お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

正論じゃダメなんだよ!!

2013年02月09日 | 文化
先日のエントリー「純粋NLP批判」について、何人かの人からご意見をいただいた。

「正論をいくら書いても、そうね正論ね、で終わってしまいますよね。」

そうなのだ。ただ正論を書いても広がりが無いのだ。市場性が生まれないのだ。ネットという広大な海にティッシュペーパーを流しているようなものだ。話題になるはずもなく、数人の人が目にして、それで終わる。

そもそも私は言論市場という土俵の中にいない。まずは、この土俵に上る必要がある。それには刺激的で話題性のある言説を供給しないといけない。さらに、ブログのアクセスを劇的に増やす必要がある。少なくとも月間10万PVは必要だ。ちきりんさんはブログを書き始めて1年で、月間100万PVを突破していたはずだ。

「あれは下書きですよ。長いし全部読む人は少ない。1分眺める人、5分で知りたい人、熟読する人を考慮して、見出しをつけるとか、太字を使うとか、リンクを張るとか、ハイパーテキストを生かさないと。もっとも、ブログにそこまで時間かけてもしょうがないとも思いますが。」

確かにその通りだ。今まで、全文を熟読してくれる読者しか想定していなかった。このブログの提供する価値について、明確に意識して来なかった。ゴールを設定していなかった。

ブログの体裁は大事だ。昨年の暮れにだいぶ整理したが、まだまだ傷だらけだ。下書きと言われてしまったが、全体から見ればすべてが下書きのようなものだ。ただの各論。ただの正論。ただの感想。

「ただの正論じゃダメなんだよ!!」

戦略を明確にしたうえで、刺激的で話題性のある、言い換えれば市場的に価値のある言説を供給しないと、言説としての価値が生まれて来ない。

私は現代の普遍的価値そのものにメスを入れようとしている。それが多くの人の共感を得られないことも、反発や嫌悪を生むことも承知している。しかし、少しでも私の思想を支持してくれる人たちがいる限り、私は語らなくてはいけない。そして、忌み嫌う「市場」という土俵の中に飛び込まなけれいけない。毒には毒をもって戦うしかない。

努力を称揚し、上昇志向を称賛して、人々を生産システムの熱狂に巻き込み、人間らしい生活を奪って行く、つまり幸福を奪って行く「進歩と成長の思想を解体すること」こそが私の存在理由なのだから。

こういう都合の悪い者は、ただの変人として無視されるだけで終わるのか。それとも一つの思想として一定の支持者を集められるのか。私の戦いは、まだ終わっていないようだ。

人間らしさの再発見

2012年12月16日 | 文化
バートランド・ラッセルという学者をご存知でしょうか?1872年生まれの数学者、哲学者です。彼は、1935年に発表した「怠惰への讃歌」というエッセイの中で、人間は1日4時間も働けば十分だといったことを書いています。勤勉を美徳と考えているマジメな人が聞くと、鼻血を出して、あるいは顔を真っ赤にして怒るかもしれませんね。ラッセルには、一つの道徳的基準がありました。それは以下の通りです。

1.本能的、生理的に幸福であること
2.友情があること
3.美の鑑賞と創造
4.知識愛
※彼にとって仕事は美徳とは見えなかったようです。


人間の本分は閑暇にあるのであって、学校(スコーレ:ラテン語)とは本来、閑暇の楽しみ方を学ぶところ、だったのですから。

さて、日本の現状はどうでしょうか?

ハイパー管理社会化が急速に進んでいます。心の病は急増し、それは本人だけではなく、その家族、あるいは企業、そして社会や行政をも苦しめています。この病気には、本人の治療だけでなく、その環境を変えることも重要です。しかし、現実はそうではありません。精神科医療も、カウンセリングも、一方的に健常とは何かを決めつけ、健常さ、適応、を目指した規格化を行います。(例外はありますが、概ねその傾向にあります。)要は、従順に適応すれば良しとされるのです。本当にそれで良いのでしょうか?

文明が発達しているのに、人々の労働時間は増え、生活の質がある面で落ちている。なぜ、こうなったのか。それは社会の問題であるとともに、一人一人の誤った信念の結果ではないでしょうか?

いま必要なのは、人間の規格化ではありません。かけがえのない独自な存在としての「個人」を、独自な存在として認め、その独自性を活かすことです。それはもちろん、わがままを認めよという意味ではないのです。私は人間を、身体的、精神的、知的、社会的、霊的という五つの次元で捉えます。それらの次元での調和のとれた統合(パーソナリティ)を志向します。それは、人間的な成長であるとともに、能力の開発でもあると信じます。

このままでは日本は、セーフティネットの破綻、貧困の拡大、治安の悪化、といった危機に陥るでしょう。今、新しい考え方、新しい制度が早急に求められているのです。それにはまず、人間観と社会観を見直さなければいけません。人を代替可能な機能としてのみ評価するような視点は捨て去らなくてはいけません。そして、新しい価値観、新しい制度に移行することが必要だと考えます。

しかし、そんな大層なことを私一人で考え、実行することなど、出来るはずがありません。私は、こつこつと、自分に出来ることを少しずつやって行く。そんな中で、良い出会いがあれば、と思っています。21世紀を人間らしさの世紀にしたい。それが私の願いです。

勝手に「哲学2.0」(その-1)

2012年09月12日 | 文化
■1 反・形而上学

形而上学とは何かを知らない人はいませんよね? なに。いる?
ま、簡単に言ってしまえば、形而上学というのは、道徳的なジレンマを解決する公式や真理があるという考え方ですな。道徳的なジレンマとは、めちゃくちゃ単純な例で言うと、ボートが沈没して5人が海に投げ出され、一人だけなら救助出来る場合、誰を助けるのか、助けないのか、といった問題ですね。普通に考えれば、そんなものは色々な考え方があるわけで、どれが絶対正しいなんて言えないですよね。でも、真理や正解は必ずあるというのが形而上学だと考えれば良いでしょう。

形而上学は哲学の一分野とされますが、多くの宗教が形而上学的なわけで、そう考えると、世界の圧倒的多数派は、形而上学を信じていると言えるのですね。本当かなあ?

