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ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

『曾良旅日記』

2013年05月05日 | 歴史の革袋
芭蕉の『奥の細道』に随行した河合曽良の直筆記録は、1978年重要文化財になった。
夕方仙台ニ着。 其夜、宿国分町大崎庄左衛門。
未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。
雨強降ル 馬ニ乗リ、加沢 三リ、皆山坂也 一ノ関黄昏ニ着 合羽モトヲル也 宿ス。
十三日天気明 巳ノ尅ヨリ平泉へ趣 一リ、山ノ目 壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ 伊沢八幡壱リ余リ奥也 
などのような記述も探せばそこに見られる。
芭蕉の一行と同じコースを、磐井橋傍の宿から平泉の方向に旧国道4号線を行くと、途中の右手に小さな駅がある。
それが当方小学生のとき利用した東北本線山目駅である。
この駅から塩竃の海浜学校に一泊体験で、多くの学童と集団で茶碗2杯の米と出発した大事件が有った。
大広間に大勢でメザシのように並び就寝するとき、メガネの校長先生が言う。
「いいかな、電気を消すよォ」
波の音がザワーッと耳に響いて、なかなか寝付けなかった。
現在、この駅は最新型の駅舎に変わり昔の面影はないが、非常にコンパクトで正面に改札と電子券売機、左右に腰掛が八席並んで、パリの地下鉄の待合室風のおしゃれである。
漱石の『草枕』などを広げ、じっと蒸気機関車の到着を待つ気分は、おそらく止まった時間が一服の絵でさえあろう。
それにしても気がついたが、子供の頃あれほど広く感じた周囲の空間が、まるで地球が半分に縮んでそこに時間がある様子は不思議である。
サークルを一周しようとハンドルを傾けると、広場に先客がいて、攻城機のような黄色の大型工事車両が「わたしは動きませんヨ」と頑張っている。
楽しみにしていたのに仕方がない。ついでといってはなんであるが、山あいの道を昔の記憶をたどって住宅地に分け入ってみると、車は舗装された一本道を上手に回って戻ることが出来た。
この道を通ったのは、子供の時ハトを飼っている人を探して以来、半世紀ぶりであったが、すばらしい。
その翌日、青森から帰路をとった三河湾の御仁が、ROYCEに立ち寄ってくださった。
そのさい拝見した写真によって、これまでナゾであった滑走路型スピーカーの工夫された背面を見ることができたが、後面開放型の湾曲した形状に、ユニットの配線が写っている。
これによって当方は、ますます音楽の様子が雲を掴むように遠くなったが、御仁は丁寧にさまざまの既成の装置を凌駕した自信を静かに滲ませているのが、一縷の希望である。
フッターマンアンプをマルチにご使用になって、そのうえ勤務先に「たしかタンノイ・ロイヤルもありましたね」と申されるほどの人の、再生音響がわるかろうはずはない。




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黄金の国ジパングは栗駒を越え

2013年04月20日 | 歴史の革袋
1270年から25年をかけて、ベネチアを出発しアジア大陸を二度冒険旅行したマルコ・ポーロは、フビライに歓迎され揚州の総督を3年勤めたが、この揚州はかって鑑真和上が修行していたところである。
揚州の港は地図で見ると日本に近く、ここから酒田港や秋田の港に交易で渡る船は、宝物満載し、平泉は心得て、相手の歓心を得る各種物品を沿岸の集積港に準備していた。
先日、そろそろ雪も解けて、日本海と平泉を結ぶ栗駒山地はいったいいまころどうなっているか、国道342を走ってみた。
しばらく登り、アイスクリームの店の前に道を整えている人に「栗駒に抜ける道の様子はどうでしょう」と尋ねると、
「まだ無理ですから、下に戻って457に抜けるとよいでしょう」と、教えてくださった。
そこで、言われるまま釣橋の隧道から宮城に入ったが、須川岳と栗駒山は同じ山であるのに、登る道の景色がまったく違う、奇妙な山である。
須川岳は、景色の森を抜けて切り立つ崖に七曲がりの険しい道が峻厳な谷川を越えていくが、いっぽうの栗駒山の457号線は、なだらかな景色が広がって、どちらも異なる美しさだ。
どんどん457を走らせるとき、ふと運転席のハンドルの傍らに三段スイッチがあることに気が付いて、パチンと右に入れると、車はポパイがほうれん草を食べたように勝手に馬力を出し、ふだんは驢馬のようなこの車の本当の力を初めて見せた。
だがところで、なだらかな見通しの良い道とは、つまるところ、頂上がそこに見えるのにいつまでも距離の縮まらない根気のいる道である。
春まだ浅く、雪の残っている周囲になったころ、当方はあっさり退却することにした。
途中、工事の道を抜けると、おや、このような高地にまで救急車はサイレンを鳴らし激しい勢いで登ってくる姿を見た。
『吾妻鏡』には、秀衛の残された夫人が酒田に落ち延びて、随行の36人衆とともに暮らした記録が見えるが、芭蕉も奥の細道によればこの酒田に、平泉からもう一つの道を山寺を抜け曽良と旅をしている。

あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ





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長者ケ原廃寺の謎

2013年01月01日 | 歴史の革袋
元日の長者ケ原はマイルスの『WORKIN』のサウンドがかすかに聴こえるように澄み渡って、陽が射していた。
衣川沿いの道を行くと、やがて透明な空気の中央に堂々とした石碑が見える。
1189年7月のこと、28万の軍列をととのえ鎌倉を出発した頼朝が平泉に入ったのは8月の夏のさかりであるが、かねて何度も眺めていた平泉都の絵図を現実にして、北上川正面にある柳之御所周囲をかりに千代田区とすれば、いま立っているこの衣川の北面は、水耕田や原野で広がる『長者が原』とよばれる、渋谷区松濤のような建物でうまっていたはずである。
頼朝は、とうとうそこに立ったとき、長者ケ原廃寺は「ただ四面の築地塀が残るのみ」と吾妻鏡に記述がある。
中尊寺伽藍が完成した時点で、時代的にすでに廃寺であったのだろうか。
長者が原の名は『金売吉次』の屋敷跡をイメージしたネーミングが伝説に残ったものだが、歴史が吉次の立場を商社の統括本部長と秘密外交官を兼務させたものであれば、ここに輸出入用の大きな蔵が何棟も建ち並んであったと言っているかもしれない。
秋田には吉次の隠し金山と言われるものがあり、東山町田河津や各地に金売り吉次の屋敷跡が残っている。
勧進帳にある東下りした義経主従を迎えて接待を担当していた泉三郎は、長者が原とは隣接した『泉ケ城』に住んでおり、義経を京から導いた吉次のコミットを考えれば、渋谷区松濤に判官館を移すことが自然のようでもあるのだが。
頼朝がことさら長者ヶ原廃寺を見学したのは口実で、本当は平泉に匿われていた義経の判官館を、以前から地図にマーキングし、ひとめ見たかったのではなかろうか。
敗走した軍勢の追討に厨川まで進軍した頼朝は、まもなく平泉に戻って逗留し、金色堂や二階大堂などの名所をゆっくり巡回している。
「あそこが義経殿の住居でございました」
案内人が、気を利かせてそれとなく指し、供連れてぞろぞろ進む頼朝は馬上から眼の端にそれを見ていた。
そのとき、背後で供の者どもが騒いでいる。
指差す方向を見ると、衣川対岸の関山の中腹にちょうど陽が射して、二階大堂の天窓に黄金の仏像の顔が光っていた、
後年鎌倉の地に二階大堂を再現して散歩に馬を向けた頼朝は、そのとき東北の長者ヶ原の景色をかさねて思い浮かべていたに違いない。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
芭蕉も矢立ての句を詠んで本所深川を出発し、奥の細道の北限に泉が城の到達を記している。
元日の遠乗りを終え国道四号線にコースに取ると、反対車線は元朝参りの車が繋がって、そこにいかにも頑丈な白いマスクをしてハンドルを握る一台の巴御前の業務車両と当方はすれ違った。
帰宅すると遠来の訪問客が有って、鶴屋八幡の羊羹をいただいて幸甚。
日本茶の正月に、ゆっくり暦をめくった。





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謎の古代獣

2012年11月04日 | 歴史の革袋
一関大橋から10キロの南に来て、ゾーリンゲンでサクッとリンゴを剝きながら、金流川の河川敷を眺めて風の音を聴く。
東北山脈の麓から湧いた水は有馬川と金流川に二筋、一関の南『花泉』を流れて北上川に注いでいる。
昭和のはじめ、川岸で古代獣の骨化石が大量に発見されたという花泉の金森遺跡がここにある。
金流川とは、文字どうり砂金が流れていた川で黄金の川エルドラドであったが、いまは枯渇したらしく、誰も採取している姿はない。
有壁本陣の傍を流れ下る有馬川と、さらに南を流れる開けた田畑の丘陵なだらかなところに、大きな標識と案内板が立ち、目の前に広がる風景が、2万年前の旧石器時代もそのままそこにあった。
付近で稲作用水の溜池を掘っているとき、穴の中からぞくぞくと現れた古代獣骨は、バイソンのような現代の牛の2倍サイズの動物骨で、それまで発見種がなく『ハナイズミモリウシ』と名がついた。
この大量の骨を分類していると、なかから見つかった、よく切れるように研磨された骨スクレイパーをみて、世界の狩猟場に見られると同じ石器人の遺跡ではないかと推察されている。
年代測定による2万年前の氷河期は、ベーリング海を歩いて渡ってきた古代獣がここにも暮らしていた風景を、ぜひ兵馬俑坑のような穴を覗いては周囲を眺めながら、桜の下の茶店でのんびりしたいものである。
そのあと、同じ花泉にある『牡丹園』という花の公園に立ち寄ると、入り口にさまざまの盆栽が売られて、色調の可憐なバラの鉢木が一個あったのが忘れられない。
それを聞いた花泉の人が、業務の帰りにトラックを店の前に停めて言った。
「庭園造作中の人が、これは要らないというので、バラではありませんが、よかったらどうぞ」
小ぶりな皐月や躑躅の株を、さっそくいくつか荷台から降ろし、庭のあちこち植えて楽しんだ。
古代人も狩の肉を、このように振舞っていたのだろうか。
先日、仏像の金箔修繕を職業にする客人が婦人と登場されて、タンノイを聴きながら、「むかしは、2トラックのデッキを担いで仙台までライブ録音に行ったものです」
というお話を聞いた。
この御仁は、マイクロ精機の糸ドライブにJBLでコレクションしたレコードを、いまではほとんど処分してしまったという。もったいない。
――何枚かレコードを残しましたか?
「ええ、100枚ほど、残してあるとおもいます」
ケニー・バレルを伴奏に、傍でご婦人が過ぎた日を思い出し、おだやかにほほえんでいる。





