BLOG in Atelier.Minami

ゲーム攻略、読書感想文など。

【小倉百人一首】81:後徳大寺左大臣

2014年09月02日 01時38分15秒 | 小倉百人一首
後徳大寺左大臣

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れ

本名は徳大寺実定。風月を詠うことにかけては天才といわれる歌人。
血統については七代前の祖先であり道長の弟である公季(太政大臣)から始まる閑院流という流れになる。ちなみに道長の嫡系は御堂流と呼ばれる。
公季の孫である公成は将来を嘱望されたが権中納言で終わる。が、後三条に入内した茂子が白河の母となり、孫の苡子が堀河の女御として鳥羽を生み、さらに公成の曾孫にあたる待賢門院璋子は白河の寵愛を受けた。藤原忠通のところで書いたとおり、この璋子は後に鳥羽の中宮となり、崇徳・後白河の二帝の母となった。
さらに実定の姉妹には後白河の中宮となった忻子と、近衛の皇后となった多子がいる。なのでこの血統は平安後期から末期にかけて大いに栄えたわけである。ちなみに多子は近衛が崩御した後、二条(後白河の皇子)の后となってしまった。二人の天皇の后になったのは歴史上多子だけである。


               ┏実行(三条) ┏実定
               ┣通季(西園寺)┣━━多子
            ┏公実╋実能━公能━┻忻子||
┏公季┳実成━公成┳実季┫  ┗━璋子┏崇徳 || ||
┃  ┗義子   ┗茂子┗━━苡子||━┻━━後白河||
┃   ||     ||    ||━鳥羽━━━━━━近衛
┃   ||     ||━白河━堀河
┃  一条┏後一条 ||
┃   ||┻後朱雀 ||
┗道長┳彰子 ||┳後三条
   ┗━━嬉子┗後冷泉

徳大寺家というのは実定の祖父・実能が徳大寺を建立したことからついた家名。この実能が左大臣であったことから徳大寺左大臣と呼ばれ、実定は”後”徳大寺左大臣と呼ばれたわけである。ちなみに父・公能は右大臣で終わっている。

実定が生きた時代はまさに貴族の時代から武士の時代への過渡期にあたり、実定自身も保元・平治の血で血を洗う抗争を生き抜き、平清盛が政権を握った時代には雌伏を強いられる。が、源義仲が平家を都から追い払った1183年には内大臣にのぼる。
源義経の活躍により平家が滅亡した後、義経と兄・頼朝の仲は険悪となる。この原因は、義経が壇ノ浦の合戦で三種の神器のひとつ・草薙の剣を回収できなかったことや、その後義経が頼朝に無断で後白河から官位を授かったことなど様々な説があるが、いずれにしろ窮地に陥った義経は、後白河を強要して頼朝追討の院宣を強引に引き出す。が、義経のものには兵が集まらず、再起を賭けた船出も難破におわり手飼いの兵を失ったことから形成は逆転。今度は頼朝の舅である北条時政が上洛してきて後白河から義経追討の院宣をださせた。ちなみにこれが鎌倉幕府が全国に守護地頭を置く契機となる。
さらに源頼朝は後白河の影響力を極力朝廷から排除するために儀奏公卿10名による朝廷の運営を推進させる。この公卿の筆頭は藤原忠通の六男である九条兼実で、実定もこの10名に入っている。その後1189年には左大臣になるがほどなく死去する。

九条兼実は摂関家の嫡流でもあり、朝廷と幕府の橋渡し役として辣腕を奮う。後白河が生前に認めなかった頼朝の征夷大将軍任命を決定したのもこの兼実。後に曾孫の九条頼経は、鎌倉幕府の四代目将軍となる。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