最近、コミュニケーションスキルに関する話題が多い。企業が必要とする人材の最低限の条件だとも言われている。それにしても、なぜコミュニケーションの問題がクローズアップされているのか。あるいは何故、コミュニケーションに問題が生じているのか。これには人類史的な理由がある。今日はその辺りを簡単に解説したい。
まず、二つの大きな現象がある。
1.マスメディアの衰退
これによって社会全体での文脈(コンテクスト)の共有が難しくなった。
2.ソーシャルメディアの発達
コミュニティの異常増殖が発生。文脈、価値観が多様化した。
昔は、明らかに主導的な価値観があった。労働は美徳、頑張ることは素晴らしいなど、当然のように思われていた。また、長幼の序といった儒教的価値観も日本社会では当然のごとく受容されていた。マスメディアによる大衆操作も洗練されていて、事実上の権力である霞が関は、政治という劇場の演出と脚本を握りながら、国家を運営できた。もっとも、今やマスメディアの衰退によって、新たな利権を求めてあがいている多数の大企業があるわけだが。
また、昔は家庭と企業そしていくつかのサークルに属していれば安泰だった。同調圧力に流されていれば、制度に従ってそれなりの暮らしが出来た。未来はある意味で約束されていた。しかし、そういう時代は既に終わってしまった。もっとも、そういう幻想を持つ人は今も多い。そして、そのことがコミュニケーションを不能にする断絶の原因になっている。要するに、コミュニケーション不全とは、相互の文脈の違いであり、違いを理解しようとする努力、そして想像力の欠如なのである。
守旧派は今も力を持っている。そのため、コミュニケーションのとれない若者自体に問題があると決めつける。そして、コミュニケーション能力の向上を一方的に要求するし、最悪の場合、精神科医療という暗黒の領域に追いやり排除する。
しかし、若者は馬鹿ではない。ソーシャルネイティブ(青少年時代から、ソーシャルメディアを使いこなしていた世代)は実はコミュニケーション能力が高いのだ。それは多数のコミュニティ、多数の文化を経験し、プロトコル(作法)を器用に使い分けることを体で身に着けているからだ。彼らにかかれば、思い切り持ち上げておいて、心の中で軽蔑するなど、普通のことであって、そこには矛盾も不正義もなかったりする。非ソーシャルネィティブには理解できないだろうが、これはもう別の人種だと割り切るしかあるまい。
コミュニケーションは言語に限らない。ノンバーバルなものもあるし、今では、生放送で自室を見せるといった日常のバーチャル化も可能だ。そこには新しい生態系が次々と生まれている。
私は現状を問題ではなく現象として捉えている。国家のアイデンティティだとか、地域コミュニティだとか、家族の再生だとかを叫ぶつもりはない。ただ、現象を的確に捉えることで、状況が変化するということはある。
歴史的に見るならば、今は混乱して当然の時期だ。この混乱は、日本の場合あと50年近く続くだろう。すなわち、ほぼ全員がソーシャルネイティブになるまでということである。
こういう時代に大切なことは、他者の意見に振り回されないことだ。そして強い絆で結ばれた仲間を持つことだ。昔は家族があったが、今の家族には期待できない場合が少なくない。では、どうすれば強い自分を作れるのか。良い仲間と良い関係を築き、維持できるのか。それについては、私が教えて欲しい。よろしくお願いします。
この記事は昨年作成したものです。
なお、Ustreamでの対談(30分)もあります。
興味のある方は、是非ご覧ください。
http://www.ustream.tv/recorded/22501601
まず、二つの大きな現象がある。
1.マスメディアの衰退
これによって社会全体での文脈(コンテクスト)の共有が難しくなった。
2.ソーシャルメディアの発達
コミュニティの異常増殖が発生。文脈、価値観が多様化した。
昔は、明らかに主導的な価値観があった。労働は美徳、頑張ることは素晴らしいなど、当然のように思われていた。また、長幼の序といった儒教的価値観も日本社会では当然のごとく受容されていた。マスメディアによる大衆操作も洗練されていて、事実上の権力である霞が関は、政治という劇場の演出と脚本を握りながら、国家を運営できた。もっとも、今やマスメディアの衰退によって、新たな利権を求めてあがいている多数の大企業があるわけだが。
また、昔は家庭と企業そしていくつかのサークルに属していれば安泰だった。同調圧力に流されていれば、制度に従ってそれなりの暮らしが出来た。未来はある意味で約束されていた。しかし、そういう時代は既に終わってしまった。もっとも、そういう幻想を持つ人は今も多い。そして、そのことがコミュニケーションを不能にする断絶の原因になっている。要するに、コミュニケーション不全とは、相互の文脈の違いであり、違いを理解しようとする努力、そして想像力の欠如なのである。
守旧派は今も力を持っている。そのため、コミュニケーションのとれない若者自体に問題があると決めつける。そして、コミュニケーション能力の向上を一方的に要求するし、最悪の場合、精神科医療という暗黒の領域に追いやり排除する。
しかし、若者は馬鹿ではない。ソーシャルネイティブ(青少年時代から、ソーシャルメディアを使いこなしていた世代)は実はコミュニケーション能力が高いのだ。それは多数のコミュニティ、多数の文化を経験し、プロトコル(作法)を器用に使い分けることを体で身に着けているからだ。彼らにかかれば、思い切り持ち上げておいて、心の中で軽蔑するなど、普通のことであって、そこには矛盾も不正義もなかったりする。非ソーシャルネィティブには理解できないだろうが、これはもう別の人種だと割り切るしかあるまい。
コミュニケーションは言語に限らない。ノンバーバルなものもあるし、今では、生放送で自室を見せるといった日常のバーチャル化も可能だ。そこには新しい生態系が次々と生まれている。
私は現状を問題ではなく現象として捉えている。国家のアイデンティティだとか、地域コミュニティだとか、家族の再生だとかを叫ぶつもりはない。ただ、現象を的確に捉えることで、状況が変化するということはある。
歴史的に見るならば、今は混乱して当然の時期だ。この混乱は、日本の場合あと50年近く続くだろう。すなわち、ほぼ全員がソーシャルネイティブになるまでということである。
こういう時代に大切なことは、他者の意見に振り回されないことだ。そして強い絆で結ばれた仲間を持つことだ。昔は家族があったが、今の家族には期待できない場合が少なくない。では、どうすれば強い自分を作れるのか。良い仲間と良い関係を築き、維持できるのか。それについては、私が教えて欲しい。よろしくお願いします。
この記事は昨年作成したものです。
なお、Ustreamでの対談(30分)もあります。
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