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【小倉百人一首】83:皇太后宮大夫俊成

2014年09月02日 03時56分10秒 | 小倉百人一首
皇太后宮大夫俊成

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

本名は藤原俊成。定家の父。
祖先は藤原道長の六男・長家。


                    ┏為氏(二条家)
  ┏頼宗━俊家━基俊         ┣為教(京極家)
道長┻長家━忠家━俊忠┳俊成━定家━為家┻為相(冷泉家)
           ┗豪子
            ||━実定
         徳大寺公能


この家系は御子左流と呼ばれ、歌道を家業としている。後にその子孫は二条家(嫡流)・京極家・冷泉家と別れ、そのうちの冷泉家の邸は日本で唯一の現存する公家屋敷であり、ここから貴重な文献が数多く見つかっている。

俊成は藤原基俊から古今伝授を授かっているのだが、この古今伝授とは『古今和歌集』の解釈の相伝のことであり、二条家で一子相伝として受け継がれた。その後、二条家から何人かの弟子たちに伝わり室町末期には三条西家が相伝していた。当時の三条西家の当主・実枝(織田信長によって大納言に任官されている)は子供が幼かったために細川幽斎(藤孝)に、将来自分の子に伝えることを条件に伝授したのだが1600年、徳川家康が上杉景勝を征伐しに東北に向かうと、石田三成が挙兵。西軍の一員であり豊臣恩顧の大名でもある小野木重勝率いる軍勢が幽斎の居城である田辺城を攻撃した。もし幽斎が討ち死にすれば古今伝授が途切れてしまうため、朝廷の斡旋により田辺城は開城され、幽斎は命拾いする。そして後に三条西家の跡取りである実条に伝授している。
ちなみに小野木重勝は関が原には参戦していないが後に自刃させられた。

俊成の有名なエピソードに、歌道の弟子である平忠度(清盛の弟)とのやりとりがある。
忠度は武将としても優れていたが歌人としても平家で随一であった。が、源義仲によって平家が都落ちする際、一度都をでた忠度はわざわざ引き返して俊成の屋敷に行き、自分の詠んだ歌を書いた巻物を俊成に託して、将来勅撰和歌集を作る際、この中にふさわしい歌があればいれてくれるよう頼んだ。
忠度自身は翌年の一の谷の戦いで戦死するが(その死は敵味方に惜しまれた)後に俊成は『千載和歌集』を選進する際に、忠度の歌を一首選んだ。ただし平家は朝敵だったため、作者名は本名ではなく読み人知らずとした。それが

 さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

という歌である。ちなみに1232年に定家が後堀河の命で選進した勅撰和歌集である『新勅撰和歌集』では本名の薩摩守忠度で収録されている。


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