やっぱり、気楽にいこう!

つれづれなるままに

エアフェスタ浜松2006

2006-10-30 08:53:31 | Weblog
 航空自衛隊浜松基地で行なわれた、 エアフェスタ浜松2006に行ってきた。

写真は空自の誇る圧巻のブルーインパルスの展示飛行。

会場とその周辺はまさに万博か、ディズニーランド状態の混雑。人ごみが死ぬほど嫌いな私だが、これならいいなあ。
会場には遅れて着いたので、駐車場確保と入場に手間取り、残念ながらF15JやF2戦闘機の展示飛行は見逃した。
来年は計画的に暗いうちに家を出よう。

ただおもうに会場には外国人も多く、決してそうした外国人を疑っているわけではないが、こうゆう時勢、ゲートでは手荷物検査もなく、テロリストとか一般人に混じって簡単に入場できてしまうのではないかといらぬ心配をした。

軍施設の写真を外部から撮るだけでも警官の飛んでくる国があるのに、やはり日本は平和だなあ・・・

サンバ・パゴージ考

2006-10-26 09:30:09 | 音楽
Brunoくんにパゴージについてコメントをもらったので、ちょっとサンバやパゴージについておもうことを書いてみようとおもう。

パゴージは楽しい。仲間と食事や酒を楽しみながら、誰かがカバキーニョやギターをもってくれば、あるいはこうした弦楽器がなくても、パンデイロ、タンタン、タンボリンなどブラジルのパーカッションを適当に打ち鳴らしながら、みんなが歌い踊り、愉快な宴会となる。Brunoくんが下の記事のコメントで引いてくれたYouTubeの映像がそれだ。
ところが私たち日本人にとっては、言葉がわからない、知っている曲がない、そして連中はあの調子のテンションを延々と持続させ、ついには夜が開けるまで歌い、踊り狂うので、Brunoくんのように、かれらのテンションと同調できる一部の特殊な日本人以外は、とてもついていけるものではない。
これは歯がゆいし、悔しい。パゴージに歌ったり踊ったりして参加できたら、どれほど楽しいかとおもうけれど、ポルトガル語の知らない曲ばかりなので、パーカッションを叩くくらいしかできないし、とうていかれらのように一晩中このテンションを維持する体力も気力もない。

サンバというのは、ブラジル音楽のあくまで大枠であって、その中にパゴージや、ボサノバや、エスコーラジサンバや、MPB等が包含されていると私は理解しているが、日本人とサンバとの関わりについていえば、たとえば浅草サンバカーニバルというものが毎年行なわれる。
これについて私はかつてある東海サンバ界の(そんなものがあるかないか知らないが)重鎮ともいえる人に「浅草サンバカーニバルってださいですよねえ」という失礼な発言をしてしまったことがある。もちろんかれは毎年エスコーラジサンバのグループを率いて名古屋からそれに参加しているのであるが、そんなことにも気がつかないで・・・ほんとに無礼な失言であったと後悔している。

が、しかし基本的に今もその思いは変わっていない。「浅草」というのがいけないのか? だったら「渋谷サンバカーニバル」ならいいのか?
そうゆう問題でもないような気もするが、日本人のたぶん普段は地味ーなOLとかしているブラジルファンのおねえさんが、鳥の羽やキラキラのド派手な衣装で、浅草の純日本風の街中を踊り狂うありさまが、どうみても珍妙にみえるのは私だけだろうか?
バックに流れるのは本格的なエスコーラジサンバのバテリアの演奏であるが、ビジュアルはまるでかつての日劇ミュージックホールである。

つまりふつうの日本人とこうした熱狂的なサンバやパゴージはどうしても相容れないような気がするのである。かつてブラジル人の集まる店で、スルド(ブラジルの大太鼓)奏者の友人を待っていたところ、日系人のグループがいて、演歌とか、カラオケで歌いながら、まったりとした雰囲気であった店内は、パゴージのグループが到着するや否や、雰囲気は一転、店には勢いのいいブラジルのにいちゃん、ねえちゃんが次々とやってきて、もうめちゃくちゃの大騒ぎをし始めたので、そうそうに退散したことがある。Brunoくんならこうゆうのはたぶん大好きだろう。

