愛しています

すべての方が、笑顔で
あたたかく優しい 愛ある日々を
生きられることを願って・・・

成功への道

2008年12月21日 20時23分19秒 | 願望成就
 
多く方々が、行動の大切さについて言われています。


 「考えすぎると、人間は臆病になる。」
              映画 コクーン



 「仕事に失敗するのは運が悪いのでも何でもない。
   なすべきことを怠ったからである。」
              松下 幸之助



 「行動が必ずしも幸福をもたらすとは限らない。
   しかし行動なしでは幸福はあり得ない。」
         ベンジャミン.ディズレリー(元イギリス首相)

         イギリスのヴィクトリア朝期の政治家。
         イギリス首相となったユダヤ人は、 ディズレリー氏のみ



 「我々は成功によってよりも、失敗によってこそ多くを学ぶ。」
         サミュエル .スマイルズ(イギリスの作家)

   スマイルズの世界的名著 自助論
   原著の「Self-Help,with Illustractions of Character and Conduct」は
   明治4年に中村正直氏により翻訳され、「西国立志編」という名で出版。
   「学問のすすめ」と並んでベストセラーになり、当時の日本で100万部販売



 「英雄とは自分の出来ることをした人だ。
   ところが、凡人は その出来ることをしないで
   できもしないことを 望んでいる。」
         ロマン.ロラン(フランスの作家)

         主著『ジャン・クリストフ』により
         1915年にノーベル文学賞を受賞




そして、私が 昨日 読んだ本に このように書かれてありました。

人生最大の失敗は、失敗が一度もないということです。
何もしなければ、失敗もないのです。
目標を下げれば、失敗はしなくなるでしょう。

失敗を恐れる人は、すでに老人である。
年を取れば、特に努力をしなくても だんだん保守的になり
慎重になって、いろいろなことに チャレンジしなくなっていきます。

自分が、これは正しい これは真実だと思ったならば
それに、チャレンジしていく精神を 持たねばならないのです。



                             



私は、石橋を 叩いたことがありません。
叩く暇があれば、もう渡っています。

自分が正しいと思う道を ずっと歩いてきました。
そうすると、真実の友達が 私の周りに たくさん現われました。

この幸福な心境に到達するまで、私は たくさん たくさん失敗をしました。
本当に 本当に 驚くほど あきれるほど
たくさん失敗し続けてきましたが、素晴らしい人生でした。
たくさんの失敗から、手に抱えきれない 幸福をいただきました。



永い間 私を知る人は
「ryuruちゃんは 言っていたと思ったら もう行動している人
 結果も 普通じゃない。」 と表現されます。

行きたい向こう岸に、渡る橋が架かっていなければ
自ら橋を設計し 材料を集め 橋を作ります。
橋を作っていると いつの間にか 協力者が現われ
みんな笑顔で 一緒に橋を作り 渡るからです。



そして・・・今の私は、向こう岸に渡る方法が変化しました。
橋ではなく、「 瞬間移動するわよ みんな用意はいい? 」 という感じでしょうか

願望が実現しない理由は、念いです。
行動に変化できない、高められない念いは
・・・・・ 失敗を恐れる老人思考ではありませんか?
石橋を叩きすぎる人 現実ばかり言って言い訳する人
・・・・・ 青年思考で生きませんか?



でも、石橋を叩いている人 自分で叩いていると気付いていない。
現実ばかりで言い訳している人 言い訳を言っていると気付いていない。

そして・・・ 私も、努力の日々
真実の勇気ある人になるため 人格向上を目指して・・・永遠に
 

私の人生は、ご褒美の人生

2008年12月21日 16時03分55秒 | ryuru ♪
    
松下幸之助さんが このように言われたそうです。

「部下の失敗は、ただ叱れば良いというものではない。
失敗を 自覚している時には、慰めも 又必要です。」



又、このように言われた方がいらっしゃいます。

ネイティブ・アメリカンは
「人間は不完全な生き物である」という教えを何よりも大事にしている。
例えば、敷物を織る時でも わざと一カ所だけ間違った織り方をする。
それは「人間の作るものに完璧はありえない」ということを忘れないため
こうしたネイティブ・アメリカンの生き方は
私達に「人間にとって真の美しさ、威厳、思いやりとは何か」
という事を教えてくれる。



一昨日、仕事が終わられ帰宅時 ソウルメイトから電話をいただきました。
「ryuruちゃ~ん 元気~? 私は あなたがいなかったら 生きていけない。
 ryuruちゃんに 出会わなかったら
 考えただけで 恐ろしい人生になっていた。」・・・と

