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サッカー日誌 / 2007年10月30日


日本サッカーリーグの創設(上)


西村章一さんに聞く
9月3日JFAハウス 日本サッカー史研究会

◆クラマー提言の具体化
 現在のJリーグのもとになったのは、1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)である。このJSLの発足が、クラマーさんの5項目提案の一つだったことは、よく知られている。しかし、その具体化は、そう簡単ではなかった。その間の関係者の苦労を記録にとどめておきたい。そういう趣旨で、後藤健生さんとぼくが主宰している「日本サッカー史研究会」の9月例会で日本リーグの創設当時の事情を取り上げた。
 クラマーさんは、1964年の東京オリンピックへ向けての日本代表チーム強化のために、ドイツから日本に来て、日本のサッカーを根本的に改革した。そして東京オリンピックが終わって帰国する前に、日本のサッカーに5項目の提言を残した。その中の一つが「トップレベルのチームによるリーグを作れ」というものだった。他の4項目は、なかなか進展しなかったが、トップ・チームによるリーグは、すぐ翌年に実現した。

◆リーグ創設の功労者
 クラマーさんの指導のもとで監督、コーチを勤めた長沼健、岡野俊一郎、平木隆三らが、すぐに動いた。それが第一の原動力である。ところが趣旨には賛成でも、具体的な方法になると障害続出だった。それを、一つ一つ解決したのは、当時、古河電工の広報部長だった西村章一さんである。西村さんは、日本サッカーリーグの初代総務主事になった人だが、その功績はあまり知られていない。
 そこで「日本サッカー史研究会」では、西村さんを招いて、お話を伺うことにした。幸いなことに、80歳を越えてもすこぶる、お元気で、夜の会合にもかかわらず喜んで出席してくださった。
 西村さんの功績は、ほかに古河電工サッカー部の黄金時代実現、1970年代の日本サッカー協会改革の推進などがあるが、ここでは日本リーグ創設への功績を取り上げる。

◆大学と実業団がいっしょに
 リーグ制についてのクラマー提言の趣旨は「強いチーム同士の試合を増やそう」ということだった。同じレベルのチーム同士の試合経験を多く積まなければ、日本のサッカー全体のレベルアップは望めない、というのがクラマーさんの主張だった。
 当時、日本のトップレベルのチームは大学と実業団(企業チーム)に分かれていて、それぞれリーグ戦を行ってはいたが、大学と実業団が対戦する機会は天皇杯しかなかった。天皇杯は勝ち抜きのトーナメントだから、敗退したチームの試合数は少ない。
 大学、実業団を併せてリーグ戦を組めば、強いチーム同士の試合数が増える。「勝ち抜きのトーナメントよりもリーグの試合を」というのが、クラマーさんの提言である。
「日本サッカーリーグ」は現実には実業団チームだけで発足したが「実業団リーグ」という名称にしなかったのは、大学でもクラブでも加入できるという趣旨だからである。

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