最近は一般的な日本人が馴染めるブラジル音楽は、普通の若いブラジル人が聞かない、古典的サンバか、せいぜいボサノバとかMPBくらいまでではないかとおもっている。

ひさしぶりに三線片手にかじやに行ってきた

2006-10-25 09:34:51 | 音楽
ひさしぶりに三線片手にかじやに行ってきた。

一通りの出演者が終わり、たまたま来ていた米良ちゃん(個性派ママさんシンガー)がぼくがもっていった三線を弾けというので、ぽろんぽろんやっていると、沖縄の民謡を知ってみえる方が何人かいて合唱になった。こうゆうのは非常にいい感じだ。

世界人類の共通の娯楽は、飲んで、歌って、踊る、ことである。(イスラム圏には「飲んで」はないが・・)逆にいえば飲んで、歌って、踊る楽しみのない国家なり、コミュニティはたとえば北朝鮮のような非常に抑圧された社会であるといえる。

カラオケのいけないところは多くの場合、歌っている人だけが楽しくて、他の人は盛り上がっているフリをしながら、本音は順番を待っていることである。盛り上がっているフリをするのは自分の順番が回ってきたときほったらかしにされたくないからである。
かじやさんの24の日もそうゆうきらいがあって、歌手を目指す人、あるいはかつて歌手を目指した人が人前で歌うことを楽しんだり、慣れたりするには非常にいいところだが、みんながみんな他人が歌うのを楽しんでいるわけではないとおもう。他の人はそうでないかもしれないが、少なくともぼくはそうだ。

音楽にしても、絵画にしても人を感動させる何かをもっている人間は極めて稀な存在だ。歌を歌って人を感動させる、これはある一握りの天才のよくするところである。
余談だが、私に関していえば、かつて歌で人を感動させたことはたった一度だけある。
それは学生のころ、新聞屋のバイト先のおっさんに連れて行かれた、相模原の場末のしがないスナックで、岡林信康の『三谷ブルース』をカラオケで歌ったところ、目の前でわたしの歌を聞いていたサラリーマンのおっちゃんがおいおい泣き出してしまったのだ。
当時私はこれを、自分の歌がうまいと勘違いして、それいらい三谷ブルースを何度となく歌ったが、あのおっちゃんのように人を感動させることなど一度もなかった。当然である、私にはそうゆう才能はないからだ。あのおっちゃんは自分の体験か何か知らないが、三谷ブルースのなにかに感じて泣いたのであり、私の歌で泣いたのではなかったのだ。

音楽を楽しむに、ひとつは一握りの有能なアーティストの演奏を聴くことである。ポピュラー音楽であれば、そのアーティストの演奏に合わせて歌ったり、踊ったりしてもいい。
もうひとつはみんなで楽しむことである。つまりブラジルのパゴージや沖縄のカチャーシーがまさしくそれだ。
その場にギターか、カバキーニョか、三線でも、太鼓でも何でもいいが、そこそこできる人が一人いれば(かれに人を感動させる特別な才能はいらない)、その演奏に合わせてめいめいが合唱したり、その場にある皿やら、机やらをパーカッションにして打ち鳴らしたりしながら、飲めや歌えや、踊れの大騒ぎをすることである。
これが古にいう「ハレ」である。日常生活という「ケ」から解放されて、日頃の鬱憤を吐き出すことであり、小さな祭りである。人間はこうした「ハレ」なくしては生きていけない。それは飲んで、歌って、踊る文化が世界中のあらゆる民族に共通に存在していることが証明しているのである。

カラオケはこうゆう文化を駆逐してしまったのではないか。
私はブラジル音楽好きが高じて、ブラジル人のコミュニティに加わり、パゴージを体験し、かれらがみんなでポルトガル語で歌うのをとてもうらやましいとおもっていた。しかしブラジル人のコミュニティでさえ、カラオケがパゴージを駆逐しつつあることを感じる。
沖縄ではまだまだカチャーシーが生きている。本土の人間は琉球音楽の旋律の、日本人の琴線を揺さぶることや、そうゆう日本人が失ってしまった「ハレ」の文化をもふくめて最近沖縄指向みたいなものが本土で強まっているような気がする。

「のだめ」おもろい!!