それは、何か発生した結果の言葉でもなく、記念日でもない日常会話。
私を どれだけ勇気づけるものになり 彼女から元気をいただいたことでしょう。

私は、このような言葉を 多くの方々から 日常的にいただき続けている
幸せ者です。

同性愛者?とも思われる 女性同士の深い心の交流の日々だけでなく
それは、男性も同じです。このプログには 書いていませんが
性別を超えた、人間対人間 そんな人間関係をたくさんいただいています。



私を そこまで愛してくださる理由を 聞いてみました。

・・・ 癒しと向上 それに伴う 幸福 ・・・
自分で見えていない 自分の真実の姿を見抜き 心底 引き出してくれる。
一緒にいて 居心地のいい愛に包まれながら、人生で訪れる諸問題の
根本解決に向える 大きな喜び という言葉をいただきました。

私に出会ったことをきっかけに
目に見える世界感、この世的視点で生きていらした方々が
このように 自らの人生を大きく向上されていかれました。
人生の質 時間の質が変化するそうです。



私にいただける嬉しい言葉は
それぞれの方々の それぞれの人生の一瞬一瞬の それぞれ相違するシーンで
発せられた大切なもの。
その言葉 一回一回が、どれだけ重いものであることでしょう。

その一回一回の重みを 深く理解し
与えていただき続けている幸福な言葉に 溺れることなく 慣れることなく
世界にとって有用な人でありたいと 私は努力を続けられる決意となります。



文頭に書きました。
人間は 不完全な生き物。慰めが必要と・・・

世の中には、自分の不完全箇所を 自ら過大評価し
愛欠乏症という 心の病気にかかっている人が なんて多い事でしょう
と 思うのは 私だけではないはず ・・・

だから、私たちは この逆で生きています。
なんでもない時に、日常的に 言葉、行動によって 愛を伝えています。

愛は、奪うものではなく、与えるもの。
このように 嘘偽りのない 真実の人間関係の中で 生きられると
松下幸之助さんが 言われた 次の言葉のように 生きられます。



青春とは、心の若さである。

信念と希望にあふれ、勇気にみちて
日に新たな活動を続けるかぎり
青春は、永遠に その人のものである。

          松下 幸之助



私の人生は、永遠に 青春
「信念」 「希望」 「勇気」 「日々、行動」 という青春の日々
私の周りの人も、みんな永遠に青春

私は、今 「悩み」 「苦しみ」 「不安」 「心配」 ・・・
このような種類の言葉とは 無縁の人生を生きています。

この心境に、たどり着かせてくださったのは、李 炳憲さんです。



運命は、君が逆らえば、君を引いていくが
君が同意すれば、君を導く
          ストア哲学者



私は、全てを受け入れることが出来ました。
李 炳憲さんに、心から 心から とても とても感謝しています。

そして、私を愛し続けて下さるソウルメイトの皆様
私も、皆様がいないと生きていけません。

共に歩める 美しい時を、本当に 本当に ありがとうございます。

私は、いつ どこで 今世の命終わろうとも 全く後悔ありません。
私のこれからの人生は、ご褒美の日々だと思っています。
頑張ったご褒美・・・



いつか、全ての方の人生が ・・・ 生命が、必ず 終わります。

あなたは、どのように生きたのか?
あなたは、どのような人生だったのか?
一人ひとりの人生の終わりの日に、それぞれの人生を見つめる時間が
全ての方に 訪れます。・・・必ず、訪れます。

その時には ・・・
全ての方々が、「 私は、とても とても幸福でした。」
と言いきれる 美しく尊い人生でありますように ・・・


          大切な大切なソウルメイト Yちゃんの誕生日に
                          2008.12.21 ryuru





私は、今 「悩み」 「苦しみ」 「不安」 「心配」 ・・・
このような種類の言葉とは 無縁の人生を生きています。

と、堂々と書くryuru 一体どんな奴なんだ?という感じでしょうか?
この心境は、今世だけで形成されたものではありません。
とても、とても 穏やかで 幸福な境地です。

そんな私に、次 どんな課題を与えていただけるか分かりませんが
生命尽きるまで、楽しんで 人生を歩み続けます。





* ネイティブ・アメリカン(Native American ネイティヴ・アメリカン)

アメリカ合衆国の先住民族の総称である。
近年、アメリカ州の先住民族の一部である「インディアン」の呼称について
「差別を助長するのではないか」という理由から、「ネイティブ・アメリカン」
と呼び替える動きが(インディアン側からではなく、白人側から)進んでいる。