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謎の金印と金鶏

2012年10月22日 | 歴史の革袋
1974年出版の清張『古代史の謎』で、当時謎のままの解けない諸説が、40年後の現代には解明が進んだ?のであろうか。
この本の28ページに早々と出てくる、後漢書に光武帝が奴国へ遣わした『金印』のくだりについて「あれはそもそも3個ある」「!!?」と、記述がむにゃむにゃでおわっており、歴史の奥行きも深い。
平泉でも、金にまつわる七つの謎の一つに『金鶏山の金のにわとり』伝説がある。
この金鶏山は、平泉の都市区画を囲むように丘陵が両翼に広げた鳥の頭部にあたる中心に、膨らんだ小さな山であるようにも地図では見えるが、一年で一番陽の長くなる日に『無量光院』からみて背後の金鶏山頂に夕日がちょうど沈むように設計されている。
エジプトの神殿やマヤの神殿と軌を一にしているところが、古代に流石である。
埋蔵されていると伝説の黄金の鶏は、雌雄であるとも、また一匹とも記録にあるが、昭和の初めに調査発掘されたときには、漆の入った甕が出てきたという。
素人の当方が考えるには、鳳凰ではなく鶏で一羽埋蔵されているというなら、それは雌鶏であり、雄鶏は金鶏山頂と朝日の上る方向の直線軸上にあるように設計したい欲望に駆られる。
つまり、柳の御所の対岸の山頂にあると考えれば、毎日、とどこうりなく朝を告げる鶏を山頂に捧げて、朝日を遙拝することができる。
その金の雄鶏は、警備の都合上、最も口の固い三人の職人が選ばれて、秘かに対岸の山中に分け入って頂上深く埋蔵したのでいまだに知られていないが、どうして雌雄の金鶏の一方なのか、命じた者はひそかにそれを満足している。
この案は、先日の骨寺遺跡で説明を受けた鐘の埋蔵の話から急に思いついたもので、学説ではないが、いったい埋蔵した軸上の山とは北上川の対岸のどれかな、と柳の御所から眺めて、名物桜羊羹でもつまみながら満足しよう。
金は腐らないので、卑弥呼の金印もいつか地上に姿を現すことであろう。
栃木から三人の客人が登場し、大型のJBLのウーハーを備えたマルチ装置を座右にするスーパーマニアのようだが、携えてきた優秀なカッティング盤を聴かせてもらったところ、一瞬の音像で、努力のすべてがわかるレコード盤も有るものであると驚いた。
以前お見えになった男女の客人で、ウエス・モンゴメリーの演奏に
「これは、親指だけで弾いているんだよ」
男性が隣の女性に説明している。
その様子が,北上川の庭園のベンチで対岸の山並みを説明するように,おだやかでたのしそうであった。





