感想!

主として社会情勢に対する感想。

祈り!

2005-02-28 09:34:44 | Weblog
祈りが人間の専売特許であるかどうかを知らない。
ともあれ、人であればどんな人にも祈りの行為は許されている。
いつでもどこででも人は祈ることができる。内容は個人の自由だ。
だれからも何の制約も受けない。
信教の自由とはたぶんこうしたことを保障するものであろう。
ということであれば祈りはまさに権利ということにもなるのだ。

そこで思うのであるが、あの忌まわしい事件を起こしたオウムの
信者たちの祈りをどう考えればよいというのか。
彼らのやった行為から見る限り、彼らの祈りは空恐ろしいものと
思わざるを得ない。

殺人を考えるのは自由、それを実行すると許さない。この図式が
オウムにも当てはまるということか。
であればオウム信者も、心に事件を準備するだけでは何の問題も
ない。
そういうことになる。

内心の自由は個人的なものだ。集団にもこれを拡大解釈すること
が許されるのかどうか。

恐怖はそれが個人と集団では雲泥の差がある。しかも一度前科の
あるオウムの恐怖は計り知れない。

なんらかの宗教を信じるものの祈りとそうでない者の祈りは違う。
祈りは神を意識して為される行為であるが宗教信者でないものの
神は漠然とした神である。それは八百万の神である。

他力本願な者には神はあまり手を貸さないようだ。神は自ら助か
ろうと努力するもののみを助ける。
ということらしいのだ。

人にとって、その努力が歓迎されないようなものであっても努力
するものには神は手をお貸しになる。
邪心な者も神を祈る。そして神はそれにお応えになる。のろいの
祈りといったようなものがそれである。

祈る人は必ずしも善人にあらず。信心深い人だからあの人は善人
であるなどと考えてはいけないのだ。
キリスト教信者とイスラム教信者の戦いに正義などは関係ないのだ。

人は祈りによって癒され、勇気づけられ、元気にもなるのだ。
また人は祈りによって、邪悪なことも、自己の命をすら犠牲にする
ことも平気でできるのだ。

祈りとはいったい何なのか。よく分からない。それでも人は祈りを
止めない。わたしも祈りをやめようとは思わない。


料理の威力

2005-02-11 09:55:51 | Weblog
家庭の守り神とはどういうことなのか。主婦は家庭の守り神であらねばならない。
わたしはしばしばこういうことを言ってきました。このことについて少しばかり
述べたい。

これは家庭の味だ。これはおふくろの味がする。とかよく耳にする言葉である。
そういうことが言える人はきっと幸せな家庭に育った人に違いないのだ。一家団
欒の風景を想像させるではありませんか。

恋人を欲すればまず相手の胃袋をつかめ!よく耳にする言葉である。それは正鵠
を射る真理だ。
食という字は人に良いと書く。同じ釜の飯を食った仲というのは特別に親しみを
覚える仲という意味である。

母親が料理上手であれば子どもは母親を尊敬し誇りに思うだろうし、子どもの父
親だって屋台で一杯やるようなことはしないだろう。仲間に誘われても自分の家
でやろうと逆に仲間を家に連れてくるというものだ。

人間関係はまさに食に支配されていると言っても言い過ぎではない。

テレビによく出る女弁護士の某代議士さんは外食一辺倒だと自慢げに滔滔と話す
のを聞いたことがある。こんな人に家庭はあるのだろうか。家庭をつくれないよ
うな人に国のことをあれこれ言う資格など無い。そう思うのはわたしだけであろ
うか。

一家の繁栄は主婦の料理から始まる。家族の健康・家族の絆・家庭の団欒そうし
たことはすべて主婦の手に握られているのである。

一家の繁栄は国の繁栄を意味する。料理は国の礎。主婦は偉大。料理万歳なのだ。

孤独な無間地獄

2005-02-02 13:01:11 | Weblog
人権主義社会は決して天国ではない。このことについて話したい。
人権主義社会はとめども無く福祉社会へと向かう。親が子どもを育てなくても国や社会が
面倒をみてくれる。子どもが年老いた親を見なくてもこれも国や社会が手を差し伸べてくれる。

だから一見人生を謳歌できるように見える。しかしそうはいかない。内面は非常に孤独になる。
また、そうした環境の中に置かれた人間は依存心の強いパラサイト人間に成り果てるのである。

子や親との関係が希薄であることをよしとしつつ、一方では国や社会に強くすがらなければ生きら
れないという存在。男女共同参画やジェンダーフリーの行き着く先がこれなのである。

本来人間は個人では生きられない動物である。家族・親類縁者・友人・ご近所そうした集団の中
にあってこそ心の安定を得ることができる動物なのである。
だれともかかわりを持たない人間は生きてはいけない。それが人間というものである。

集団の存在なくして個人は何の意味も持たない。個人が個人足り得るのは集団がある場合に限られる。
なぜなら個人とは相対的な存在だからである。

孤独な無間地獄はいやだというのであれば人間として為すべきことを為せ!
平等や自由を求めすぎてはならない。個人主義もほどほどにすべきである。そして家族や家庭に
思いを馳せよ。

女性はよくキャリアウーマンに憧れる。それが悪いとは言わない。しかしみながキャリアウーマン
になるとき間違いなく国は滅びる。国家の繁栄には女性の力がどうしても必要である。すなわち
女性は家庭の守り神を目指すべきである。健全な家庭があって健全な国家が生まれる。
家庭を守ることは女性にしかできない。女性にとってはそれこそ大事業なのである。