で、反・形而上学を主張する人とは、そう言った道徳的ジレンマを解決するような、真理や公式は無いと主張する人のことですね。リチャード・ローティは、こういう人のことを、「アイロニスト」と呼ぶんです。皮肉屋という意味じゃないので気をつけてくださいね。

あ。リチャード・ローティ。どんな人かって?
20世紀の有名なアメリカの哲学者ね。後はぐぐって下さいね。

ま、反・形而上学=アイロニスト、ですね。
で、ローティこそ、哲学2.0の租なんです。そのことは追って書きます。

■2 リベラル

昔は、左だ、右だ、中道だと言うのが大衆的な分類でしたが、今は使いませんね。

今の大衆的な分類は、以下の4つです。
1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義)

おお、座標軸が出来て、線から平面になりましたね。(笑)

もっとも、思想・信条あるいは哲学が、実際にはもっと複雑な事は、誰にでもわかりますね。「思想地図」という本もありますし、それに対する異論・反論もあって収集がつかないわけです。(笑)また、大枠での対立より、半ば身内での対立が激しかったりするのは、どこの世界でも一緒のようです。(笑)

でも、ちょっとまって下さい。
こんな単純な分類の話がしたいのではないのです。

私がこだわりたいのは「リベラル」です。哲学2.0の祖、ローティはリベラルをどう定義しているでしょうか。

ローティは、シュクラーにならって、「残酷さを最悪だと考える人がリベラルだ」と定義するのです。

そして、残酷さを最悪だと考えることに形而上学的な理由などいらない、基礎づけなどいらないのだと。要は、自分はそう思うと根拠などなく主張して良いということですね。はい。それがリベラルなんです。

経済学者のシュンペーターも同様のことを言い、自らをリベラルだと宣言していましたね。

ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と呼びました。
私も、「リベラル・アイロニスト」なんです。

これって相当に解説のいる言葉ですよね。(笑)

貴方は残忍さが好きですか? 本能であり不可避だと思いますか?
残忍さとは何ですか? 人類は歴史的に残忍でなくなっていると言う学者の説をどう思いますか?

■3 プラトン無視

流石にプラトン(哲学者)の名前を知らない人はいませんよねぇ。義務教育の教科書の出て来ます。え。名前は知っているけど、忘れた?
ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師ですね。(紀元前427-347)です。それくらいは覚えてますよね。

この時代の人達が試みた哲学というのは、共通の哲学的基礎を打ち立てて、個人の自立と、共同体の公共善を統一・結合させることでした。まあ、私から見たら、これは無謀な野心なのですが、哲学者というのは共通して、こういう無謀な野心に駆られるものなのでしょう。そして、それこそが哲学の存在理由の一つでもあったわけですね。

もちろん、ニーチェやフーコーのように、道徳に懐疑的な哲学者もいれば、カントのような道徳的オプティミストもいれば、いろいろな哲学者がいたわけですが、みんなこの、「プラトンの呪縛」というべきものと絡んでいました。

しかし、ローティは違いました。私的なものと公共的なものを統一しようという考えを、「そんなの無理」とあっさりと捨て去ることで、プラトンを基本的に無視する立場を取ったのですね。何と革新的なのでしょう。これこそ私が、ローティ以降を「哲学2.0」と呼ぶ理由なんです。

で、現代はどういう時代かというと、ポストモダンと言われながらも、市民レベルでは未だに「プラトンの呪縛」が幅をきかせています。残念ですね。

■4 方法を持たないプラグマティズム

アメリカの哲学と言えば、プラグマティズムですね。「プラグマティズムこそアメリカの哲学」。これは1950年以前のアメリカの決まり文句でした。しかし、次第にアメリカも大陸哲学に傾いて行くのですね。

で、アメリカ社会でプラグマティズムがどう機能したのか。ローティはこう見ます。

因習の殻を破り新しいものを受けいれることを奨励すること、宗教文化を振り払い自由にすること、道徳律の影響を抑え新しい立法を恐れないことなど、プラグマティズムは科学主義的、実験主義的に働いたのだと。そして、この反イデオロギー的自由こそが、アメリカの最も価値ある伝統だとローティは言います。

しかし一方で、ローティのプラグマティズムは従来のプラグマティズムとは異なります。それは、「方法を持たないプラグマティズム」と呼ばれるものなのです。プラグマティズムには、信頼できる方法があるという科学主義がありました。しかし、ローティはそのような方法は無いという反科学主義の立場をとります。これは、ネオプラグマティズムと呼ばれたりもします。

ローティは、哲学的な深さを悪しきものと考えます。さらに、プラトン的な夢に至っては最悪のものだと考えます。彼の基軸は自由主義の擁護なんです。そのためには、「方法を持たないプラグマティズム」と、「深さを奪われた大陸哲学」が一緒になれば良いのにとまで言うのです。