しかし、この単語は、インディアンのみならず、アラスカ先住民やハワイ先住民など
アメリカ国内の先住民すべてを指す意味があり、また、アメリカで生まれ育った
移民の子孫(コーカソイド・ネグロイド・アジア系民族など)をも
意味するのではないかという議論もある。

一方、「インディアン」と呼ばれることに誇りをもつ先住民はこれを自称し
その名称を替える事自体がごまかしであり、差別的であるとする見解もある。
「アフロ・アメリカン」や「ユーロ・アメリカン」などと同列に「ネイティブ・
アメリカン」を並べられると、彼らは人口比で極少数民族に転落してしまう。
さらに「北米先住民」としてのオリジナリティーが、政治的にごまかされる
恐れがあるとする意見も彼らの間では根強い。

「ネイティブ・アメリカン」には、次のような先住民が含まれる。

アメリカ・インディアン - いわゆる「インディアン」
エスキモー - 現在のアラスカ州地区に居住
アレウト族 - アリューシャン列島に居住。「アリュート」ともいう。
ポリネシア人 - ハワイ諸島(ハワイイ)、及びアメリカ領サモアの先住民
トンガ人 - アメリカ領サモアの先住民
ミクロネシア人 - マリアナ諸島の先住民




* ストア派 : ヘレニズム時代に成立した哲学

アテナイでゼノンによって開かれたギリシャ哲学の一派であり
徳と平静さを重んじた。

この派にちなむストイック(stoic)という言葉が示すように
禁欲的な思想と態度によって知られる。

アカデメイア、リュケイオン、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。
ストア派なる名は、ゼノンがアテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で
教授していたことに ちなむと言われている。

とくに、古代ローマの共和制末期からキリスト教を認める前までの
帝政期における影響は非常に大きい。

徳の実践を第一
自分達が善い生き方であると考えた生き方について実践することを要求する。
堕落した生活は 魂までをも 堕落させると考える。
ソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと 思われる。

感情からの解放(理性主義)
あらゆる感情から解放された状態を 魂の安定とし 最善の状態として希求する。
当然、死に際しての恐怖や 不安も 克服の対象と考える。
その理想として よくソクラテスの最期が 挙げられる。
怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を 受け入れ行動することを理想とする。

運命の肯定と自由意志の肯定
これにより人は 運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。
しかし、不完全な運命を補正する自由意志により 運命さえも
自己の意識によって 良き方向へと革新できると主張。

善悪の超越
究極的には、世俗的善悪も 人間の判断が 生み出した幻想に過ぎない。
 

真実の幸福な人生に 必ずあるもの

2008年12月19日 13時37分33秒 | 願望成就
 
今日、Yちゃんが
私の引越しに 必要なダンボールを届けてくれた時
一緒に コーヒーを飲みました。

自然栽培のコーヒー豆???
美味しい!!!と 私の入れたコーヒーを とても 喜んでくれました。



以前、Yちゃんと一緒に 整体に 行きました。
新幹線で 施術に訪れる患者さんもいらっしゃる 有名な整体院
そこには、施術前に 自分で作って飲む 飲み物がありました。

Yちゃんは、「自分が作ったものは、とても苦い。
ryuruちゃんが 作ったものは、とても まろやか。
どうして こんなに 味が違うの??? 」と驚いていました。



作る人が違うと
同じ事をしても 出来上がったものは 味が変わります。

作る人が同じでも
その時の心の状態により 出来上がったものは 味が変わります。



整体院で、出来上がった味が違ったのは 作った人が違うから

いつもと同じ豆を使ったのに、今日 コーヒーの味が違ったのは
私の心が 昨日までの私よりも 大きく変化しているから



色々なFCが、世に存在します。
同じ商品を扱っても、成功する店もあれば
撤退する店もあるでしょう。

色々な理由は、あるでしょう。
けれども、一番の要因は 心ではないでしょうか?

同じものを販売している店
私なら、行ってよかった。出逢えてよかった という
気持ちよい接客をして下さる方が いらっしゃる店に 行きます。


                                      


奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則さん

NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』にも登場
無農薬リンゴを 栽培することに成功した 壮絶な人生