2006-10-24 09:15:48 | Weblog
 ぼくはテレビフリークだ。たぶんテレビがないと生きていけない。
大学のとき二年くらい勉強に専念するために、テレビを見ない時期があって、そのために精神に異常をきたし、これはいかんとおもい、近くのディスカウントストアで小さなビデオ付きの小型テレビを買ってきたのはいいけれど、一日中テレビにはまって、このまま一生テレビを見ながら死んでいくのではないかとおもった恥ずかしい体験があるほどだ。

ぼくの夢は四畳一間と台所、それに囲炉裏か薪ストーブのついた小さな小屋で自給自足の生活をすることだが、テレビとパソコンは絶対欲しいので電気だけはひいておかなければならない。

それにしても最近は見るべき番組がない。だから20年近く使っているこの小さなテレビのまえで5分に一回くらいチャンネルを変えながらリモコンでザッピングすることになってしまう。

が、今回フジテレビの月9で始まった のだめカンタービレは超おもろい。10分に1回は確実に笑える。
主演の 上野樹理ははじめて意識した女優さんだが、『スウィングガールズ』に出ていたりしてけっこうキャリアのある人なんだなあ。
奇怪なマエストロを演ずる竹中直人や伊部雅刀の中華料理屋のオヤジ等ベテラン陣もいい。

こうゆう番組だとCMになってもチャンネルを変えないで、ちゃんとみてあげようという気になる。
番組が盛り上がったところで、いきなりCMというパターンはもういい加減にしてくれという感じで、わたしはそうゆう番組はよほどのことがないとそのままチャンネルを変えてしまい、もう見ないことにしている。(私一人が見ても見なくても視聴率には全然関係ないが・・・)結果、頻繁にザッピングすることになってしまう。
まえにたまたまうちに取材に来た地方テレビ局のプロデューサーが視聴率の話ばかりするので、テレビ局とは視聴率至上主義というかやっぱりそんなものなんだなあとおもったことがある。

ニュースでもそうだ。古舘伊知郎のニュース番組の視聴率がいいそうだが、あの番組は10時5分前くらいのすき間から始めて、常軌を逸した殺人事件などセンセーショナルなニュースを冒頭にもってくるので視聴率が上がって当然である。逆に視聴率を取れるニュースばかり取り扱う傾向にあるのでほんとうに報道されなければならないことがおろそかになってしまう。
前にもこのブログで取り上げたが、ニュースで連日飲酒運転での死亡事故を取り扱えば、飲酒運転で大変な死者が出ているように見る人は感じてしまうが、実際はスピード出し過ぎで死んでいる人のほうが圧倒的に多いのである。

それはともかく「のだめ」はひさびさに楽しい娯楽作品だ。この番組は、まだ読んでいないが、二ノ宮知子の原作に非常に忠実につくってあるということだ。日本のコミックスは世界最高レベルであることの証明だ。テレビ局のスタッフがいい番組を作れば口コミで絶対に視聴率は上がるのだ。
これで月曜日のささやかな楽しみがひとつできた。

まだらや、打ち合わせ。飲酒運転についておもう。

2006-10-21 09:30:43 | 社会
平戸橋のまだらやで、こうちゃんやBrunoくんと11月11日のライブの打ち合わせをしてきた。
詳細はこうちゃんのブログ 11月11日(土) 昼間~夕方 秋の演遊会 の お知らせをみてください。

最近の飲酒運転撲滅運動のなか、さすがに行きは足助の若い衆の運転で、帰りはタクシーで帰宅した。
Brunoくんと飲むと必ず2軒3軒とはしごしてしまうのだが、行った先の沖縄料理屋もラーメン屋もがらがら。
最近の飲酒運転撲滅運動の影響だろうか?