難解ですか?
ローティの論文「方法を持たないプラグマティズム」の一節を引用しておきましょう。

「確かにわれわれには、互いに語りかけ、世界に関する見解について話し合い、力よりも説得を用い、多様性に対して寛容であり、心から反省する用意のある可謬論者であるべきで義務がある。けれどもこれは、方法論的原理を持つ義務とは、別のものである。」

■5 脱構築

脱構築。何それ、美味しいの? などと聞く人は冗談が好きな人でしょうか・・・。

まあ、冗談はさておき、聞いたことも無い人、だいたい知っている人、詳しい人がいるでしょう。とりあえず、誰にでもわかるように書いてみます。

脱構築とは、哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)の用いた言葉で、フランス語では、デコンストリュクシオン、英語では、ディコンストラクションであり、日本語では解体構築と呼ばれることもありますね。もともとは工学系の言葉で、機械を分解して部品を取り換えて別の機械を作ることなどを指します。

デリダのいう脱構築とは、何かを伝える時には、すでにそれに対する反論が、そこに含まれているということの論証です。当たり前の話ですね。簡単に言えば、何にだって反論できるよということ。

ちょっと難しく言うと、二項対立の解体作業であり、ロゴス(言語)中心主義への批判的方法でしょうか。

それが、ローティ以降と私が勝手に定義した「哲学2.0」とどう関係があるのかって?
無いです。(笑)いや、ちょっと関係があります。

それを説明するには、ソシュールを起源とする構造主義を説明しないといけませんね。
そうしないと、アメリカのローティ以降を「哲学2.0」とし、構造主義主義以降を「哲学2.0」としなかったのは何故か。続きは追って書きます。


■6 民主主義

「民主主義? それって結局、多数決のことだよね。」
こんな風に言う人がいますが、違うんですねえ。

民主主義とは、市民の討議による政治です。多数決というのは、意思決定の技法の一つであって、本質ではないんですよ(異論があることは、100も承知ですよ。笑)

ムフ(1943-)という政治哲学者は「闘技的民主主義」を主張します。それは、社会の多元性を認め、多元性を受けいれる民主主義です。目標は一致ではなく、差異を認め合うことなんです。

それから・・・民主主義とは本質的にローカルな性質を持つものなんです。地域や文化に根差した民主主義が好ましいということですね。国が大きくなると、民主主義も難しくなります。世界民主主義となると(そんなものは今現在ありませんが)、もっと難しいでしょう。

みなさんは、民主主義について、どんな本を読まれましたか?
え、民主主義が好きじゃない???
ふむ。ムフを読もう・・・。

■7 自文化中心主義

一般に、自文化中心主義というと、自文化を最高のものとして他文化を否定したり、排除したりする、エスノセントリズム(ウィリアム・サムナーの造語)の事を言いますね。何とも怖い考え方です。

しかし、ローティもまた、自分の事を自文化中心主義者だと言い出すんです。え。何で、と思いませんか?

もっとも、ローティのいう自文化中心主義は、自文化至上主義ではありません。そうではなく、自分自身が何かを見る時には、必然的に自文化という立脚点から見るより他に方法がないという意味なんです。

はい。この語りはかなり戦略的です。自文化中心主義という言葉を友好的に再解釈しているのですね。

余談ですが、友好的に再解釈するというのは、一つののテクニックです。仕事で、家庭で使える技です。覚えておきましょう。

(今日はここまで、続きは気が向けば書きます。)

恋愛といじめの哲学

2012年09月03日 | 文化
昨日は実に俺らしく、知的に読書会だった。それは2階で、縁起の良いことに13人だ。薄暗い部屋。まるで秘密結社の会合だな。俺はそう思った。

カレーを食べている人もいる。ケーキーを食べている人もいる。しかし、重要なのはそんなことではない。メンバーがそれぞれこの本をどう読んだかということだ。つまり、テーマは本ではなく読者であるこのメンバーなのだ。おかしい。これでは真面目な日記だ。

読書会の途中でメールが入った。叔父の訃報。そうか、亡くなったか。

議論は白熱したようで、蛍光灯だったかもしれない。部屋が広いのにエアコンは一つだ。9月2日。まだまだ夏だ。故に、熱い読書会になった。

この本の主人公は僕で、僕は学校でいじめられている。そして、コジマという同じクラスの女子もまたいじめられている。二人は健全な男女交際を始める。デートが美術館だなんて実に文化的だ。

読書会では話題にならなかったが、文庫本には作者の写真入りの広告のチラシが入っていた。なかなか可愛い。最近2回目の結婚をし、出産したばかりだ。旦那も作家で、一つの部屋で仕事をしているという。どこからそういう情報が出てくるのか。流石は秘密結社だ。

この読書会に参加するのは4回目だ。参加者は皆、我が強く、弁がたつ。ここで喋るには、気を強く持って、筋金入りの文脈を準備しないといけない。揺れたら負けだ。

だが、俺には困った問題があった。歯が劣化してしまい発声がうまく行かない。これはハンディーだ。言い訳に聞こえるかもしれないが、きっと言い訳だろう。

コジマは中学生で、離婚して別居中の貧しい父を思って、そのしるしとして、汚い格好をし、風呂にも入らない。しまいには絶食してしまう。これは親が悪い。子供は子供だからだ。何と言っても中学生だ。しかし、悪いと判断したところで、それは現実だ。現実とはそういうものだ。