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秋の巌美街道

2012年09月16日 | 歴史の革袋
平泉から太平洋に向かう街道が343号線なら、反対の日本海に向かう街道が国道342号線といって、中世に大陸と交易した重要な街道である。
この砂金街道について、子供の時はピンと来なかったが、唐辛子、唐木、唐三彩、教典など、馬の背にゆられて入ってきたのであろうと想像する。
道の途中に、さきごろの烈震で中座した橋はそのまま残されてあり、中尊寺経蔵別当の中世荘園遺跡があり、岩山の隠し洞窟にはまだ砂金が入っているような噂もある。
久しぶりの秋の遠乗りで、荘園跡にたどり着けば、遺跡発掘の説明板にどれどれとつい見入ってしまう。
すると、背後に誰か立っている?
黄色のユニホームにアポロキャップの男性がにっこり「ゆっくり見ていってください」と言った。
――あの鐘楼の鐘は意匠が凝って見えますが、と
そこで、たずねたわけである。
「この駒形根神社は、栗駒山頂の神社の分社で馬の木彫刻が本殿に祀られたものが、明治の廃仏毀釈のときに、脇に移されました。あの古鐘は、大戦の金属供出で兵器の材料になるところでしたが、関係者が相談し土中に埋蔵しましたので、また鐘楼に釣り下がっています」
――荘園の中央を蛇行する川は、護岸がコンクリであるところが、わたしのような素人目には千年のイメージを妨げます。
説明の人物は、嫌な表情もなく、言った。
「昭和の中頃まで昔の小川でしたが、川底が非常に浅く、背後の連山に雨が多量に降る季節にはドッと溢れて、あたり一面が湖水になったのです。しばらく陳情し、いまのように深く掘った護岸工事ができました。排水には直線の水路が水はけに常識ですが、学者のかたがお見えになったとき、昔の蛇行そのままをたいそう喜ばれていました。
――わたしのような観光客には、山頂に東屋があったら空から荘園を見渡せるのに、とおもいます。
「以前と違って、景観保全区域になりましたのでそのかわり、左奥の山裾に段になった特別の水耕田があり、毎年豊作祈願祭りが催されるのですよ」
専門知識人の、抑制のある自在な説明を堪能した。
当方と連れが聞くだけではまことにもったいないが、谷を超えて空中を走ってくるダンゴといい、さりげなく現れる専門の説明者といい、不思議な土地柄であると思ったそのとき、背後の山から谷に吹き下ろす一陣の風が、荘園に広がる稲穂を黄金色の波にして中世そのままに渡っていくのが見える。
帰り道、マニュアルクラッチ車で、久しぶりに路面の振動を感じつつ巌美街道を戻ると、脇の森林から伐採木を山のように積んだトラックが割り込んで来たところが、風景に似合ってすばらしい。
平安の昔も、社殿建築に切り出された丸太を、義経の遠乗り一行は真近に見たのか。
この秋の342号線には、アール・ハインズの演奏するロンサムロードが聴こえてくるようだ。
喫茶に戻ると、3人の客が音楽巡りに立ち寄ってくださったが、ベイシー楽団とサラボーンの演奏がタンノイで鳴るところを聴いて、
「ちょうどまえのところでJBLとマークレビンソンで鳴るエラとベイシー楽団の演奏を聴いてきたところです」
たいそう喜ばれているが、マークレビンソンとは、はてな??
このお客はこうも申されている。
「サラ・ボーンの最後の日本公演では、うちのホールでも唄ってくれました」
淡々とした笑顔の、あやしい人々である。





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『千馬屋』

2012年09月06日 | 歴史の革袋
野を横に 馬引き向けよ ほととぎす

一関から25キロ東南にある『千厩』は、平泉15万都の軍馬や農耕馬を供給調練する兵站基地があった所と言われている。
いったいその遺蹟は、いまも現地で見ることができるのだろうか。
当方が以前、町営のスケートリンクまで遠征したとき、滑り始めた母屋の住人がまもなくドシンと転倒し、物凄い音がリンクに響いて係の人が飛んで来たが、やはり調聯が足りなかったのである。
平安のかっての馬事調聯の名所は、いま大勢の人間がスイスイ走っていた。
当時の馬の重要性は現代の乗用車のようなもので、金売り吉次も、はるか京都まで牛馬の背に金塊を積んで交易し、東下りした義経もさっそく家来とここで名馬を誂えたに違いない。
当時の馬は、5月の東下り行列で見る体躯隆々の名馬たちのような、あれほど大きなものでなく、身長160センチくらいであったらしい。
昨晩見た夢の続きを、絵に書いた。