東京白金台にある 隠れ家レストラン『シェ・イグチ』
その看板メニューが「木村さんのりんごのスープ」

シェフの井口久和さんは
「腐らないんですよね。生産者の魂がこもっているのか」と言われます。

井口さんの厨房で 二年前から保存されていた 二つに割ったリンゴは腐らず
枯れたように小さくしぼみ、お菓子のような 甘い香りを 放っていた。



私たちが 食べている リンゴの ほとんどすべては
農薬が 使われるようになってから 開発された品種
農薬を 前提で 品種改良された品種

その結果として、現代のリンゴは コーカサス山脈の野生種とは
比べ物にならない 巨大で 甘い果物になった。

その引き換えとして、リンゴは 野生の力を失い
農薬の助けなしには 病害虫と 戦うことの出来ない
極めて 弱い植物に なってしまった。

農薬が、発明されなければ リンゴ畑は とっくの昔に
日本から 青森県から 姿を消していたに違いない。



木村さんは、すべてのリンゴ畑を 無農薬にした。
3年が過ぎ 4年目になっても
リンゴの花は まったく咲く気配を 見せなかった。

貯えは底をつき、義父の郵便局の退職金も 使い果たした。
3人の娘と 妻の両親と 一家7人が 貧乏のどん底にいた。

トラクター、自家用車、2トントラック も売った。
税金の滞納が続いて、リンゴの木に 赤紙が貼られ
銀行、消費者金融、実家、親戚から 借金をした。

電話は、とっくの昔に通じなくなっていた。
健康保険料が払えず、健康保険証も 取り上げられ
子供のPTA会費も 払えない。

娘たちの服どころか 学用品すら まともに買えない。
木村家の耐乏生活は、近所の人々の目には 悲惨というより
むしろ 奇異なものに 映っていた。



リンゴ以外の作物なら、無農薬栽培は それほど難しくない。
しかし、リンゴの無農薬栽培だけは とてつもなく難しかった。

しかし、不可能なはずはない。
今は、害虫と病気に置かされてるけれど、自分なら きっと この問題を解決して
リンゴの木に 実をならせる方法を 見つけられるはずだ。

それが、いつしか木村さんの信念に なっていた。
ある意味では、その信念が木村さんの最大の障害だった。

無農薬で、リンゴを栽培することは 木村さんにとっては 夢でも
他の農家には 狂気の沙汰の 空想でしかなかった。



ついに気が狂ったと思われた。
木村さんは、リンゴの木に声をかけていたから・・・

リンゴの木は、リンゴの木だけで 生きているわけではない。
周りの自然の中で、生かされている生き物

人間も そうなんだ。
人間は そのことを忘れてしまって、自分独りで 生きていると思っている。

リンゴの木は、リンゴという果実を生産する機械ではない
リンゴの木もまた、この世に受けたひとつの命

このように、木村さんは、リンゴの木に 感謝していた。



そして、8年目に 奇跡が起こった。
1991年秋 青森県に台風が直撃し、リンゴ畑が 壊滅的な被害を受けた。

リンゴが 落果しただけではなく、リンゴの木 そのものが風で倒れるという
被害まで被り、県内のリンゴの被害額が 742億円にものぼった。

ところが、木村さんの畑の被害は 極めて軽かった。
なんと8割以上のリンゴの果実が 枝に残っていた。

リンゴの木は 揺るぎもしなかった。
根が 普通のリンゴの木の何倍も長く 密に張っていただけではなく
木村さんのリンゴは 実と枝をつなぐ軸が 他のものより
ずっと太くて 丈夫に育っていたのだった。



木村さんの人生を本にされた方は このように表現されました。

リンゴの外見は 普通
それほど 大きくなく 形は 歪んでいて 小さな傷もある。

そのリンゴに 初めてかじりついたとき、不覚にも 涙を こぼしそうになった。
もちろん 先入観があったことは 認めよう。
木村さんが 30年間にわたって 経験しなければならなかった
数限りない苦労のことを 思い出していたのは事実

けれど、そのリンゴは 信じられないほど 美味しかったのだ。
あまりに 美味しいものを食べると、人は 涙を流すのだということを
その時 初めて知った。

一口 頬張った瞬間に、大袈裟ではなく
自分の全身の細胞が 喜んでいるような気がした。

「これだ!これだ!これだ!」細胞という細胞が そう叫んでいるような気がした。

母親と引き裂かれて育った赤ん坊が、初めて母の胸に抱かれた時
一体 どんな顔をするんだろうか。

きっと 泣くんじゃないかと思う
泣きながら、夢中で 母親の胸に顔を 埋めるんじゃないか

リンゴを 食べながら、そんなことを 考えていた。
ふと気がつくと、手の中に残っていたのは、リンゴの種だけだった。
リンゴの芯まで 食べていた。
そのことに 気づかぬほど、芯まで美味しい リンゴだった。