主人公の僕はバカだ。鼻が曲がるほど蹴られて血を流しても学校に行くなど、ただのバカだ。でも人間なんて、ほとんどがバカだ。俺もバカだ。

それに比べて、いじめる側の百瀬というのは賢い。すべての行動を理屈で説明する力がある。利己的で打算的で貪欲で邪悪な者。しかし、こういう要素を根っこに持っていないと、今の時代は生きられない。Kさんが、ネオリベ的自己責任型と言ったが、そうなのかもしれない。

子供の世界が無邪気なら、大人の世界は適当でいい加減だ。社会秩序など、体系的なように見えて矛盾に満ちている。この矛盾を抱えながら生きること。それが良き生なのだろう。ピュアであることの、割り切れることの危うさ。筆者はこれを伝えたかったように思う。それは諦めでもあり、妥協でもある。

人は青春の一時期、それを拒む。ピュアでありたいと思う。それは通過儀礼のようなものだろう。だから青春は美しい。そして、大人は美しくない。別に俺のようにとは言わないよ。

結末の文学的表現についての指摘もあった。主人公の僕とコジマは二度と会うことが無くなった。そして、僕は斜視の手術をし、視界が変わる。そこで見たもの、繰り返される「ただの美しさ」という表現が何を意味するかという議論である。僕はコジマとこの美しさを共有したかったのだろう、という読みである。

だとすると、その切なさは何だろう。

初恋が美しいのは、それが終わるからだ。理屈っぽい小説という評価が多かったが、これは恋愛小説なのかもしれない。そして、それが恋愛だったと気がつくのは、終わってからなのだ。

神話的空間の誘惑

2012年05月21日 | 文化
神話は物語ではなかった。神話が歴史であり科学である時代があった。近代はそれをノンフィクションからフィクションへと変容させた。そして今、人間は閉塞感の中の終わりなき日常の中を、不安を抱えながら生きている。そこにはもはや、新しい物語すら無い。すべての悲劇と破滅は繰り返されているだけだ。退屈と憂鬱にはもう慣れた。元気なのは、寂しい経済空間に憑りつかれた人たちだけだろうか。そういう人を見ていると、また大きく疲れるのだ。 そもそも神話とは人類の起源という謎に関するものだ。文明の起源という謎に関するものだ。ダーウィンは一つの人類という思想を作り上げ、神話を破壊したが、それが大いなる陰謀であった可能性は高い。一つの人類国家というアジェンダを作るたもの装置。そしてまた、他にも多くの目的を持っていたように思われる。もちろん、推測でしかないし、証明できる性質のものでも無いのだが。 >神は存在した。今も存在するかもしれないし、私たちも神の子かもしれない。ただし、神は複数だろうし、それは恐らく地球外生命だ。もしも私たちが地球生命ならば、これほどまでに生態系と不調和ではないだろうし、そのエネルギーを宇宙開発に向けたりするはずもない。 もう、現代文明の経済制度の息苦しさの中を生きるのは御免だ。支配の道具としての科学、宗教とも距離を置きたい。人生を社会的要素の中で矮小化させるようなことはしたくない。いくつもの神話に触れ、その精髄を感じて生きてみたい。奴隷化計画に隷従するのは自由だが、それは不安と盲目の中での選択だとしか言いようがない。精神と身体の回復には、まず呪いを完全に解く必要がある。そしてそれは、新しい神話の役割でもある。

信念は道具

2011年02月15日 | 文化
信念。あえて「信念」というのだから、それは正しいか否か、善か悪かという次元にはない。それらを超越しているから「信念」と呼ばれるのだ。では、なぜ多くの人が信念の重要性を説くのだろうか。

いわゆる成功した人に会って感じるのは、そこにある強烈な信念だ。それも異常と言っても良いくらい強固な。どうしてそんなに強い信念を持つに至り、その信念に基づいて行動しているのか。ここに秘密があった。

強く前進して行くには、「考えてはいけないこと」がある。たとえば、自らの使命。そんなものは概ね勘違いに決まっていると私は思うのだが、そういう知的態度は成功の妨げになる。勘違いだと分かっていても、これが私の使命なのだと思い込んだ方が良いのだ。

昔、ある人に「考えたら負け」という格言を教わった。信念は揺れやすいものだ。しかし、考えたら負け。信念というものの本質は「強く生きるための道具」なのだから、一度決めた信念は貫いた方が得策だ。いや、得策という言葉は不適切かもしれない。信念とは貫くものなのであって、揺らぐようなものは信念ではないのだ。

なぜ、今頃になって「信念」について語るのか。

私は今まで知識人を気取っていた関係上、信念を持たないことを美徳としてきた。(この文章はおかしいだろうか?)しかし、すっかり歳を感じるじるようになった。すると、信念を持たないことがしんどくなってきたのだ。きっと、信念を持っていれば楽に生きられるに違いない。こういう打算から、私は信念を持とうと考えるようになった。

さて、どういう信念を持とうか。
これから考える。(笑)

鬱とSSRIと人格改造

2010年03月04日 | 文化

精神科医、村井俊哉氏の「人の気持ちがわかる脳」(ちくま新書)という本を読んだ。昨今の新書ブームで指摘されている通り、全般に新書の質は著しく低下している。申し訳ないが、本書もその例に漏れないと言って良いだろう。筆者の主張した点と全体の構成がまるで噛み合っていないのだ。