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謎の二階大堂

2012年08月30日 | 歴史の革袋
絵を見せられて、現物を見ないことには...と、サザビーズで敬遠されるのが「絵に描いた餅」であるけれど、『二階大堂』は、昔行って見た興福寺東金堂のような一階であったのか。
中尊寺を起点に、白河の関から陸奥の外が浜にのびていた奥大道という幹線動脈を、旅人になった気分でゆっくり歩み寄ってくるとき、圧倒的光景で待っているのが二階大堂という。
奈良の東大寺をダウンサイジングしたような建物は、二階層の窓に突き抜けた黄金の巨大仏像が顔をのぞかせ、山腹の遠目にもギラギラ輝いているありさまが光々しくすばらしい。
それを見た旅人はあまりに強烈な印象を見せられて、京に上る道すがらも思い出してはなぐさめられたようである。
そのころの歴史上の大事件といえば、チャンスをねらっていた鎌倉幕府大軍が、朝と晩に毎日30万食も消費しつつ平泉に攻め上ってきた源頼朝事件であるが、二階大堂を下から見上げて頼朝はグッときた。
鎌倉に戻ると、同伴した絵師に頼んでおいたスケッチ絵図を政務の合間もながめ、彼に、鎌倉の地に再現を決心させることになった二階大堂である。
そんなにいいのかと当方も遅れて鎌倉に駆けつけてみたが、もはや焼失して二階堂という地名だけが残っていた。
このように頼朝に実現できたことが現代に不可能なはずはない、と誰も思っている。
桜山を背景にした風光明媚な地形に『柳の御所』をまず再現しようと考えるのは当然であるが、この二階大堂と、十円硬貨の裏にある絵柄と三点セットが楽しみである。
あの時代の平泉は、都市計画に風水を駆使しながら、祇園など京の地名が散見されるように、先人の本歌取りの遊び心もあったらしく、あるいは京から呼び寄せた大勢の職人たちのなぐさめであったのか。
当方の知人宅の庭も「京の庭師を招聘して造作させました」と枕詞にいうほど、やんごとなきありがたさというものである。
子供のころバスに乗ると、停留所で「ぎおん、ぎおん~」と車掌の涼しい声がした。
往時は御所の周囲を、見ず知らずの旅人に観光されては検非違使の都合もあり、金色堂の建つ関山の中腹に奥大道のバイパスを通し、中尊というネーミングの初めと終わりを二階大堂と金色堂で修飾したのかもしれない。
先日東山からパラゴン氏がお見えになったとき、この歴史の地にホテルを造ってライフワークとしたいものです、と申されていたが、するとその平安朝ホテルの一角に、ふんだんに木材を多用した自分用のジャズ喫茶を造るつもりではないか、と驚いたが黙っていた。
平泉において、この地のヌーヴェル・キュイジーヌを朝顔の姫君とたのしみ、パラゴンで聴くビビットなビル・エヴァンスなど、この話に皆の衆はいまから心待ちにされることであろう。

☆イラストは平泉北面の二階大堂想像図で、正確な根拠はないが、3月11日は堂内の点灯を衣川から拝観したい。






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新年鳥瞰

2012年01月01日 | 歴史の革袋
新年の山道を縫って343街道を走ると、
最大の難所にさしかかった谷底から車のライトを遮った影が
崖の上の林に消えた。
一面銀世界の白闇に、
うちわのような羽根を広げた鳥は、ふくろうである。
しばらく車を止めて様子を見ていると、
5分ほどして、もういちど身を翻して飛んでみせた。
343のミネルバのふくろうは、夜中に飛ぶ。
竹駒橋を右に折れると高田、大船渡まで20キロほどであるが、
この道を反対の左方向に40キロ向かうと柳田国男の『遠野物語』の世界がある。






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そぞみの千枚漬け

2011年12月24日 | 歴史の革袋
スイカズラ科のみやまガマズミ(深山莢迷)のことを一関では『そぞみ』といっている。
滋養強精で花言葉は『結合』という単刀直入な赤い木の実であるが、そうともしらず帰郷した冬の朝、「のうてばいのおばあちゃんに言ってあるから」と親に言われて、早起きして採りに行った。
カブの千枚漬けをつくるという。
のうてばいのおばあちゃんに案内されて、里山に登っていくと、みちみちキャサリーン台風の洪水の話が出て、この山から見下ろした市街地の方向は見たこともない湖のようなすごい景色で、ところどころに島が浮いていたそうである昔話を聞いた。
1947年九月十六日のキャサリーン台風は、日本の治水史上に残る大雨を降らせ磐井川と北上川も氾濫したので、生家も一階の鴨居のところまで水が浸き、幼児の当方は母に帯で縛られ迎えに来た小舟に二階から乗り移ったとき、グラリと揺れてとても怖かった話の記憶がある。
その小舟は配志和神社に漕ぎ着いて、この神社は、古刹の堂宇が深山の高みに拝殿のある、ちょうどあめのひすみのみやのような延々と高い石段を登っていくと、シーンとした清浄な境内に、それぞれ専門の霊験をつかさどる宮が一列に横にならび、千年杉のような大木が落雷をものともせず茂っている。
子供のころは、昆虫採集やソリ遊びに登った記憶が市内の誰にでも有るが、石段には運動部のトレーニングに励む若者の姿が有る。
そういえばこの蘭梅山に、ちょうど帰郷した夏に石段を登ってみると、付近の中学のグラウンドスピーカーから先生の号令が新緑の風に乗って流れてきたが、その巻き舌の特徴は忘れもしない桜中学の何十年も逢っていないクラスメートであり、あの中学から一足飛びにこの中学で先生になって現れた風の便りに驚いた。
何年かまえも、この神社の鳥居の脇から馬車道を登攀していくと、冬道は滑りやすいところが雪かきされていたり、馴れない二拝四拍手一拝のイメージを考えつつ敷居階段に足をかけると、足元に百円硬貨が置いて有ったり、おそらく天狗が杉の大木の上から笑って見ているのかもしれないが、不思議な社殿の森である。
先日この神社の会報を読ませてもらったとき、菅江真澄の『はしわのわかば』が天明八年戊申六月にこの神社を訪れたさいの周囲の記録を、神社のはしわから表題にとったものとはじめて知って、大勢の有職故実の控えている町内のありさまが印象に残った。
そぞみの千枚漬けの霊験も、どうもあらたかであったといえる。
そのとき寒いROYCEに、ちかくに20年住むと申される大船渡の御仁がやってきて、「ほほう、ゲイリー・カーはCDで聴いていますが、LP盤もあったのですか」と言いつつ、先ほどの三番はベームのようなテンポに思っていたが、カラヤンか!とひとりごとの博学ぶりで、珈琲をこちらが淹れていると立ち上がって「ちょっと失礼、このパソコンに映ってある文面は、はしわのわかばではありませんか」と言い出し、――自分はなにそれの版でもっているが、などと、配志和神社のカラス天狗か菅江真澄の代理挨拶とも考えられる、不思議な御仁であった。
しばらく、今泉の宿場のことを教えていただいた。