木村さんは、頼まれれば どこへでも出かけて行って話をする。

あれだけ苦労して辿りついた リンゴの栽培法にしても
求められれば 誰にでも 惜しげもなく教えている。

それを、自分の専売特許にしようなどとは 夢にも考えていない。

あれだけ苦労をしたのだから、少しぐらい その苦労から利益を得ようとしても
ちっとも悪くないと思うのだけど、木村さんはそういうことには
まったく興味を抱かない。

家の襖も ずっと張り替えていない。
そんなことよりも ずっと大切なことがあると 知っているからだ。

ここまで、自分の信念を貫き、道を究めることができるだろうか
木村さんの笑顔は求道者の顔ではない。純粋な子どものような笑顔だ。


                                      




世界中で、一番幸福な人間とは感謝の出来る人である。
             ダスキン創業者 鈴木清一

命をかけるというほどの思いがあって初めて
いかなる困難にも対処していく力が湧いてくる。
                松下 幸之助



「感謝と信念」が、真実の幸福な人生を切り拓くもの 私は そう思います。

永遠の見解の中で、感謝を 日々 深める努力をしながら生きられ
命をかけられる以上の存在の彼がいる私は とても とても幸せです。
 

自分自身になる

2008年12月19日 10時22分59秒 | 願望成就
 
ユダヤ教法学者ラビ・ズーシャさんが、このように言われました。

天国に行くと
「どうして、モーゼのようになれなかったのかね?」
とは聞かれずに
「ズーシャよ。どうして自分自身になれなかったのかね?」
と言われることだろう。と



自分と同じ人間は、この宇宙に一人として存在しない。

もっと 自分を 褒めてあげませんか?
もっと 自分を 愛しませんか?
もっと 自分を 許しませんか?
もっと 自分の 価値を認めませんか?
もっと 自分を 大切にしませんか?

そうすると、自分自身になれるのに・・・と、私は 思います。



私の生き方

理解出来ないと よく言われます。
でも、うらやましいと よく言われます。

ryuruのように 夢を追いかけて 生きられないと 人は言います。
でも、夢を追いかけて生きる人が 私の周りに現れ続け
私と共に歩き続け 自分自身を生きられています。

私と共に生きる人が増えた理由は
私の夢が 現実化し続けて 目で確認し認める事が出来たから。
結果が見えたからです。



そのように
心に描く 未来の姿が、実現し続けてきた集積が現在の私です。

人の本質は、意志
肉体という衣装をまとっているだけ
一瞬一瞬 考えていることが、その人そのもの
人は、自分で 出来ないことは考えられない

だから、私が 心に念うことは 全て実現してきました。
だから、私の人生は 全て 考えている通りに なってきました。

でも、それは 私だけではなく 全ての人が そうです。
その事実に、多くの人が 気付いていない。
気付いていないから、その事実を 認めることが出来ない。



私には、兄弟がいます。

その兄弟は、私の人生を
「波乱万丈って・・・そんな言葉では語れない。度を越している。」
と少し迷惑そうに言います。

私が、どんな環境の中でも、幸せって 笑っているから
怪しい・・・日々 怪しさが増し続けている・・・と思っていることでしょう。

・・・兄弟は、気が付いていない・・・

天国から生まれる前に 自分で自分の人生計画をしてくるということに
だから、人のせいではなく全て 自己責任ということを

受け入れなくてもいいことを 受け入れて
受け入れるべきことを 受け入れられない
そのような思考が、自分本来の姿を隠しているということを・・・



マダガスカルのことわざに
家を暖めてくれるのは、熱い暖炉より寧ろ夫婦間の深い理解である。
とあります。



今年も 冬が到来し、寒くなりました。
人生 結婚が全てではないけれど、兄弟も独身

長い間付き合い続けている ミスユニバース日本代表の年上の彼女
ずっと ミスのまま・・・オールドミス・・・
と 私は 何度 残念に思ったことでしょう。



私が 結婚したら 兄弟が結婚できると思います。

理由は・・・理由なき直感
直感(インスピレーション)ほど、確かなものは 私の人生には存在しなかった。
その直感は、ラビ・ズーシャさんが表現された「自分自身」だから
 

Birthday

2008年12月13日 11時38分25秒 | ryuru ♪
 
今日は、私のBirthday~
このケーキは、私をイメージして作って下さったオリジナル
たくさんのお祝いを 皆様 本当に本当にありがとうございます。

両親には、お花を持って ・・・
たくさんの愛を込めて育てて下さって ありがとうございます。
命を与えて下さって ありがとうございます。
・・・ と感謝を伝えて来ました。
 