飲酒運転はもちろんいけないが、警察庁交通局交通企画課の交通事故統計(平成18年8月末)の23ページをみると、法令違反別死亡事故件数について平成17年のデータを例にとっていえば、最多数の死亡事故につながる法令違反は最高速度によるもので415件。これにたいして飲酒運転(酒酔い運転)を原因とする死亡事故が、97軒。

さらに24ページを見ると飲酒なしの死亡事故件数が3287件にたいして、飲酒ありが465件、飲酒ありの構成比率は12.1パーセント。

このデータは http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm#koutsuuにあるので興味のある人は詳細に見てほしいが、この数字が多いか少ないかは、人によって判断が異なるであろうが、少なくともいえることは飲酒運転で死ぬ人よりも、スピード出し過ぎで死ぬ人のほうが圧倒的に多いということである。

であるから交通事故を減らそうとするならば、飲酒運転の取り締まりも必要だが、それ以上に自動車会社にスピードのでない車を作るように規制するほうが早いような気がするし、最近の飲酒運転する人は国賊で非国民だ、みたいなキャンペーンには違和感を感じる。
また、こんなことを行ってはいけないような雰囲気さえ、社会にただよっている。

飲酒運転=極悪人という最近の風潮は、酒好きであり、公共交通機関の便が極めて悪く、車中心社会であるこの地域に住む私には居心地の悪いものである。
会社帰りにちょっと一杯というささやかなよろこびが、人の生きる糧になっているということもあるのではないだろうか?
このキャンペーンで廃業に追い込まれる飲食店の責任を誰か取ってくれるのだろうか?

なんだか世の中がだんだん息苦しくなっているような気がする。


これをブログに載せないわけにはいかない。

2006-10-19 08:21:52 | チベット
 中国軍がチベットの巡礼者を無差別に撃ち殺す映像(非グロ/日本語字幕付)

じつは私は来月のはじめ、ダライ・ラマ法王の講演を聴くために、広島に行ってくる予定である。
チベット人たちにとってのダライラマ法王にたいするおもいは、私の想像をはるかに絶するものであるとおもう。
BBCやCNNで放送されたこの衝撃的映像が日本では報道されない。
北朝鮮情勢を巡って日中関係は雪解けムードであるが、このYouTubeのビデオを見る人は中国というのは本質的にこうゆう国であるということを知っていただきたい。



前世

2006-10-13 08:20:03 | Weblog
昨日『アンビリーバボー、奇跡”前世”スペシャルというのをやっていた。
江原啓之や美輪さんの番組もそうだが、こうゆうのは「ほんまかいなー」とおもいながらついつい見入ってしまう。

こうゆう番組はしょせんエンターテイメントであるから、半信半疑でみるのがいちばんだが、私は仏教徒であるから、当然前世というものを信じている。
だから自分の前世を知りたいという欲求は人よりもかなり強いとおもう。だからだまされてもいいから一度は催眠療法、前世療法というものを受けてみたい。

以下はたわ言だとおもって聞いていただきたい。

司馬遼太郎さんの『覇王の家』という徳川家康を主題とした小説を読んでいたとき、いわゆる武田信玄が遠州に攻め込んだいわゆる三方原の合戦の場面で、遠くのほうのやや小高い丘いちめんに赤の甲冑に身を包んだ軍団が、雲霞のごとく布陣している映像を鮮明に感じ、体中が戦慄するのを感じた。
それ以来この映像が頭を離れず、今これを書いていても体中が震えるような感じがする。そしてかつての自分はここで死んだことがあるのではないかというような気がしてならないのである。
この戦で徳川軍はけちょんけちょんにやられ、大将の家康は敗走する馬の鞍の上で脱糞したという。

