お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

社会を超えて生きるには

2013年04月19日 | 社会
今や誰もが個人を社会のエージェントとしてのみ認識し評価する時代になってしまった。環境や人材を資源として見る現代社会。ホモ・エコノミクス(合理的経済人)の価値評価システム的な言語が国際社会の標準的な文法にはきっちりと組み込まれている。思想家イバン・イリイチはこの事態を深く憂慮していた。

イリイチは途上国の開発に対して格差と貧困を拡大するものとして反対し続けてきた。特に途上国での学校教育の義務化は多くの挫折感を生むだけだとして強く反対してきた。もちろんアメリカでの義務教育にも反対する立場だ。医療制度にも強い懸念と嫌悪感を表明している。産業社会は貧しい者がお金がなくても何とか生活はできる世界を奪った。現代社会は制度への依存を強要し、自律的、自立的な生活を奪ってしまった。経済的に豊かになったとしても、そこにあるのは無力感だ。イリイチはこれを「現代の貧困」と呼んだ。

いまや、すべてを価値で評価し、それに基づいて意思決定することは常識とされる。しかし、イリイチは言う。いまや倫理学からも「善」という観点が失われたのだと。歴史学者であるイリイチは現代の一般的な世界観が歴史的に見ていかに特殊なものか、そして最悪のものかを痛烈に語る。人間をシステム内で位置付けること、地球をガイアという一つの生命と見ること、環境、生命という言葉の背景にある思想。イリイチの本を読むと間違いなく厭世観に襲われる。だから、知的抵抗力のない人は読まない方がいいのかもしれない。

イリイチは健康管理に「糞食らえ」と言う。自らを管理の対象としてどうする。自己管理など最悪だ。行為を価値で決めるなど賤しいこと。生命という歴史の浅い言葉に価値を置くことで人格が略奪される。産業化に加担することはグローバルな貧困と格差の拡大への貢献である。開発ボランティアというのは最悪の思い上がりだ。科学が自然を管理、支配できるというのは、とんでもない幻想である。地球への責任を語る人類は、どこまで思い上がりが強いのだろう。今や人類は地球の管理人になったつもりなのだろうか。地球環境を資源としてしか評価できないことの異常さ。これは権利幻想の裏返しでしかない。宇宙開発にも否定的だ。ロケットを打ち上げるのにどれだけの爆薬が必要か知っているのか、と。

グローバル化と言われる中で、私たちは特異な世界観を押し付けられている。自分自身をシステムあるいはサブシステムと認識してしまう。自らが特異な存在であることも、神秘的な存在であることも、消し去られる。生きる理由は失われ、一つの無力な生命となって行く。このような制度化は強固なものだ。教育、経済、医療、福祉、都市・・・あらゆる領域において。それでもイリイチは、いまをいきいきと生きよう、と呼びかける。では、どうすればいききと生きられるのだろうか。

まずは個人を社会学的属性で評価するという態度と距離をとることだ。全面的に社会に飲み込まれて生きることのないように注意することだ。そして、プライベートや生活というものに価値を見出すことだ。

人間は社会内存在という宿命を持つと同時に、社会を超えた領域、私的領域を生きられる動物でもある。自らを社会に埋没させないこと。私はこれが重要だと訴えたい。

人権と主権をめぐって

2013年04月13日 | 政治
誤解のないように初めに書いておくが、私はいかなる政党にも属していないし、支持する政党もない。もちろん左翼的ではない。現実性のない理想論(空論)を振り回すことには何の意味も感じない。政治の裏側を知るジャーナリストでも、エージェントでもない。ただの個人として、今ここで書いておくべきだと思ったことを書くだけのことだ。

巷では「憲法改正」についての議論が盛んだ。しかし、自民党の憲法改正案を読んだ人がどれだけいるだろう。「公益及び公の秩序を害する」という表現がいたるところに出てくることに驚かされる。マスメディアは、9条や96条の方を大きく取り上げるが、自民党は天賦人権説を破棄したいと明言している。西欧近代の人権理論を離れて、日本の伝統とか神話の独自性を明確化したいらしい。

私は打算的な人間なので、この改正案には反対だ。簡単に言えば国益に反する。もしもこの憲法が成立すれば国際社会から非難を浴びることは明確であり、日本は再び世界から孤立するのではないかと危惧するのである。