ただ、この本の良さは、この齟齬にこそある。筆者は精神科の臨床に携わりながら、現在の薬物療法について悩んでいるのだ。筆者が本当に書きたかったのは、この点についてなのだろうが焦点を敢えてぼかしている。そこが面白い。

脳の「腹内側前頭前皮質」という場所は、個人の根本的な価値観、心、人格を司る部位であると言われている。そして、鬱病に用いられるSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬、デプロメール、ルボックス、パキシル等)は、この部位に直接働きかけて人格を変えているように見えると筆者は言う。これが筆者である精神科医村井氏の根本的な問題意識だ。処方そのものを否定している記述はないが、苦悩が文章に滲んでいる。

さらに、最近の鬱病患者の増加について「ハイテク資本主義」時代の理想的人物像を持ち出し、ある仮説を述べている。つまり、自信満々で柔軟性があり、仕事が速く、エネルギッシュにして社交的な人物。これが、ハイテク資本主義での成功者に共通するキャラクターなのだと。そして、そういうパーソナリティにならなければいけないという圧力が、鬱の原因になっているという仮説である。

筆者は臨床経験から、そうして鬱になった患者をSSRIを使って人格改造し、ハイテク資本主義に合ったパーソナリティに変容させて社会に送り返しているという印象を持っているようだ。実に怖ろしい話ではないだろうか。

「腹内側前頭前皮質」に影響を与えるのは、SSRIだけではない、SDA(セロトニン-ドーパミン拮抗薬)でも何でも、脳内物質に作用する精神科の薬はすべてと言って良いほど関係するだろう。ノーベル賞で有名な利根川進氏の夫人でもある吉成真由美氏(脳科学者)は、著書の中で脳のことなど分かっていないのだから薬を飲むのは危険だと書いていた。ダイヤモンド・オンラインで鬱について連載している泉谷閑示氏のクリニックでは薬物を用いていないと言う。

もっとも、問題とされるべきは薬だけではないのかもしれない。村井氏も言うように、カウンセリングや自己啓発も、価値観や人格に影響を与えるのだろう。いずれにしても、一番の問題は「特定の理想とするパーソナリティを作りだそうとする圧力」だ。心の病や引きこもりの増加は、そうした社会的な圧力に対する抵抗なのではないだろうか。生物の多様性以上に人間の多様性を認め合うこと。人間的自然を大切にすること。環境のエコロジーだけでなく、社会的、精神的エコロジーを推進すること。そんなことが大切なように思われるのだ。人造人間で埋め尽くされたような世界に誰が住みたいだろうか。

とはいえ、鬱はつらい。患者側からしても薬も必要なのだろう。難しい問題提起だ。

なぜ働くのか

2010年02月11日 | 文化
 巷には、「なぜ働くのか」だとか「働くとは何か」といった本が氾濫しているが、こんな簡単な問題は数行でまとめられる。多くの人が、答えは一つという前提で結論を求めるからいけないのだ。

 仕事をする理由は、以下の三つの要素を考慮したうえでの判断である。
  1.その仕事をすることが楽しい。
   (やりがいを感じる、役に立てる等を含む。)
  2.その仕事は金になる。
   (通常、最低限生活できる必要があるし、多いほど望ましい)
  3.その仕事は、広い意味での資産を築く。
   (キャリア、スキル、資格、人脈、体力、等)

 もちろん、この3要素間のバランスは人によって異なるし、希望と能力、あるいは環境との間にはギャップがあるので、妥協は必要かもしれない。しかし、この3要素をしっかりと意識して選択することが重要なことにかわりはない。
 研究者、医者、政治家、スポーツ選手、芸能人等であっても、この要素は変わらない。変わるのは、この要素間のバランスだけだ。
 振り返って、私の仕事はこの3要素を満たしているだろうか。書くまでもないよな。

お気楽系の抵抗線

2010年02月08日 | 文化
 日本人はとかく暇を嫌う。「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」が強調されるが、その後に続く「大人(たいじん)閑居して善をなす」はあまり言われない。お前らは凡人で小人なのだから忙しく働いておけば良いのだ、という言い分を従順に受け入れているのだ。
 しかし、お気楽系は違う。お気楽系は大人である。いや、人は皆、根本的に大人だと考えている。そして大人にとって最も大切なものが閑暇なのだ。閑暇をどう過ごすか。これこそが人間的営為の結晶であり、最も貴重な、味わい深い時間なのだから。
 でもね、暇があってもお金が無いと楽しくないし、働かないと食べて行けないし・・・と考える人もいるだろう。あるいは、お気楽系なんて金持ちだからこそ言える戯言だと思っている人もいるかもしれない。だが、真相は違う。私の知っている生活保護受給者は、数本の煙草と1本の缶コーヒーで会話を楽しみ、毎日を豊かに過ごしている。物質的な豊かさよりも、閑暇という時間的な豊かさの方が、どれほど精神的に稔り多いことかと嫉妬してしまうくらいだ。
 なにも、生活保護制度の利用を勧めているわけではないが、私にはワーキングプアが理解できない。さらに、政府が雇用促進に力を入れ、社会保障をおろそかにするのには大反対である。「働かざるもの食うべからず」という考え方は、ワークフェア(workfare=労働+福祉。福祉の受給に、労働ないし職業訓練を要件とする考え方)という、労働を懲罰的に使う最悪の思想と政策を生んだ。困った問題である。
 では、お気楽系は働かないのかと言うとそうではない。そういう問題では無いのだ。お気楽は、仕事の手を抜くかと言うと、それもない。要は、閑暇という豊かさが、物質的な豊かさよりも尊いということを知っているのだ。
 お気楽系は、仕事中毒になることもなければ、将来を悲観することもない。そして、何よりも「明日より今日が大切だという感覚」で生きている。
 現代社会は、いろいろな手段を使って脅しをかけてくる。勉強しないと、資格をとらないと、一生懸命働かないと、貯金しないと、大変なことになりますよ、と。その度に閑暇が失われる。はっきりと言おう。「そんな脅しに負けると、大変なことになりますよ」と。 閑暇は豊かさであるとともに美徳である。それには、将来の不確実性という対価を支払うだけの価値がある。

