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【小倉百人一首】68:三条院

2014年08月03日 02時04分54秒 | 小倉百人一首
三条院

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

久々に天皇の登場。
三条天皇は67代の天皇。先代の一条はいとこにあたる。
皇后は藤原済時(兼家のいとこ)の娘・娍子で、中宮には道長の娘の中で最も美しいといわれた次女・妍子。
これだけみると藤原氏と仲がいいようにみえるが実際は逆で、道長としては長女の彰子と一条天皇との間に生まれた皇子(後の後一条)に皇位を継がせたいがために三条に圧力をかけ、結局三条はその圧力に負けてしまう。原因のひとつに自身の眼病があり、失明寸前だっという。他の大臣はみな、道長に阿っていたため、妍子に仕える官人は多かったが、娍子に仕える官人はまったくいなかったほどである。

この歌は退位のときに詠んだ歌で、不本意な退位と病気でいずれ月がみれなくなる絶望感を歌い上げている。

道長は一般に天皇をしのぐ威勢を誇った独裁者の印象が強いが、一条天皇の時代には天皇をないがしろにするようなことを行った痕跡はなく、むしろ天皇を立てて臣下の分を守っていたといってよい。それに、当初は伊周という政敵がいたが、向こうが自滅したため、道長が政権を握るまでの間は不思議と幸運に恵まれていた。
しかし、摂関政治の生命線ともいうべき後宮政策についてだけは歴代の籐氏長者をもしのぐ強引さで次々に立后していった。道長こそは摂関政治の体現者といってよい。その道長にとって最初で最大の障害が三条天皇であったといえる。

実は道長から見て、血縁関係は一条も三条も同じ近さなのだが、一条の生母(道長の姉・東三条院詮子)が道長びいきだったのに対し、三条の生母(道長の姉・超子)は道長と年も離れており早くに亡くなった為、道長が三条の親近感を抱く契機はなかっただろう。そのため道長と三条は最初からウマがあわず三条自身も道長に嫌がらせを受けているという被害妄想にかられた部分があったことは否定できない。

三条は退位の条件として次に即位する一条の皇子(後一条)の東宮(次代の天皇)に自身の息子である敦明親王を立てることを道長に約束させた。が、三条自身が退位後にほどなく崩御すると、後ろ盾がない敦明親王は道長のプレッシャーに負けて東宮を降りる。ただしその後の待遇は上皇に匹敵するほどだったので、ある意味幸せだったかもしれない。しかも道長は自身の娘・寛子を嫁がせた。そのためそれまで敦明親王の女御だった藤原延子はまったく省みられなくなり失意のうちに死去する。
この藤原延子の父は藤原顕光(道長のいとこ)といい、まさに家柄だけで出世した無能な貴族の典型ともいえる人物で、道長が人臣筆頭の左大臣時代、No.2の右大臣だった人物である。その無能ぶりを示すエピソードには事欠かず、儀式を仕切る役割を自ら買って出たにも関わらず、失敗を何度もしでかし道長を激怒させたこともある。最後の最後まで世間から嘲笑されて死んでいった。


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