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【小倉百人一首】31:坂上是則

2014年06月18日 02時18分38秒 | 小倉百人一首
坂上是則

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

蝦夷討伐で知られる坂上田村麻呂の子孫と言われている。
坂上氏は渡来系の血筋で、奈良時代後期に苅田麻呂(田村麻呂の父)が橘奈良麻呂の乱と藤原仲麻呂の乱の2つで目立った勲功上げたため、権門でないにも関わらず異数の出世を遂げ、家運を開いた。
その息子・坂上田村麻呂が活躍したのは平安時代初期。平安最初の天皇である桓武はその治世のほとんどを平安京の建設と、蝦夷の討伐に費やした。
この頃蝦夷と朝廷とは緊張状態にあり、その鎮圧のための臨時の官職として作られたのが征夷大将軍。実際に蝦夷討伐のために任命されたのは3人で田村麻呂の前任の大伴弟麻呂と、後任の文室綿麻呂の3人だけ。その次に任命されたのは平将門の討伐のときで藤原式家の藤原忠文、それから大分時代があいて平氏討伐のために都にきた源義仲。ただし、当時は任命された義仲がすぐに源義経と戦って敗死したため、長く秘密とされてきたらしい。
義仲の次は当然源頼朝以下、鎌倉幕府の歴代将軍。そして足利尊氏から始まる室町幕府の歴代将軍となるのだが、その前に後醍醐天皇が自身の皇子である護良親王、成良親王を任命しており、そして南北朝時代に入って南朝の宗良親王、後醍醐の孫の興良親王がいる。

征夷大将軍はその初期の役割をみるとわかるとおり、基本的には臨時の遠征軍司令官的な意味合いが強い。その将軍が遠征先で軍政を行う場所を幕府という。遠征軍は現地で食料の調達や徴兵などをする必要があることからそれなりの権限が必要であり、これに目をつけた源頼朝(実際に考えたのはブレーンの大江広元だろうか)が、征夷大将軍への任官を朝廷に強要し、朝廷を必要としない独自の権力構造を作り上げたのは画期的といえる。

是則は歌人としてだけでなく蹴鞠の名手としても知られており、醍醐天皇の前で206回も鞠を落とさずに蹴り続けて絹を授けられたというエピソードがある。

ちなみにこの歌は恋の歌ではないので有明の月を詠ってはいるが別にせつなさをだすためではない。
吉野を詠っているのは、自身が大和国の国司経験があったので親しみがあったのだろう。


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