いま、帝国サイドは「人権」を錦の御旗にして世界戦略を推し進めている。そのような中で「人権」に異を唱えようとしているのが今の自民党の、あるいはマスメディアや世間の風潮である。私はこの主張の裏側を想像してしまう。本当は人権もそれに関する理論もどうでも良いのではないのか。自主憲法とか、自立とか、独立という言葉で大衆を酔わせて、集合的アイデンティティに陶酔させることで権力を強化しようという戦略の道具なのではないのか。そうも想像する。

4月28日には主権回復の日の式典が行われる。これは歴史を知る上で重要なことだと思うし、いろいろな議論があるのは知っているが特に反対はしない。むしろ「主権」という言葉が日本人のコンプレックスになっているのだなということを強く思う。しかし、主権とは何なのか。今の合衆国支配の世界にあって、EU諸国ですらどれほどの主権を持っていると言えるだろうか。21世紀の今、国家の独立性にこだわるなど時代錯誤としか言いようがない。

頭の良い政治家たちが、そんなことを知らないはずがない。それでいながら、大衆の心をつかむために「自立」という言葉を使い、国民意識を強化し、醸成して行く。目的は国内におけるヘゲモニーの強化だろう。それ以外に何が考えられるだろうか。

もっとも私は憲法改正反対の活動をしようとも思っていない。そういう活動をしようとすると旧来の左派が近づいてくるだろう。そして、それは申し訳ないのだが、プラスではなくマイナスの方向に作用すると思われる。

昔は自民党の中にもリベラル勢力があった。では、今の自民党の中にリベラル的なものがあるだろうか。そして今の日本には、勢力と言えるだけのリベラル政党が無いように見受けられる。実現性の無い抵抗に価値を見いだせる人は少数派だ。センチメンタルなナルシストと言っても良い。だが、同様に威勢よく「真に自立した国家」などと叫ぶのもまた、センチメンタルなナルシストだろう。

多忙なサラリーマンには無理なことかもしれないが、そうではない有閑階級であるような人々は、「人権」と「主権」について思考して欲しい。最後に「人間とはセンチメントな存在である」と書き加えておこう。

純粋NLP批判

2013年04月11日 | 社会
最初に断っておくが、批判は否定ではない。批判することで相互に進歩、成長できると思うからこそ批判するのだ。ときどき、「批判は良くない」という人がいるが、それは多くの場合、その人の師匠からの受け売りだ。その愚かなる師匠は、批判されたくなかった。それだけのことだろう。また、「批判は自分に返ってくるよ」と忠告する人もいるが、意味が分からない。私は批判されることなど大歓迎だ。それこそ自らの進歩、成長の絶好の機会だろう。私を愚か者と一緒にしないで欲しい。

さて、NLPとは、神経言語プログラミングの頭文字であり、ニューエイジ系の心理学のことだ。カウンセリングやコーチングで実践的効果があるとされ、日本でも大流行している。私も心理学や脳科学を知識としてではなく実践で生かす必要性を強く感じ、昨日、書店で一冊の本を手にした。

「人生が劇的に変わるマインドの法則」(久瑠あさ美:著)が、それだ。なんともなタイトルだが、私はそこまで追い込まれている。もう、「劇的」である必要がある。さらに帯にある筆者が美人だった。これで完全にサブリミナル・マーケティングに堕ちたと言ってよい。家に帰って読むと、筆者の久瑠氏は元モデルだった。

この本には、NLPという言葉は一度も出てこない。しかし、使われている技法や考え方はNLPそのものだ。NLPという言葉を使わないというのも、マーケティング戦略に違いない。

マインドの法則とは、たった3つのプロセスで「在りたい自分」の心創るという、久瑠氏の理論であり、技法のことだ。3つのプロセスとは、一つには、自分がどう在りたいかという潜在意識のwantを呼び覚ますこと。二つ目が、イマジネーションを駆使して未来のビジョンを描くこと、三つ目が、自分を客観的に見る視点(マインド・ビュー・ポイント)を高めることだ。特に、ビジョンをベースに、未来、現在、過去の順で自分を俯瞰することが重要なのだと言う。この本では、この3つのプロセスについて具体例を用いながら熱い言葉で「マインドの法則」の持つ意味が語られている。

私も熱くなり、この本に期待しながら一日で読み終えた。NLPの本には難解なものも多いが、この本は分かりやすい。そしてすぐにでも実践できる。私も人生を劇的に変えたい。そんなことを思い、本の中のワークシートも実際に書いてみた。自己変容、自己改革というとまだ丸い感じだが、人格変容、人格改造となると危険な感じがする。しかし、NLPはまさにこの人格変容こそが主要な課題であり、なりたい自分を設定し、それを実現することを成功と位置付ける。これは一つの価値観だ。それが善だとか悪だとかは言えない。そもそも、「在りたい自分」が本物かどうかを判断することは難しいとも思う。

