったし、平日の午前中の葬儀だったが、伝え聞いて、かなりの人が集まっていた。地元神奈川のサッカー関係者のほかに、読売クラブOBの小見幸隆、ジョージ与那城、加藤久などの顔が見えた。改めて相川さんの影響力を思い起こした。
◇クラマーの真の理解者
相川さんは1973年にイランのテヘランで開かれたFIFAコーチング・コースに参加して、FIFAのコーチ・ライセンスをとった。そのとき、デットマール・クラマーの指導に強い影響を受け「おれはクラマーの弟子だ」と称していた。クラマーは1964年東京オリンピックの選手強化のために日本へきて、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルへ導いた日本サッカーの恩人である。相川さんはクラマーのサッカーの本質を理解していたと思う。
テヘランのコースから帰国したあと、読売クラブのコーチになった。当時の読売クラブの監督はオランダ出身のファン・バルコムだった。バルコムもクラマーの弟子だった。バルコムは読売クラブを去るとき、後任に相川さんを推薦した。事情があって監督には西邑昌一さんになってもらったが、西邑さんは関西在住だったこともあり、練習も試合の指揮も相川コーチに任せていた。
◇クラブの理念と組織確立の先駆者
西邑さんは、いわば総監督で、事実上の監督は相川さんだったわけである。1976年から、そういう形だった。監督として登録されたのは、1981~82年の2シーズンだけだが、実際には7年間、読売クラブのトップチームを率いていた。
その間に読売クラブは、日本リーグの2部から1部に昇格し、当時、日本のトップレベルの企業チームと互角以上に戦えるレベルになった。ジョージ与那城、ラモス、小見、松木安太郎などを使いこなして、独特の攻撃サッカーのスタイルを作り上げ「読売クラブのサッカーは面白い」と多くのファンが認めるようになった。
相川さんは、クラブの中に、小学生、中学生、ユースのしっかりした組織を作り上げた。女子のベレーザも作った。Jリーグがクラブの理念を掲げて発足するより15年以上前からの話である。このような相川亮一さんの業績をまとめて歴史に残したいものだと考えている。
(2月24日 新横浜で密葬)
◇クラブのサッカーを切り開く
相川亮一さんが亡くなった。64歳だった。
1970年代から1980年代の初めにかけて読売サッカークラブを指導し、学校スポーツ、企業スポーツ中心の時代に、クラブのサッカーを切り開いた功労者である。いまの東京ヴェルディも、さかのぼれば、相川さんが骨格を作ったと言っていい。
ある会合で、たまたま「相川さんが亡くなったらしい」と聞き、尋ねてもらったところ親族だけで密葬するということだった。
しかし、目立たないように参列することはできるだろうと出かけた。広く知らせることはしないということだったし、平日の午前中の葬儀だったが、伝え聞いて、かなりの人が集まっていた。地元神奈川のサッカー関係者のほかに、読売クラブOBの小見幸隆、ジョージ与那城、加藤久などの顔が見えた。改めて相川さんの影響力を思い起こした。
◇クラマーの真の理解者
相川さんは1973年にイランのテヘランで開かれたFIFAコーチング・コースに参加して、FIFAのコーチ・ライセンスをとった。そのとき、デットマール・クラマーの指導に強い影響を受け「おれはクラマーの弟子だ」と称していた。クラマーは1964年東京オリンピックの選手強化のために日本へきて、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルへ導いた日本サッカーの恩人である。相川さんはクラマーのサッカーの本質を理解していたと思う。
テヘランのコースから帰国したあと、読売クラブのコーチになった。当時の読売クラブの監督はオランダ出身のファン・バルコムだった。バルコムもクラマーの弟子だった。バルコムは読売クラブを去るとき、後任に相川さんを推薦した。事情があって監督には西邑昌一さんになってもらったが、西邑さんは関西在住だったこともあり、練習も試合の指揮も相川コーチに任せていた。
◇クラブの理念と組織確立の先駆者
西邑さんは、いわば総監督で、事実上の監督は相川さんだったわけである。1976年から、そういう形だった。監督として登録されたのは、1981~82年の2シーズンだけだが、実際には7年間、読売クラブのトップチームを率いていた。
その間に読売クラブは、日本リーグの2部から1部に昇格し、当時、日本のトップレベルの企業チームと互角以上に戦えるレベルになった。ジョージ与那城、ラモス、小見、松木安太郎などを使いこなして、独特の攻撃サッカーのスタイルを作り上げ「読売クラブのサッカーは面白い」と多くのファンが認めるようになった。
相川さんは、クラブの中に、小学生、中学生、ユースのしっかりした組織を作り上げた。女子のベレーザも作った。Jリーグがクラブの理念を掲げて発足するより15年以上前からの話である。このような相川亮一さんの業績をまとめて歴史に残したいものだと考えている。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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ところで、「クラマーのサッカーの本質」とは何だったのでしょうか?それは金科玉条に値するものだったのでしょうか?その検証は不要でしょうか?牛木さんや中条さんにはその責務は無いのでしょうか?
イタリアやスペインに長期滞在している日本人が報告しています。「欧州の専門家が指摘する日本サッカーの異質性」を(※)。その根源に「クラマーのサッカーの本質」(に対する理解不足)ではないのでしょうか?
※:「テクニックはあるがサッカーが下手な日本人」村松尚登(ランダムハウス講談社)、「世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス」宮崎隆司(コスミック出版)