日本人の妻・・・運命の結婚

2008年12月04日 15時58分21秒 | イビョンホンさん
 
私が、ミンさんに初めてお会いしたのは
6年半前の 2002年5月でした。

その時は、まさか 自分に 韓国という国が
このように 深い 深いご縁のある国とも知らず・・・
自分に このような運命が 訪れるとも 思ってもいませんでした。



イビョンホンさんの東京ドームイベント翌日 2006年5月4日
私は、羽田から金浦に入りました。

羽田は、イビョンホンさんをお見送りされるファンの方々で溢れていました。
その後、イビョンホンさんが 金浦を 後にされたのは 22時過ぎ
その頃は、まだ 追っかけの方が 少なかったのか
金浦には、10名も いらっしゃらなかったです。
ほとんど いつも一緒にいらっしゃるマネージャーで イビョンホンさんの
年下の叔父様も カメラを持たれていらっしゃいませんでした。



ミンさんのお父様 ミン・フェシク教授が私を
初めて 景福宮に連れて行って下さったのは、2006年5月7日

李氏朝鮮王朝26代の高宗の妃 閔妃の孫であられ
国の奨学生として将来を嘱望された 韓国初のフランス留学生
漢陽大学仏文学科の元教授 イビョンホンさんの恩師

韓国の著名な知識人であり
朝鮮戦争後、急速に衰えた韓国仏教再興の立役者
功労者として数多くの仏僧や仏教徒からも尊敬を
集めていらっしゃる方



ミン教授は、いつお会いしても、温和で・・・
ソウルの町を歩きながら、色々な話しをして下さいました。

イビョンホンさんが、大学時代
芸能活動の為 テスト勉強をする時間が なかなか 作れなくて
教授の元を訪れられた話は・・・ソウルのどの辺りで お聞きした話しだったでしょう

とても懐かしそうな 嬉しそうな お顔をされて
イビョンホンさんのことを お話ししてくださった 教授のあの時のお顔は
今でも忘れられません。




結婚は、運命だと 最近のイビョンホンさんは
語り続けていらっしゃいますが
ミン教授のご結婚も、運命でいらっしゃいました。

閔妃の子孫の ミン教授が 選ばれたのは・・・
日本人の奥様で いらっしゃいました。

私は、この世では お会いできなかったのですが
とても 多くの方々に慕われ 素晴らしい方で いらっしゃった事は
教授、教授の息子さんと接させていただき とてもよく分かります。

そして・・・私と同様 目に見えない世界を感じ 見える方でいらっしゃり
お花の妖精と 話しができられたそうです。
これは、私は 未知の世界で(笑)自分のことを すっかり棚にあげて
不思議な方が いらっしゃるんだなぁと 思ったものです。



息子さんのミンさんも、日本人の奥様でいらっしゃいます。
かなり著名な教授、それも閔家・・・二代続けて・・・
人の意志ではない 作られた運命  定められた何か、大きな意図。。。

現在は 暮らしやすくなったでしょうが、以前は
日本人が 韓国で生きていくのは 言葉にならないほどの
大変な事が 数々・・・日々おありだったことでしょう。

世界から、紛争がなくなって、国の枠を超えて
真実の幸せの中で 生きていける日は いつ訪れるのでしょう。

啓示から始まった真実の人生

2008年12月03日 17時58分13秒 | 願望成就
                  現存するジャンヌ・ダルクの生家
 
天国からの 啓示から始まり
・・・使命に生きた人 ジャンヌ・ダルク・・・600年前の少女


                                   


「われ一人立つ」
小さな村に生まれた少女
その一人の勇気が、仏英両国 そして ヨーロッパの歴史を変えた。

奇跡を呼んだ少女 ~ジャンヌ・ダルク~ (1412~1431)



時は、仏英衝突の百年戦争の真っ只中
オルレアンが陥落すれば、フランス全土が英軍の手に落ちんとする
まさに その時に 彗星の如く現れた17歳の少女

敗戦寸前の境地からフランス軍を救い、王太子を守り立てたジャンヌの功績は
王政によるフランス王国の統一と繁栄への道を開いた。

後のブルボン朝の繁栄、芸術や学術等の文化的興隆
フランス革命による近代国民国家の建設と 現在につながる
フランスやヨーロッパの活躍が歴史的な礎となっていると言っても
過言ではないという

どこの村にもいるような普通の少女だったジャンヌは、1425年
13歳の夏のある日 天使達から霊的な啓示を受けるようになった。

後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット
そして大天使ミカエルからの啓示であったという。




1425年のある日の夏の昼頃、家の裏にある 小さな果樹園で
一人まどろんでいた時、突然まばゆい光が 自分に注がれる気配を感じた。
同時に 耳もとで 誰かに 話し掛けられるような気がした。