レジリエンス

2010年02月05日 | 文化
 レジリエンス(resilience=回復力)という言葉は、多方面で使用される言葉だが、特に心理学、精神科医療で最近よく使われるているようだ。つまり、精神的回復力=レジリエンスである。ある研究(※1)では、以下の3つがレジリエンスの因子として抽出された。
 1.肯定的な未来志向性
 2.感情の調整
 3.新奇性追求

 さらに、精神的回復力と自尊感情の間には、正の相関があるのだと言う。レジリエンスを支援するのは、教育や医療の役割だが、この因子を知っておくということは、自らの弱みを克服するうえで有益なように思われる。
 もっとも、これが<技術>なのか<能力>なのか、トレーニングで習得・向上させることが出来るものなのかは、良くわからない。今度、いろいろな専門家から話を聞いてみたいと思う。

お気楽系への道

2010年02月05日 | 文化
 「お気楽」とは、脳天気のことではない。能天気な人に、能天気はおやめなさいと言うつもりもない。また、脳天気な人ならば、この文章を読むこともないだろう。「いや、私は能天気だ」と主張する人もいるかもしれないが、きっとその人は、本質的に能天気ではない筈だ。
 私の言う「お気楽」とは何か。それを厳密に定義してしまうと、それは「お気楽」ではなくなってしまう。そこで、曖昧にそれを示してみよう。
 「お気楽」から連想される言葉。それは、しなやかさ、自然な、自由な、生き生きした、みずみずしさ、と言ったものだ。あるいは、硬直的でない、奔放な、余裕があるといった言葉を付け加えても良い。定義として不真面目だ、と怒られるかもしれないが、真面目すぎない、というのもお気楽の特徴である。(言い訳だろうか?)
 さて、なぜ今、「お気楽」なのか。これは、現代日本社会を分析したうえでの一つの結論である。今、お気楽が不足している。そして、お気楽が求められているのだ。
 お気楽系が求められる背景には、以下のようなタイプの衰退がある。
  1.保守的な人生設計という考え方が破綻した。
  2.上昇志向の空気が薄まり閉塞感が漂っている。
  3.スピリチュアル・ブームにも陰りが見える。
  4.おたく文化も行き詰まりを見せている。
 生き方はいろいろあって良い。むしろ多様であるべきだ。しかし、生き方の選択を間違えると自らを苦しめ、人生を楽しめないということになりかねない。「お気楽系」も一つの選択肢。決めるのは自分自身だ。
 さて、そう言う私自身が「お気楽系」なのか、と問われると顔色が変わる。鋭い質問だ。実は、私もまだ完全には「お気楽系」にはなれていない。しかし、私は決断した。これからは、「お気楽系の時代」なのだ。私も「お気楽系」になってみようではないか。そのために、私自身が持つリソース、つまり知識や道具、時間やお金、人脈や肉体を使って、どうすればお気楽になれるのか、言い換えると、お気楽になるための<技法>の開発と整理に乗り出すことにする。
 それは、認識の技法、思考の技法、分析の技法、習慣化の技法、意思決定の技法、表現の技法、伝達の技法、捨てる技術、考えない技術、等々だ。これらを実践しながら整理すること。それは一つの実験と言えるかもしれない。
 ん。全然「お気楽」じゃなさそうだって?
 嗚呼。お気楽への道は遠いのか。(笑)

お気楽系宣言

2010年02月04日 | 文化
 お気楽でいられるための一番の条件。それは自信だろう。では、自信とは何だろうか?
 ある事柄についての自信ならともかく、漠然と自信とは何か、と問われると少し考えてしまう。私ならこう答える。自信とは、多少状況が変化しても生きて行けるという見通しがあることだと。つまり、将来がたとえ予定通りにならないとしも、何とかなるという楽観的な態度。これが自信なのだと。
 もちろん、根拠があるかもしれない。健康であったり、技能があったり、対人能力に優れていたりといったことも要因になるだろう。しかし、同じような能力、要因を持ちながら、同じような状況にありながら、自信が持てる人と持てない人がいるのは何故だろうか。それは単に、性格の問題なのだろうか?
 答えはノーだ。自信は思考のトレーニングの賜物だと私は考える。適切な思考を積み重ねることこそが自信に繋がるのだ。逆に、誤った思考が悲観を生む。
 そうは言っても、自信と社会的諸条件の間には相関があると言われるかもしれない。しかし、これはどちらが原因でどちらが結果とも言い難いところである。つまり、自信があるからこそ、社会的諸条件が向上された、と見ることもできるからだ。
 さて、一番肝心な点は、適切な思考とは何かということだ。結論を簡単に言えば、それは、現状を肯定的に受け止めてから問題や課題を探すか、現状を否定的に受け止めて全てを問題だと考えるか、の違いである。もちろん、前者が適切な思考であり、後者の思考は生産的ではない。たとえ状況が悪くとも、生きているという現実は否定できない。できる限り、現状の良い点に目を向け、そのうえで問題の発見や改善、あるいはさらなる向上を考えるべきだと言えるだろう。
 世界は常に不条理に満ちている。不公平も不平等も存在する。賄賂も犯罪も残忍さもある。それは受け入れ難いものではあるが、まずは、良い点にも目を向けて現状を受容することだ。これは、社会についてだけでなく、自分自身についても同じである。ある程度の寛大さをもって現実を受容したうえで課題を設定しない限り、いかなる批判や抵抗も望ましい結果を生むことはないだろう。
 繰り返しになるが、お気楽の第一の条件は、適切な思考に基づく自信である。その基底には、現状の肯定的な受容がある。それは、決して批判精神を持たない事なかれ主義ではない。そうではなく、このような態度こそが、より本質的で鋭い批判や、意味のある問題解決を可能とするのだ。お気楽は決して利己主義ではない。