その後現在霊園となっている三方原にもいってみたが、べつだん特別な何かを感じることもなかったし、私の頭の中にある武田軍が布陣した丘のようなものもなかった。

これは私の思い込みであろうか?ぜひぜひ知りたいものだ。

時事ネタ2つ

2006-10-12 08:44:46 | 時事
和歌山談合で県出納長ら5人が逮捕される
 http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20061012p101.htm

岐阜、福島に続いて今度は和歌山。こうゆうのがごろごろ出てくるなあ。
特徴は逮捕されるのが昔は議員が主であったが、いまは役人ばかりだ。地方自治体の権力が上層部の役人に集中している証拠だ。国でもそうなんだろうなあ。
家の近くにも長らく町議会の議員をやっていた人がいたが、感じたことはなんて軽い存在なんだろうということだった。その人が軽いということもあるが、それよりも議員という存在が軽いということだ。
選挙で落選すればただの人になってしまう議員にたいして、法によって手厚く身分が保障されている公務員である役人の力が強くなってしまうのはある意味当然だ。
議員というのは、八方美人でないとすぐに落選してしまうが、八方美人に徹するということは役人とケンカができないということだ。
なれあいなれあいで国民の税金がだらだらと使われる。日本の将来はくらいなあ。

パトリオットミサイル搬入できず。座り込みする人たち。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200610101700_03.html

こうゆう人たちはどのような思想・信条に基づいてこのような愚行をおこなうのであろう。
たとえばこのようなhttp://blog.livedoor.jp/kitihantai555/主張をするひとびとだ。
そんなに多くいないとおもうけど、普通の沖縄県民がこのような馬鹿ばかりだとおもわれたら実に可哀想だ。

北朝鮮が経済制裁によって今後ほんとうに窮して核ミサイルを撃ち込むならば、東京と米軍基地であろう。
そのような事態になれば美しい沖縄の文化と海は一瞬にして壊滅し、放射能で汚染されるであろう。
現在のような国際情勢において日本近海に弾道ミサイル迎撃能力のあるイージス艦や要所にパトリオットミサイルを配備するのは当然の急務であるのに、これを邪魔する人たちがいる。

軍人というものはこのような愚かな連中の生命をも守らねばならないのである。

明川のお祭り

2006-10-10 08:44:13 | 音楽
ブログほったらかしにしてすいません。

明川のお祭りの模様をK's Bandのコーちゃんがリポートしてくださったので見てくださいね。

 http://blogs.yahoo.co.jp/minikk0523/21359366.html

ちなみにこれがぼくの最近の恋人の三線ちゃんだー!!ANA機内販売のカタログで見つけ、家に帰ってきてから思い切って購入。カリン材の重厚なもので大正解。ちなみにANAマイレージ2倍の特典付き!

コーちゃんの記事のとおり、お祭りでやった三線を使った沖縄の曲「安里屋ユンタ」と「涙そうそう」の2曲はことのほか年寄り衆の反応がよかったような気がする。

日本人としての血のなせるわざか?

つまり日本人はもともとこの辺りに暮らしていた縄文系の人々とその後朝鮮半島からやってきた弥生系の人々との混血から成り立っていることがいわれるが、比較的弥生人との混血が行なわれなかった大和朝廷からみた辺地である、北海道や沖縄の人々、とくに沖縄のリズムや音階が大和人にとっても琴線に触れる、つまりDNAを揺さぶるものであることが、実際に証明されたような気がする。(おおげさか?)

とにかくいま沖縄にはまってしまって、気がつくと頭の中で三線が鳴っていたり、エメラルドの海の上をクルーザーで疾走している映像が浮かんだり、(バックミュージックはりぃみぃの『海の彼方』)
島の大衆食堂でぼけっとしたくなったりしてしまったりしていけない。
いっぱんてきに南の島の住人はあまりはたらかないといわれるが、ほんとうは人間など生きるために最低限必要な、家と、食べ物と、お金があれば十分なのだ。

ああ!南の島で半年くらい暮らしたい!!