クライアントの潜在意識に入り込み、周波数を合わせる感じで、本当のwantを探りあてる。こう書かれると、それは超能力者の技のように思えてくる。さらに、潜在意識が高次で顕在意識が低次だという見方にも問題がある。脳科学的に言えば、非言語の古い脳=無意識の領域であって、新しい脳こそが言語領域なのだ。ここでは、低次と高次が逆転する。

もっとも、私は潜在意識の重要性を否定しているのではない。大切なのは、古い脳(潜在意識)と新しい脳(言語領域)のつながりなのだ。これが上手く行かないと、思考と感情、そして行動がバラバラになるだろう。いかに脳および脊髄を統合された状態にするのか。それが課題であることは間違いない。


さらに本書では社会や組織と個人の関係についても触れられている。人には社会や組織にいるかぎり、しなければいけないこと(have to)があると言う。しかし、この制約の中でも「やりがい」(want)を見つけることは可能だ、と久瑠氏は言う。あたりまえの事が書かれているようだが、この点には注意を払いたい。携帯電話のセールスマンが目標を売上から顧客満足に変えることで成功したとう事例が載っていた。しかし、はたして本当にこのセールスマンのwantは顧客満足だったのだろうか。それが真の自分なのだろうか。偽物のwant、あるいは作られたwantではないと断定できるだろうか。ここには、個人は社会や組織の中で役に立つべきだという価値観が大きく横たわっているということを指摘しておきたい。

最後に潜在意識を書き換えるということの怪しさについて書いておく。近年、潜在意識という情動に訴えるマーケティングはビジネスだけでなく政治でも活用されている。確かにこれは効果があるようだ。しかし、潜在意識を書き換えることで自己を変容できるというのは違うだろう。むしろ、潜在意識を感じながら、顕在意識を、つまり言語領域を書き換えることが自己変容につながるのだと私は思う。そうでなければ、人類が本能を克服し、言語を用いて社会を、そして文明を築けた理由が説明できないからだ。

いずれにしても重要なことは、私たちが社会慣習や宗教、常識やプロパガンダ、教育プロセスなどに縛られることなく、自由にイマジネーションし、wantに従って感じ、考え、自分を客観的に見据えて、思考と感情と行動の整合性が保たれているということだろう。安直なイメージで共感して、簡単にビジョンを共有し、瞬時にラポール(信頼)を確立するなどというのは理想であるどころか最悪だ。それこそが、全体主義への道ではなかったか。いま一度、歴史を振り返り、自分自身を「マインドの法則」から眺めてみることにしたい。


経済的報酬と精神的報酬

2013年04月10日 | 経済
NHKが元旦深夜に放送していた「ニッポンのジレンマ」を見た。「格差を超えて、僕らの新しい働き方」というのがテーマだ。70年代以降に生まれた10人の論客による5時間にわたる討論なのだが、中には現代日本の格差を認識できていない人もいて、自らの成功体験を語りだす始末。とてもお粗末な討論会という印象しか残らなかった。各論客は優秀なのかもしれないが、リードすべき司会者が議論の道筋を整理できない。これではダメだ。

「若者の格差」という言い方も現状を隠ぺいしている。「拡大する若者の貧困」が最大の問題なのだ。個人の意識などといった精神論的発言には、吹き出すしかない。

その中で、社会企業家の白木夏子氏が「精神的格差」という言葉を使った。しかし、その議論が行われなかったのは残念だ。経済的格差と精神的格差。あるいは、経済的報酬と精神的報酬の関係。これを整理しておくことは、とても重要だと思われる。

A.十分な経済的報酬を得ていて、かつ、精神的報酬にも満足している人。
  1.精神的報酬の中身が社会的意義など個人の価値観に根付いている人。
  2.精神的報酬が経済的報酬という外在的要因から来ている人。

B.十分な経済的報酬を得ているが、精神的報酬を得られていない人。
  3.経済的報酬が精神的報酬のマイナス分を上回っている人。
  4.経済的報酬よりも精神的報酬のマイナス分の方が大きい人。

C.十分な経済的報酬を得られていない人。
  5.精神的報酬など不要と考えており、経済的報酬の向上を願っている人。
  6.精神的報酬を得られない仕事には価値がないと考えている人。