あたりには 人影は見えないのに、声だけが 頭の中に
直接 響いてくるような 実に奇妙な感覚なのである。

声は 右手にある教会の方角から 響いて 来るようでもあった。

その声は 穏やかな感じで 自分は 聖ミカエルだと名乗り
次のような メッセージを 伝えるものであった。

「ジャンヌよ、これからは 私の指示に従うのだ。
お前は 祖国を救うため 神によって選ばれた。
男装し 武具をまとい 人々を先導するのだ。
そうすれば、すべての人は お前に付き従うことであろう」

その後も 彼女の身には、不思議な出来事が 次々と起こり
その度に 聖ミカエルの声を 聞くことになる。

       ・
       ・
       ・

1431年5月30日 朝
異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告
火刑に処され、その短い生涯を閉じた。

後世の概念魔女と よく混同されるが
まだこの時代には魔女という概念は 確立しておらず異端者とされた。

ジャンヌを護衛した騎士ジル・ド・レイは後に残虐行為を行なったとされ
吸血鬼、男の魔女(黒魔術師)とされ火刑となった。



火刑は 中世ヨーロッパのキリスト教的世界において
処刑される者にとっても 最も苛烈な刑罰だった。

その残虐な刑罰方法もさることながら、重要なのは
死体が灰になってしまうという点にある。当時の埋葬方法は土葬が基本だった。

キリスト教のカトリックであれば誰もが 死後には土葬を望んだのである。
その理由というのは 遺体が燃やされて灰になってしまっては
最後の審判の際に 復活すべき体がなくなってしまうからという
宗教的なものだった。

このように、火刑は 肉体的・身体的な恐怖感のみならず
精神的・宗教的な絶望感をも与えたのである。

近現代に入り、欧米でも国によっては 火葬は公衆衛生学的な視点から
伝染病対策などとして 積極的にすすめられるようになったが
熱心なキリスト教の信者たちは 火葬に対して強い抵抗を感じていた。



点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが
火の勢いが強くなると「すべてを委ねます」と言い
無反応になったと 記録されている。

炎の中、ジャンヌが高温と煙で窒息死し
その服が燃えた時点で 一旦火は遠ざけられた。

魔女は 両性具有と思われていた。
ジャンヌが 聖女でも魔女でもなく ただの女性に過ぎないと示すため
群衆に向けて裸体、陰部をさらされた。

死してなお、女としての屈辱も受けたのである。
こうしてジャンヌの19年という短い生涯は終わった。
故郷を出てから たった2年後のことである。

その後 約4時間をかけて燃やされ 燃え尽き 灰となったジャンヌは
非情にもセーヌ川に 投げ込まれた。

このように灰さえも残さない(決して土に返さない)という
遺体の取り扱いにおいても、ジャンヌが受けた取り扱いは
当時としては最も苛烈なものだった。

その後、彼女に大恩のあるはずのシャルル7世は
「小娘一人の命で済めば安いものだ」と吐き捨てるように言ったという。



史実は多くを語らない。
しかし、彼女は 伝説の人物などではなく 明らかに実在した人物である。

しかも、崩壊寸前の 瀬戸際に立ったフランスが
名もなき一介の少女の活躍で 壊滅から 奇跡的に救われたのは
まぎれもない事実なのである。

祖国を救おうと決意した少女の健気な活躍が
絶望の淵に沈んでいた フランス人の心の中に 生きる勇気を
芽生えさせたのである。


魔女として処刑されたジャンヌだったが
その後、幾度かの裁判のやり直しを経て、1920年には
聖女として 聖者の一人に 加えられることになった。

それは、彼女の死から500年も経ってからのことである。

現在、彼女の生まれ故郷である ドンレミの村には、
聖ジャンヌ・ダルクという名の教会が建てられているという。

国を愛する心、勇気と情熱が炎となって燃え続ける限り
オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクは
神の使いとして 人々の心の中で 永遠に生き続けていくことであろう。


                                   


私の尊敬する大切な知人 Hさんは、御通夜で息を吹き返されました。
会社の旅行で訪れられた白浜・・・高波にのまれて 亡くなられていたのですが・・・
御通夜で、その場に居合わせた方々は・・・多分・・・腰が抜けるほど驚かれたことでしょう。
想像すると・・・このおっちゃん なにすんの???って笑えます。

肉体と魂(心)をつないでいる銀色の霊子線
この霊子線が切れた時、肉体に 心は戻ってこれません。

Hさんは、霊子線が 切れていないので この世に戻って来られたのでしょう。
戻ってこられる間、大きな白い壁に映し出される 自分も忘れていたような
幼少時のさまざまな出来事から 今までの自分の人生を とても早いスピードで
まるで、映画を観るように 大勢の観客の方々と共に 観られていたそうです。