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今泉街道の大原

2011年09月24日 | 歴史の革袋
先日、再び一路三陸の海に向かって走ると、やはり『大原』の宿のはずれに直角に道は曲がっているが、戦国の世の城下に敵の進撃を妨害する設計なのか。
直進するとどこにつながっていくのか行ってみたい。
環七や表参道ばかり走っていた者に、国道343号線の今泉街道とわだちを並べる景色が豪華である。
駕籠や徒歩で内陸と海を往来したいにしえの旅人は、大原で休憩し、食事をし、あるいは宿をとった。
350年続いているという旧正月の『大原水かけ祭り』のほかに、ちょっと車を降りてまちの空気のなかにはいれば、人は歴史のある風格の気分をただよわせる。
街道の砂鉄川と平行する山並みに整った丘があって、古い城郭の跡である。
地名のゆかりに、この地を治めていた大原氏の『山吹城』を見るには、旧城の縄張り、虎口、二の郭跡までふもとから歩道を進み観察することができる。
城郭の谷の傾斜には『日本の千枚田百選』に岩手からえらばれた、段丘耕田が秋空の青さを反射している。
さっそくノリ巻きや寿司でもつまみながら、眼下に広がる城下町と悠久の砂鉄川を眺め、義経の遠乗りに思いを馳せるのも気分である。
そのとき、カーオーディオのスイッチを入れると、流れるのはエリントンかシルヴァーか。
ところで今泉街道を走っていると、路端に一瞬、菅江真澄の歴史記念標識が眼の端をかすめ、ふと、関が丘の哲人が「暖簾をくぐったら、カウンターに並んだ人がこんなものを」と、一枚の名刺を見せてくださったことを思い出した。
江刺の國に二年間逗留して岩手を観察した三十代の菅江真澄が、この名刺の人の家にも一週間逗留したことが記されてあり、もし色紙や書き付けが残されてあれば貴重である。
菅江真澄は前沢に泊まったとき大原に足をのばし、蝦夷地松前藩に密入国して戻った大原生まれの勉学青年のことを調べたことが記録に残されている。
そのときRoyceに、おとなしめに神妙な客が入ってきた。
ソフアに座るとしばらくして、
「あれと同じスピーカーを持っています」と言っている。
小さく並んでいるダイナコ-25のことで、このスピーカーを名指しできる人は趣味人である。当時片側4万はビクターSX-3と同価格でフラゴンは5万、日立のHS-500は8万5千であった。このころスペンドールBCⅡは12万5千でAR-3aは13万5千であるが、秋の夜長に数字は哲学的でさえある。
旅の宿に持参はできないが、それぞれ良い音を出すことがあるので、まだ研究中である。
この客は、しばらく音楽に耳を傾けてさらにぽろっと、スチューダーの730も使ったことが有ると言う。
そのような百万もするCDプレーヤーで、ダイナコを鳴らしてなんとする?と思ったが、ご自宅の、すごい装置の写真をいつか見せてくれるのか。




