サッカー日誌 / 2014年01月19日


高校選手権テレビ観戦記(下)


小林与三次さんの卓見と功績
富山の優勝を日本テレビのために祝う
(12月30日~1月13日 民放テレビ43社中継)

★全都道府県代表の参加を推進
 第92回高校選手権の決勝のテレビ中継を、富山第一を応援しながら見ていた。
 富山応援の理由は日本テレビ社長だった小林与三次(よそじ)さんが富山県出身だったからである。
 高校選手権は、1983年度の第62回大会から、全国47都道府県の代表が参加(東京は2校)する大会になった。それまでは一部で地域予選を行って32校の大会だった。
 「1県1校にしろ」と主張したのが当時の日本テレビ社長の小林与三次さんだった。
 32校を48校に増やすのは、大会運営の上では都合がよくない。2回戦から出場するチームが出てくるので、組み合わせが公平でなくなる。
 大会の期間も延ばさなくてはならない。当時は大会を冬休み中に行うのが鉄則だったので、参加チームを増やすのは高校の先生方にとっては頭の痛い問題だった。

★反対意見を直訴
 高校体育連盟(高体連)サッカー部の先生が「32チームのままにするよう小林社長を説得してくれ」と、ぼくに依頼してきた。
 ぼくは読売新聞運動部の下っ端記者で、系列会社の社長に意見を言えるような立場ではない。
 しかし、日本テレビの担当者は社長の考えに逆らえない。
 そこで、直接の部下ではないぼくが小林社長に直訴する破目になった。
 パーティーの席で機会を得て、ぼくが直訴したのに対して小林社長は、こう答えた。
 「きみたちは、高校選手権のテレビ中継でサッカーを全国に普及したいと言っていたではないか。そのためには全都道府県代表の参加は当然ではないか」
 社長の正論に抗するすべはなく、1983年度第62回大会から全都道府県代表参加になった。

★坂田信久さんの功績
 そのころすでに富山県では富山第一がトップだった。
 しかし、地域予選があったので全国大会に出場できない年もあった
 全都道府県代表参加になったおかげで富山県のチームも毎年、全国レベルのサッカーと競えるようになった。富山第一が高校日本一になったのはその結果である。
 小林社長の卓見が実って、社長の故郷のチームが優勝したわけである。
 高校選手権が飛躍的に盛り上がるようになったのは、1970年代に民放の日本テレビが主催に加わり、首都圏開催になってからである。
 これは当時の日本テレビのディレクター・プロデューサーだった坂田信久さんの功績である。
 坂田さんも富山出身である。
 富山第一の優勝を、坂田さんのためにも喜んでいる。

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