この辺りに長く住んでいる友人の言葉を借りると、「オンとオフの切り替えがはっきりできる場所」らしい。この言葉は正しいと思う。できることなら、ずっとオフがいい。じゅうぶんなゆとりのあるオフなら、なおさらいい。
この辺りに長く住んでいる友人の言葉を借りると、「オンとオフの切り替えがはっきりできる場所」らしい。この言葉は正しいと思う。できることなら、ずっとオフがいい。じゅうぶんなゆとりのあるオフなら、なおさらいい。
たまプラーザを通る田園都市線は、朝は上り、夜は下りが混雑している。超満員と言ってもよいくらい、人が電車に乗って移動するキャパシティーの限界を超えている。ロンドンもパリもニューヨークも、通勤時間帯の電車は混雑している。ロンドンの地下鉄など、田園都市線並の詰め込みようだ。世界のあちこちで、人はがんばって生きているのだ。
新シリーズ、河を見に行く―たまプラーザ散歩が始ります。
子供のころ、大井町から二子玉川園まで電車が通っていて、僕はそれに乗って多摩川の河原まで土筆をとりにいった。やがてその路線は、川の対岸である神奈川県まで延びて、二子新地という駅が出来た。あれからおよそ50年、まさか二子新地のさらにずっと先の、たまプラーザなどという所に住むことになるとは夢にも思わなかった。
たまプラーザに住み始めて3カ月になる。気が向くままに写真を撮り始めたが、この地帯には何とも奇妙な建物が多いことに気づいた。火力発電所、浄水場、得体の知れない巨大な火の見やぐらのようなもの…。とにかく、変な街だ。
子供のころ、大井町から二子玉川園まで電車が通っていて、僕はそれに乗って多摩川の河原まで土筆をとりにいった。やがてその路線は、川の対岸である神奈川県まで延びて、二子新地という駅が出来た。あれからおよそ50年、まさか二子新地のさらにずっと先の、たまプラーザなどという所に住むことになるとは夢にも思わなかった。
たまプラーザに住み始めて3カ月になる。気が向くままに写真を撮り始めたが、この地帯には何とも奇妙な建物が多いことに気づいた。火力発電所、浄水場、得体の知れない巨大な火の見やぐらのようなもの…。とにかく、変な街だ。
昨夜は友人の誘いで久々に都響の定期演奏会に行った。チェコの指揮者、ヤクブ・フルシャのプリンシパル・ゲスト・コンダクター就任披露公演ということで、プログラムは以下のように指揮者の前向きな意欲が窺われる内容。
ドヴォルジャーク:序曲「フス教徒」 作品67
スメタナ:交響詩「ブラニーク」
マルティヌー:リディツェへの追悼
ヤナーチェク:グラゴル・ミサ
これだけ立て続けに中央ヨーロッパものを聞かされると、何だか喉が渇いてしまい、終演後には友人といささか高揚しながらアークヒルズの広場をまっすぐに駆け抜け、向かいの店に駆け込むとワインと生ハムでひと息ついた。
それにしても都響の演奏は良かった。木管・金管も表情豊かな好演ながら、何といっても中低域の弦のピッチが素晴らしく合っていて、スラブの作曲家特有のうねるような横揺れの音楽を十分に楽しむことができた。ただ、いわゆるスラブ特有の土臭さとは一味ちがう演奏で、これはオーケストラの所為というよりは、指揮者の解釈によるものだと思う。
日本のオーケストラの演奏会がこんなに楽しいなら、もっと頻繁に足を運びたいとつくづく思った。
演奏家は以下のとおり。(12月14日 都響 第708回定期演奏会 Bシリーズ サントリーホール)
指揮:ヤクブ・フルシャ
ソプラノ:アドリアナ・コフートコヴァー
アルト:ヤナ・シーコロヴァー
テノール:リハルト・サメク
バリトン:マルティン・グーバル
合唱:晋友会合唱団
ぜったいに有るはずがないと思いながら、昨日たまプラーザの有隣堂に行ったら、その本が棚に並んでいた!1,2巻あわせて8千円はちょっと高いと思いつつ、迷わず買ってしまった。
その本の書評が朝日新聞に載ったのは一昨日の日曜日、タイトルは「時代の熱と鼓動伝える壮大な物語」である。書評の書き出しはこんな感じだ。
『いわゆる西洋クラシック音楽の世界で「現代音楽」というと、調性から脱した新ウィーン楽派以降の音楽をなんとなくそう呼んできたわけだが、しかし、それは百年も前の話なのであって、いくらなんでも「現代」ではないだろう。一方で新ウィーン楽派と同時代ないしそれ以降も調性のある音楽は書かれ続け、では、それらは「現代音楽」ではないのかといわれると、違うともいいにくい。こうした曖昧(あいまい)さの原因は、二十世紀音楽の概念が全く明確でなかったからである。その意味で、西欧の二十世紀音楽の姿を、トータルな形で、明瞭な輪郭とともに描き出した本書は、まずは画期的といってよいだろう。』
この本のタイトルは「20世紀を語る音楽」、著者はアレックス・ロスでみすず書房から出版されている。まだ読み始めたばかりなのだが、上下2巻に分けられた大部の書き出しはじつにかっこいい。書評子の言葉を借りると、それはこんな風である。
『大量の資料を駆使して編まれた「物語」――一九〇六年五月一六日、リヒャルト・シュトラウスの指揮する《サロメ》を聴くべく、マーラー夫妻、ベルクら六人の弟子を引き連れたシェーンベルク、アドルフ・ヒトラー、そしてトーマス・マンの小説『ファウスト博士』の主人公、アードリアン・レーヴァーキューンといった人々が、グラーツの街で一堂に会する場面からはじまる壮大な「物語」は、二十世紀という時代の熱と鼓動をいきいきと伝えて魅力的だ。』
その本の書評が朝日新聞に載ったのは一昨日の日曜日、タイトルは「時代の熱と鼓動伝える壮大な物語」である。書評の書き出しはこんな感じだ。
『いわゆる西洋クラシック音楽の世界で「現代音楽」というと、調性から脱した新ウィーン楽派以降の音楽をなんとなくそう呼んできたわけだが、しかし、それは百年も前の話なのであって、いくらなんでも「現代」ではないだろう。一方で新ウィーン楽派と同時代ないしそれ以降も調性のある音楽は書かれ続け、では、それらは「現代音楽」ではないのかといわれると、違うともいいにくい。こうした曖昧(あいまい)さの原因は、二十世紀音楽の概念が全く明確でなかったからである。その意味で、西欧の二十世紀音楽の姿を、トータルな形で、明瞭な輪郭とともに描き出した本書は、まずは画期的といってよいだろう。』
この本のタイトルは「20世紀を語る音楽」、著者はアレックス・ロスでみすず書房から出版されている。まだ読み始めたばかりなのだが、上下2巻に分けられた大部の書き出しはじつにかっこいい。書評子の言葉を借りると、それはこんな風である。
『大量の資料を駆使して編まれた「物語」――一九〇六年五月一六日、リヒャルト・シュトラウスの指揮する《サロメ》を聴くべく、マーラー夫妻、ベルクら六人の弟子を引き連れたシェーンベルク、アドルフ・ヒトラー、そしてトーマス・マンの小説『ファウスト博士』の主人公、アードリアン・レーヴァーキューンといった人々が、グラーツの街で一堂に会する場面からはじまる壮大な「物語」は、二十世紀という時代の熱と鼓動をいきいきと伝えて魅力的だ。』