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水戸のタンノイ氏 vol.10

2011年05月28日 | 歴史の革袋
新緑も鮮やかな午後に登場されたのは、水戸在住のタンノイ使いの人である。
続いて初めてみる威儀を正した人と、そのあとに晴耕雨読の人がおり、急に声を潜めると言った。
「新しい彼は、そうとうめずらしい存在と思います」
こうして余技に全国コンクール参加のオーケストラ・コンダクター、テンパニー奏者、トロンボーン奏者の各位がタンノイに対峙していた。
タンノイのオーケストラの音が少し止んだとき会話が聞こえた。
「はて、本館のご様子があのようでは、あなたの退官までにはたして修復が間に合うものか、どうも心配だ」
笑顔で心配するというお仲間と打ち解けて、何十万冊もある散乱がかたずかないと言い、ベルリンフィルを振った日本人のできばえに話題を移していた。
2300年まえのアレクサンドリア図書館や、九百年まえの金色堂隣接の『経蔵』のような建造物も震災にあっている。
世界の七不思議に数えられる古代アレクサンドリアは、今世紀になって二千年ぶりに復興建設の世界コンペがあり160の応募作から、ノルウエーの建築事務所が二百億円で完成させた。
また、金色堂の付属図書館の『経蔵』は、二階部分の焼失した平屋が現在も境内にあるが、別当の荘園があの古代のまま残る『ほねでら村荘園』といわれている。
『吾妻鏡』によれば、京のみやこでも喉から手の出るほど貴重な経典を、平泉政権は砂金6トン、二百億円分を宋船に積んで古代中国五台山に送り、とうとう仏典一切の百科全書五千三百巻を手に入れたと書かれてあるが、これを持ち帰った平泉では二百人の僧で八年かけ、金泥文で写経しこの経蔵に保管した。
いま、中尊寺に残存する15巻が、国宝になっているのがすばらしい。
古代のアレクサンドリア図書館も蔵書の蒐集には手段をえらばず、専門の役人が港に入った外国船からことごとく書物を没収したのがハッカーのはしりなのか、コピーしたほうを返却したことで有名だ。
函谷関に五千字を残して消えた『老子』もアレキサンドリアと同じ時代の、周の国の図書館役人であったと、一部に言い伝えが残っているが、未来の図書館は、いったいどうなるとおもしろいのか。
蔵書だけでなく、公開講座や天文観測や満漢全席料理サービスや、お金儲けの手ほどきなど、広大な敷地に多岐にわたるものであれば、ぜひ行ってみたい。

☆『幻想』ミンシュ・パリ管弦楽団ジャケット写真部分





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塩竃市のエクスクルーシブ装置の客

2011年05月22日 | 歴史の革袋
一関から直線で70キロのところにある『塩竃市』まで芭蕉がやってきたのは、ちょうど今の季節の雨のそぼ降る5月である。
『奥の細道』に、塩竃に入る前の芭蕉は、清少納言の父の詠んだ歌『末の松山 波こさじとは』の松をたずね、多賀城の歌枕ポイントに立っていた。
この百人一首にもある句の情念にはただならぬものがあり、平安の御殿人のコンセンサスとして、「いかな津波ががんばっても、この松山を超えることはないでしょう」と歌われていることから、震災の二ヶ月毎日いろいろな人が、芭蕉も眺めた太い見事な松を遠方から確かめに来ているらしい。
千年言われて来たことが、はたしてどうなのか、世間のひそかな関心事があった。
雨の中、塩竃の宿について旅装を解き、海魚を酒のさかなにしみじみしていると、どこからともなく琵琶法師の音色がきこえたと本文に読めるので、音色もタンノイの世界であるが、よくじつ芭蕉が塩竃神社に詣でたところ、宮柱太く石組みも堂々とした境内に鐡製の古い灯籠があって、それには五百年前に平泉の『泉三郎』の寄進と銘があった。
義径を最後まで接待して落命した泉が城の館主のことで、平泉館藤原秀衡の三男は忙しく、広範囲の日常業務に気配りを持っていたことが忍ばれ、このことをわざわざ記した芭蕉の旅の下調べに、充分な気分は早くも平泉にあったようだ。
そこで先年当方も『松島』に足をのばしてみたが、明るく波間にうつろう風景のすばらしさに発句どころではなかったほどたのしい気分で、芭蕉も、いよいよせまった平泉に気を取られていたそのとき、ふと松島の波間に船を浮かべる油断が絶好調で、ただ遊んでしまったのではないか。
みちのく路を歩む芭蕉には最終目的地、平泉の歌枕がいつもこころに浮かび、五月雨に降られたりすると、あめに煙る金色堂のことが脳裏に浮かんでしまい、目的地に着くまえに早くも、 さみだれの降り残したり光堂 の句は出来上がってしまっていたのではないかと想像する。
塩竃、松島に居ながら、心は旅の全編の龍の眼になる平泉の句を創っていたとすれば、残るは、「てにおは」であるが、『ふりのこしてや、』の『や』がおもしろい。
たとえば
さみだれの ふりのこしたぜ ひかりどう    は、JBLの鳴りであり
さみだれの ふりのこしたり ひかりどう    は、その他のスピーカーで
さみだれの ふりのこしてや ひかりどう    の『や』の表現が、タンノイの世界である。
と、我が子をほめても怒っても、きかされた人々は迷惑なだけであるが。
芭蕉は、おくのほそみち最高傑作をいくつか心にしまって、この松島、塩竃ではそうとうスイングしていたのではないか、まるで期待のオーディオ装置をこれから聴くような気分のことである。
芭蕉の参詣した塩竃神社は『しおつちのおじのかみ』が下総、常陸のほうから渡って最初に杭を打ったので奥州一宮といわれたが、Royceに五月に現れた御仁は、この塩竃の地にエクスクルーシブのウッドホーンのついたタイトで剛毅な装置を備えて楽しんでおられるというので、先日の現地の景色が心に浮かんだものである。
考えてみると、マニアは、たいてい腰の抜けるようないい音を聴くと、まず無口になってしまう。
何度も「おっ、いいですね」と申してくださったので、とても気分の良い客人であったが、
「ああ!ちっ」などというマニアの独り言がレジオンドヌール勲章の褒め言葉とすれば、「いいですね」は、瑞宝章くらいか。
この御仁は、MC昇圧トランスに何を使って鳴らしているかタンノイの音を気にされているので、本気がわからず適当に答えると、わざわざマランツ♯7の奥に隠してある物体を御自分の眼で覗いておられたところが、本物のマニアの凄さというものである。
『さみだれの 降りのこしてや 光堂』
これが、いよいよ世界遺産になることについて、その功績は芭蕉にもありそうだが、芭蕉ほどになれば想像が現実にまさっているので、まだ見ぬ金色堂に気を取られるあまり、松島の地では情景に、刀を抜く暇がなかったのか。
ああ 松島や まつしまや
だなんて、当方も行ってみましたが、刀を抜かず手を抜いたのではありませんか?