幸福という毒薬

2010年01月30日 | 文化
1)世界中の人々は幸福?

 世の中には、私は善人です、私は愛に溢れた人です、ということを自慢し吹聴しているような人が少なからずいる。そういう人々は、私は世界中の人々の幸福を願っていると臆面もなく口にする。私の観察するところでは、こういう人は女性に多い。
 しかし、幸福などというものは人によって違う。中には、あの人の不幸だけが私の幸福である、という人もいる。つまり、すべての人の幸福が実現不可能なことは明白なのだ。
 こんなことを言うと必ず、それは本当の幸福ではないのです、と演説がはじまる。ちょっと待って欲しい。私は真の幸福を知っていて、あなたはそれを知らないという自信に溢れた態度はいったい何なんだ。そんなものは、あなたの大きな勘違いだ、などと言ったら最後、あなたは心を入れかえなければいけない、と断定されるのがオチである。
 争いがなくて安全で平和で、食べるところや住むところに困らず、友達がいて、元気で、笑顔と希望があれば、それだけで幸せなのだと主張されたことがある。これだけ並べておいて、それだけで、と言ってしまうことも相当に凄い。
 まず、争いのない社会などというものを私は想定できない。もちろん、戦争や暴力を肯定するのではないが、競争というものが社会に不可欠の要素であることは明白だ。受験競争、出世競争、スポーツ、ビジネスにおける戦い、その他いろいろな競争がないような社会など不気味である。おおよそ緊張感のない弛緩した社会であり、絶滅寸前状態のようですらある。
 世の中にはいろいろな人がいる。ノーベル賞がいまだに取れないとか、大統領になれなかった、という理由で自らが不幸であると思っている人もいる。そういう人に対して、あなたには住む家があり、食べるものがあるのだから幸せなのですよ、などという言葉は慰めにならない。本人が不幸だと言っているのだから、それで良いではないか。頭の良い人が考えた不幸というのは、普通の人が考える不幸よりも、きっと難解かつ深淵なものなのだろう。不幸も普通の人の何倍も大きいかもしれない。それぐらいの想像力を働かせても良いのではなかろうか。
 逆に、住む家が無い、食べるものも無い、病気である、といった理由で、その人を不幸と決めつけるのも傲慢だろう。本人に悪意は無いのかもしれないが、それは、貴方より私の方が幸福ですと宣言しているだけであり、それ以上の意味を持たない。ふざけるな、の世界である。

2)不幸は幸福から生まれる

 幸福は、個人の領域にあるととともに、社会的・経済的な目標としても用いられる述語でもある。一つの単語なので、あまり区別なく使われる「幸福」だが、個人レベルのものと、社会レベルのものは分けて考えるべきだろう。後者は専ら社会政策等の意思決定における評価基準であり、前者とは意味するところが違う。後者が意味する幸福は、特定のセグメントに対する満足度のような形で示される。個人の心理あるいは精神とは、あまり関係がない。
 さて、「不幸は幸福から生まれる」と書いたが、これは当たり前のことだ。幸福という概念に先立って、その否定形である不幸という概念は存在し得ない。つまり、幸福さえなければ不幸はない。
 手許の辞書には、こう書かれている。
 【幸福】不自由や不満もなく、心が満ち足りていること。(自林21)
私なら、こんな状態はまっぴら御免だ。不自由や不満もなくて、人生なにが面白いものか。幸福好きの人は、私には幸福を追求する権利がある、とか、私には幸福になる資格がある、とか、私には幸福になる責任があるとか言う。彼らの言う幸福とは、良く言えば「夢の実現」に過ぎない。大きな目標を掲げる人もいれば、平凡な家庭、平凡な生活を望む人もいる。そして、多くの人が、私は幸福だと納得しているに違いない。しかし、本当に無条件に納得しているとも思えない。それどころか、私には幸福にこだわる理由がわからない。幸福を願う気持ち、希望を持つことが、社会を維持・発展させ、人生を充実させるという反論もあるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。そのような「形」としての幸福こそが、ある種の倒錯であり精神の管理状態に他ならないからだ。
 私ならこう言う。幸福の呪縛から解放され、訪れては去って行く喜びや悲しみ、満足や失望などの気持ちを味わうことこそが人生なのだと。その自然な感情の上にペンキを塗るというのは愚かであると。