これは、全ての人が 肉体を去った後 三途の川を渡った後 経験する事実です。
自分が忘れているような事まで・・・
行動だけでなく心の中で思っていたことまで全て 上映されます。

三途の川を渡らないで、生まれる前に住んでいた もと居た世界に
ストレートに帰れる人もいます。
地上で、人類史上に残るような 使命に生きられた方々です。
相当 少数ですが、目指す価値はあります。



そして、上記に ・・・ 最後の審判の際に
復活すべき体がなくなってしまうからという 宗教的なものだった ・・・
とありますが

人類史上、名の残る どんなに偉大な方々であっても
人間の男女の愛の証として 母の産道から この世に赤ちゃんとして誕生します。
人間としての肉体を持たれて 生まれ変わってくることしか出来ません。
両性も、魔女も 存在しません。男性か 女性かの人間だけです。



人は、何度も 何度も 地上に 肉体をもって 生まれ変わる。
使命と共に 生まれてくる・・・

大切な人達と 愛を拡大し 幸福を生み続ける為に
一番大切な愛しい人と、愛を美しく成就させ 真実の時を生きるために
 

生命を賭して、夫を愛した ・・・

2008年12月01日 17時10分02秒 | 懐かしいとき
 
「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火の中にたちて 問いし君はも」

  相模の国の野原で火攻めにあったときも
  私の身を気づかってくださった あなたの心は忘れません。



これは、弟橘媛が 夫 日本武尊の安全の為に 海神を沈めるために
自ら海に身を投げ、入水に当たって詠ったとされる辞世の歌

弟橘媛は、日本神話に登場する日本武尊の后
事跡は日本書紀の景行紀、および古事記の中巻、常陸国風土記に記されている。

穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘だという。
尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)を儲ける。

尊の東征に同行
走水(はしりみず)の海(現在の浦賀水道)に至った時
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した
尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。

海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。
海神の怒りを解くため、海に身を投じる。
侍女10人が、媛に従って入水した。
すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。
彼女が持っていた櫛は、七日後、海岸に流れ着いた。

『日本書紀』によれば碓日嶺(現在の碓氷峠)
『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において
媛を忘れられない尊は、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。
日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。
いわゆる地名起源説話である。



二人は、固い絆で結ばれていたことがわかる。

海神を鎮める為 自ら身を投げ出したのが、弟橘媛
夫に使命を遂げさせるために、我が身を投げ出した使命感
生命を賭しての愛

日本女性とは、どういう存在であるのか
日本女性の強靭な生き方の原型を示すものではないか?



                                 
 

倭建命(古事記では、このように表記)と弟橘媛の愛
これは、神話 伝説ではなく事実です。
私たちと同じように肉体を持った人間が、遠い遠い昔に経験した美しい夫婦愛です。

100年、200年・・・1,000年、2,000年・・・
時を経て、変わらないものは 夫婦愛しあい 生命をつないでいくこと。

どのような夫婦の形態、妻としての姿を極めるか?
100人いらしたら、100通りの考えがあられるでしょう。
100組の夫婦には、100通りの夫婦の形が存在されるでしょう。

二人が歩む日々が、どのような日々になるかは
愛し合う夫婦二人の努力の結果によるもの。
同じ生きるのであるならば、二度と戻らない一秒一秒を美しく尊いものとしたい。

私は、夫のために生きられる日々
夫の存在が、私の幸福  夫の幸福が私の幸福
このように幸せを感じる人間です。



そんな私の目の前に、今 弟橘媛さまがいらっしゃいましたら・・・

「とても、とても大きな使命を果たされましたね。
どれだけの愛と勇気が必要だったことでしょう。
現在は、生命を賭さなくてもよい時代になりました。
海神の怒りを解く方法、荒れ狂った海を静める方法
夫の生命を救う特別な方法をお知らせします。」・・・と
宇宙根源の力を使い、運命を切り開く至高方法を 私は お伝えします。

弟橘媛さま ・・・
私は、あなたの生き方を学び 手本とし
日本女性の優美な姿を美しく完成させることをお誓い致します。



私が、このような内容を堂々と書き綴れる理由は
全ての物事に対する絶対的確信です。
ここまで書けるのは、よほど正しいか 異常に間違っているか
極論すればどちらかではないでしょうか?

私は、普通に生きている一般人です。ただ違うのは・・・
ここを訪れてくださる方々の想いの種類まで感知してしまうような
体質で生まれたということだけです。

私は、今世 その力を存分に使い 夫の成功のために生き続けます。