大きく分けると、この6タイプになるだろう。

1は、真の成功者だが、こういう人は極めて少ない。
2は、虚しい成功者だと思う。しかし、これが現代の成功者の大多数ではないのか。
3は、仕事からの満足は得られないが、生活には困らない一般の人の姿だろうか。
4は、生活は出来るが、精神的に病みやすい人だ。あるいは起業を夢見る人もいるに違いない。
5は、現代の貧困層の一般的なタイプだと思う。仕事はお金を得る手段と割り切っている。
6は、精神的充足を優先する人々。たとえばアーティストだ。この人たちは仕事に思い入れがある。

いま、雇用問題が叫ばれているが、経済的報酬だけで精神的報酬を得られないのでは、労働であって仕事ではない。単に雇用を増やせば良いという考え方は安直に過ぎる。ワーキングプアを増やしたところで、総所得は増えないのであって、そこに経済成長などあるはずもない。

宇野常寛が言っていたが、いま必要なのは、普通の人がそこそこに働いて生きて行ける環境でありモデルなのだ。頑張った人が報われるなどというのは幻想だ。能力のない人が頑張っても報われることはない。いま必要なのは多様で柔軟な雇用形態でしかない。

今の社会は、経済的満足が精神的満足に直接つながっているという点で不幸だと思う。しかし、それを受け入れられる人だけが今の社会に適応できるということなのかもしれない。この思想潮流はどこから来るのか。そして、そこに空虚さを感じるのは私だけなのだろうか。

国家と雇用そして勤労の地平線

2013年04月09日 | 経済
国家の伝統的な役割の一つに国民を食べさせること、近代以降は特に労働の機会を提供することがある。そのために雇用を確保するとともに国民には勤労の義務を課す。お金が必要で、働く機会があるのであれば働きなさいという訳だ。そして、国民の側もまた、政府に雇用機会を要求し、賃金水準などの労働条件や労働環境の改善を要求する。あたかも当然の考え方のようだが、私はこの考え方自体を見直すべきだと考えているのである。

生産性の飛躍的な向上期には経済成長という余地があった。経済成長によって誰もが豊かになり、幸福が増すと考えられていた。しかし、この「成長期」は歴史的に見るならば特殊な時期だったのだ。今は先進国の経済成長はグローバル化によって途上国の成長余地を食べることによってしか実現しない。途上国は確実に成長するだろうが、そこには深刻な環境問題や石油資源、食糧資源などの問題が横たわっている。中国やインドなどの大国が欧米先進国のような消費社会になることは、趨勢であるとともに脅威なのだ。

このような世界経済の中にあって、国家間の競争に勝つことが重要だとする従来の発想は役に立たなくなっている。一つには、コーポラティズムという言葉に象徴されるように、政治が多国籍企業に支配されているという現実がある。そしてもう一つが、成長することで自らの生存基盤を毀損しているという事実である。

私たちは今、働くことで賃金を得て生活するということが普通の生き方だとする常識を疑う必要があるのではないのか。というのも、現在の先進国で政府が雇用を創出することは困難であると共に意味がないように思われるのだ。従来の考え方で政策を展開した結果が、労働条件の悪化、格差の拡大と貧困の増加、さらには定年延長や生涯現役でなければ生きて行けないという悪い状況を招いていると考えられる。

今の日本は需要不足に悩まされていると近代経済学の信者は言う。しかし、需要不足を問題視するのは「経済成長」というスローガンを絶対視しているからであって、近代経済学という信仰を持たない私にとっては供給不足よりずっと良い状態だ。

ネオリベラリズムの思想が支配している現代のグローバル社会は、目的そのものを見失い、巨大資本の支配下にあるメディアによって未だに「成長」を是とすることで自らの権力を維持、拡大しようとしているだけではないのか。

近代化によって、私たちは地域社会や家族という第一次集団を脆弱化されるとともに、個としての自立という言葉のもとに、どんどんと社会の中で孤立してしまう人を増やしている。私はこのような現状の中で、政府は雇用の責任を放棄するとともに、国民に対する勤労の義務も解除することが望ましいと考える。

では、お金のない人はどうするのか。それには社会保障なり、ベーシックインカムなりの制度で対応すれば良い。財源は国債で賄えば良い。今も日本では、あれだけの財源を国債で賄っているのだ。その使い道を変えれば良いだけの話だ。今の日本は富の再配分が上手く行っていない。今考えるべきことは、生産や成長ではなく、再配分のシステムを民主的な手段で変更することなのである。