3)危険な幸福

 幸福など主観であると割り切る人もいる。さらに知的にとばかりに、幸福とは脳内物質のバランスだと言う人もいる。まあ良い。ならば、一生ドラッグでもやって人生を過ごせば良い。日本では非合法だろうから、それが合法な国に住めば良い。こういう人達は、幸福に呪われた人の究極ではなかろうか。

4)欲動、哲学、開かれた社会

 幸福に縛られないこと。そして、理性を持って欲動を殺すことなく飼いならしながら楽しむこと。これは実に人間が社会の中で生きるための条件である。自由の本質は精神の中にしかない。社会において、人が完全な自由を求めるなど狂気の沙汰と言えよう。
 私たちは、誰しもが現代文明の価値観や思考様式の中にある。言い換えれば、常識を持って生きている。しかし、一方で私たちは常識を疑う力も持っている。哲学と聞くと、たいていの人は尻ごみする。ましてや哲学者と議論したいと思うひとなどまずいない。難解にして理解不能だからだ。しかし、それは哲学者の責任であって私たちの責任ではない。哲学知識を詰め込んだだけで哲学をしていない哲学学者など相手にする必要もない。考えることは、哲学者の特権ではない。
 よくあるのが、正しいという確信の持てることしか発言してはならないという誤解である。そんなことを考えたら、誰も何も発言できない。答えのある問題しか教えない学校教育の弊害(まてよ、目的か?)だろう。多くの問題は、考えただけで答えが出るとは限らない。そもそも答えがあるかどうかすら怪しいものだ。重要なのは、正否に関わらず、思うところを発言することだ。発言すること。これこそが哲学のアルファにしてオメガなのである。
 繰り返すが、幸福=善、という思い込みは間違っていると私は書いた。もはや、幸福などという錆びついた語彙に執着するのはやめよう。私の見るところでは、この「幸福志向」こそが一つの病理だ。故に、この文章のタイトルを「幸福という毒薬」とした。「なんだかんだ言っても幸せだよな」で思考を停止し、感情を麻痺させることは、一種の中毒だと言えないだろうか。
 私たちが求めるのは、欲動を飼いならす理性と、幸福の呪縛を解く力と、開かれた社会を信じる勇気である。開かれた社会とは、外部に敵を作らない社会のことだ。もちろん、人類はそういう歴史を経験していないのであり、ある種のユートピアかもしれない。しかし、今、私たちはその機会を与えられている。そのことに感謝して、この小文の結びとしたい。
 いや、それとも、欲動を飼いならせない理性と、幸福から離れられない煩悩と、開かれた社会を信じられない猜疑心に揺れながらも生きていることに感謝して、というのを結びの言葉にしようか。この方が謙虚で誠実だろうか?

2006年5月25日のmixi

2010年01月29日 | 文化
2006年5月25日(木)
会社帰りに本屋に寄った。
先日ようやく上巻を読み終えた「天皇と東大」の下巻を購入。ついでに、「羽生の頭脳の第1巻」と「ウェブ進化論」を買う。

「天皇と東大」を読むと明治から昭和にかけての思想的な流れが良くわかる。初代の東大総長で自由民権の旗手でもあった加藤弘之が国家主義者の圧力に屈し(殺されてもおかしくない時代だった)、自らの著書「国体新論」を絶版にして、変節を新聞にまで広告として出し、学者の間での誹謗、中傷をものともせず、媚びへつらって大出世街道を邁進し、次々と勲章をもらい、さらにはその勲章を長々と自慢するというその俗物ぶりを筆者、立花隆は非難しているのだが、私のような小人には、その非難に同調する資格もなければ、そう簡単に非難するような気分にすらなれない。人は生きるために何かを犠牲にする。いかに崇高な信念に従おうとも、勝てない戦いを行う者は愚かだとも言える。愚かが悪いとは言わない。ただ、大切なものを犠牲にして生きている人の行為を、そう簡単に批判できるのだろうか、と。

もしかしたら、それを批判し、非難できないという性向が日本人的なのであり、日本人の決定的な弱点なのかもしれない。ユダヤ人的な、つまり、常に対立を求め、対立の上にしか安住できないような性格だと思っていた私の中に、日本人的なものを発見したような気がした。

この本を読むと、東大のもつ性格も良くわかる。そこには学問の自由も大学の自治もなく、ただただ国家に貢献する役人を養成し輩出することが、法律で明文化された目的だったのだ。そのような大学の中では、教授陣と政治、行政は極めて密接な関係にあった。そして、右翼の源流も、左翼の源流も、東大にある。意外なことに天皇の位置づけを除いては、右翼も左翼も見事なまでに社会主義指向であり、ほとんど差がないのだ。(こんな事を書くと、どこからともなく誰かが現れて、それは違います、との指摘を受けるかもしれないが)

歴史に関わる人というのは多くはない。もし、この人物がいなかったら、日本の歴史はまるで異なる方向に行っていたかもしれないと思われることもある。民主主義と言われる今、私たちは本当に民主主義を背負っているだろうか。それは、ある状況では戦いとなることを覚悟したものでなければならない。命を落とそうとも信念を貫くという程度の覚悟だ。偉そうなことを書いているが、私には自信がない。ただ、慰めを言えば、そのような覚悟が必要だという認識は持っているということか。いや、慰めにはなりそうもない。

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正常だな。