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周の五千字

2011年05月13日 | 歴史の革袋
一関に、函谷関に近い風景をさがせば須川岳の渓谷沿いに、それはある。
いまから2300年前といわれる周の時代に、5千余字の殷の文字を、函谷関に残して歴史のかなたに去った者がいた。
殷文の意味にゾッコン感銘したのちの財力者は、印刷技術もない時代の知っているかぎり手を尽くし、全部は無理でも写筆収集して、自分の墓所にまで携えたものであるが、2千年後の現在にもそれは隠然と伝わった。
その字は殷の象形文字であったので、解釈に謎があって諸説がおこったが、数十年前のこと中国の貴人の墳墓から、突然2千年ぶりに数千字が掘り出され、時空をこえた原書の謎の半分は解消したらしい。
残る謎のひとつは、現代には失われた象形文の判読がいろいろに読めて、だれにも本意に迫れない未知の可能性が残ってしまった。
震災にあって時間のできた当方も、その上篇第一章の解釈に、ジャズ的に挑戦してみたのだが、しかしこの第一章はハンガリー舞曲5番の調べにのって脳裏に浮かぶのがなぜか似合っていると思う。

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母。
故常無欲以観其妙、常有欲以観其儌。比両者同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

『好きなジャズの曲ばかり聴いて、それがジャズだと思わんほうがええ、って知っとるがな。タンノイとJBLで、どっちがジャズかって、かんたんに決まるもんでおまへんにゃ。名あるアーチストはんが欲ば捨てて、どえりゃぁノった録音だが、いんやー、めっぽう良さげな、あのビレッジ・ヴァンガード、たまらん。
そいで、JBLでもタンノイでも両方で聞いてみなはった人が言っとったが、ぎょーさん売れた同じ録音LPでも、スピーカー、やっぱ組み立てた工場が違えば味が違うモンやち。なんぼのモンや、などと言わにゃあで、音の出る門は意味がある。きばりなはれ』

その函谷関を連休に通過した秋田のアルテックたまゆら巧芸団とおぼしい人が、仙台の慇懃な紳士と立ち寄ってくださった。
秀麗なご婦人をかたわらにして、しばらくアルテックの汲めども尽きぬ魅力のかずかずを伺った。
仙台の御仁には、想という殷文が漂っているような、何か?と目を凝らしたところ、人の陰に見えなくなったのが不思議。
竹簡の歴史にも、今後まだ発掘はあるのか。






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鹿踊りの庭

2011年04月01日 | 歴史の革袋
鹿踊りの庭を見た記憶の屋敷は、明治の三陸津波被害から避難して、いまの高い所に移されたものという。
5歳がたちまち過ぎてしばらくあと、もう一度訪問する機会があった。
庭を案内する当主とご長男が漏らされていたが、前日は我々の訪門のために庭の草刈りをされたらしいのが恐縮である。
この庭は、ご先祖が京の庭師を三陸まで招聘して造作されたいわれが庭園雑誌に紹介されて、野次馬の当方が話を聞いて、ぜひ離れの茶室の紫檀黒檀の天井を拝観したいと熱望した。
それからふたたび音信のない先頃の東北大震災に、陣中お見舞いの途中立ち寄ろうとしたが、捜してもどうにも場所がわからない。
あちこちうろうろしていると、庭先で大きな伊万里の皿を大量に洗っている老人を見かけ、車を降りて尋ねてみた。
「ああ、あそこは大丈夫。場所は次の湾だが、あなた方は誰?」
父もそうであったが、田舎では、どこから来て何の用事かと、まま詮索される。
どの人も心の奥で世間のちょっとした変化も逃さない。
瓦礫の積もった震災の沿岸を心細く進むと、角に停まる消防自動車からわざわざ二人が降りて、斜面の中腹の住居を教えてくださった。
土蔵の側から入ると、あいにくのご不在で当方は早々に退去した。
ご無事がなにより。





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