もっとも、このようなシステムを実現するのは政治より前に市民の意識だ。政府に雇用を期待しないこと。勤労を美徳と考えないこと。社会システムに支えられて生きることを屈辱だなどと考えないこと。違法な労働条件のもとで無理な労働をすることは悪徳だと理解すること。つまり、新しい雇用と社会についてのビジョンを誰かが打ちだし、それに共鳴する人が増えなければいけない。

高額納税者も生活保護受給者も、等しく制度によって支えられた存在である。威張るものでも、恥ずかしがることでも無いだろう。世の中には強者もいれば弱者もいる。社会が強者と弱者の戦いになるならば普通は強者が勝つ。そうではなく、誰もが納得できる経済的、社会的ビジョンが示される必要がある。



SNS時代の歩き方

2013年04月07日 | 社会
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)は、すっかり一般化した。今では、普通の主婦でもスマートフォンを使ってfacebookを使いこなしている。それはまるで新しい通信・コミュニケーションの標準であるかのようだ。一方、業界ではソーシャル・メディア・マーケティングだと騒いでいる。あるいは、ソーシャル・メディアが権力構造に変化を与えると見る社会学者もいる。SNSは本当に誰もが無料で楽しめる薔薇色の世界なのだろうか?

とんでもない。そこには、スケールフリーという法則が働いて、富める者がますます富むという構造が出来上がっている。「私はfacebookを使いこなしているし、友達もたくさんいる」などと浮かれている人はいないだろうか? 重要なのは、友達の数などではない。どういうネットワークのどういう位置にいるのかが重要なのだ。友達を増やして頑張るというのは「おちこぼれ相手の互助会ビジネス」の最下層に仲間入りしたいということと同義かもしれない。参加すべきネットワーク、つながるべき相手を慎重に選ばなければ、とんでもない落とし穴が待っている。もしも貴方がコミュニティに圧力を感じるならば、すぐにそのコミュニティを離れるべきだろう。

ソーシャルメディアの最大の欠点は、情報の断片化、コミュニティの断片化だと私は考えている。SNSでは好まない情報を容易に遮断できる。そして、限られたコミュニティの中だけが、その人の情報環境となる。それぞれのコミュニティで常識が逆転していることも珍しくはない現象だ。私たちは意識して「冗長な関係に埋もれたり、重すぎる関係になること」を避ける必要がある。最近では「つながり」という言葉が多用されているが、「つながり」を増やすことは売上や利益の増加を担保しない。それどころか、確実に時間とコスト、そしてストレスを増やす要因となる。コミュニェーションには適切な規模というものがある。それは、おおよそ150と言われる。これをダンバー数という。

巷には、ソーシャルメディア・マーケティングを販促プロモーションと考えているような人も未だ多い。多くの企業は、世界が経済ゲームから情報ゲームへとシフトしているということに気がついていない。重要なのは富や資本ではなく、ネットワークであり、コミュニティであるということに気がついていない。マーケティングにおいて重要なのは、メッセージを発信することではなく、多様なメッセージを深く傾聴し、読み解くことなのだ。これは個人でも同じことだ。ブログなどで情報発信をするよりも、ネット上の情報を収集し、分析し、考えることの方が遥かに重要だ。間違った情報、意味のない情報なら発信しない方がマシなのだ。

個人においても企業においても重要なこと。これは「他者と自分の関係を正しく認識し、制御し、活用できるか」という一点にかかってくる。そのためにはまず、分かりやすい自己イメージを保つことだ。そして、貴方が何者なのかを最も雄弁に語るのは、貴方の友達であるということは、最低限知っておく必要がある。貴方は、何のためにSNSに入っているのか。ビジネスがしたいのか、市民として発言したいのか、それとも特異な趣味の仲間と語りたいのか。私見だが、一つのSNSでこれら三つのニーズを満たすことは難しい。ありのまま、というわけには行かない。立ち位置を明確化することはとても重要だ。

どんなものにも光と影がある。長所と欠点がある。ソーシャルメディアでも同じだ。情報格差という問題もある。これはハード面だけではなくリテラシーについてもだ。また、ソーシャルメディア上の情報や繋がりは、コンピュータで簡単に解析できる。利用者は分類・整理され、評価、格付けされることを受け入れなければいけない。なに、みんながやってるから怖くない?

それにしても、大いなる自由の基盤がハイパー管理システムの上で実現されるとは皮肉なものだ。