炎と水の物語 2013 Apprehensio ad Ignis et Aquarius.

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隠された地震 ・ 津波記録 日本海中部地震から25年

2008-05-26 | 人災社会学!
 大津波で百名を越える死者を出した、日本海中部地震地震から、今日で25年。被害増幅の背景を探ります.

 秋田では、この地震以前、日本海には津波はないと信じられていました。
私も小学校で、津波とは、太平洋側のリアス式海岸独特の波の増幅現象で、直線的な海岸の日本海側では、津波は発生しないと、社会科の授業で習ったのを鮮明に覚えています。そのエロ教師は、黒板にリアス式海岸の図を書き丁寧に解説していました。
 また、秋田では地震の時は、海岸に避難した方が安全だと教えられました.地震では、山や崖が崩れてくるので、海岸の方が安全だというのです。(彼は、女生徒に淫らな行為をすることで恐れられていましたが、当時は加害者が強く、被害者は泣き寝入りの状態で、私たちは、足もすくむ恐ろしさでした。)

 その手の防災教育は、当時、秋田県全体で行われてたようで、この地震の翌年の1984年の春から、若者、特に高校卒業者が、大挙として秋田を去る現象が始まりました。
 
 能力ある者が、こぞって県外に逃避する、若者の大流出がはじまったのです。こんな、教育を受けていたら命が持たないと、誰しも感じたのでしょう.
バブル経済の開始を告げる1985年9月22日の「プラザ合意」=(ドル大暴落)を待たず、若者の大量流出現象が発生し、それまで、増減を繰り替えしていた秋田県の人口は、以後、二度と増える事はありませんでした。

 さて、地震の前年、1982年に秋田県が出した『秋田県地震対策基礎調査報告書』には、中央の学者が、過去の地震の状況から、秋田県の海岸には津波の記録がないので、津波の心配はないと、何度も強調しています。これを書いたのは、地震古記録の権威、東京大学地震研究所の宇佐美龍夫氏であったようです。

 宇佐美龍夫氏は、松尾芭蕉の「奥の細道」(元禄十五年、1702年刊)で有名な出羽、象潟の風景を隆起、一変させた文化元年(1804年)の象潟地震について、震源地は鳥海山にあるとして、周辺地域の詳細な津波の被害記録を、ことごとく無視してしまいました。庄内地方から秋田の沿岸には、多くの津波被害の記録があるのですが、これを無き物として書き記しています.
 
 さらに、宇佐美龍夫氏は、その29年後の天保大飢饉の最中発生した天保四年十月二十六日(1833年)の庄内沖の大地震と、大津波の記録も、無視したようです。
この天保の大地震では、大津波が能登半島から男鹿半島に押し寄せ、実に多くの被害記録が各地に残っているのです。

 また、昭和39年(1964年)6月16日の新潟地震では、沿岸に4m以上の津波が押し寄せ、新潟市内では、地盤沈下地域に、津波が押し寄せ、地震とほぼ同時に爆発炎上した、昭和石油のタンクから漏れ出した石油が流入、パニックとなりました。津波は、秋田の男鹿半島~天王町にも来襲し、浸水、船の転覆・破損、防波堤の損傷などの被害をもたらしたが、「秋田には津波の記録がないので、津波の心配はない…」と再三、報告書にうたっています。

 なぜ、こんな嘘の報告書を創らなければならなかったのでしょうか?
当時、秋田県では、秋田市の沖合いを埋め立て、72ヘクタールの大工業用地造成が計画され、大王製紙が進出する予定でした.埋め立て工場用地が、津波や大地震に脆弱な事は、隠しようもないことですが、歴史的事実を何とか隠したかったのでしょう.宇佐美龍夫氏は、『秋田県地震対策基礎調査報告書』で、秋田では、津波の記録はないので、津波の心配はいらないと、再三、強調しています。

 それでは、津波の古記録は、本当に無かったのでしょうか?
いえいえ、実は地震当時、最も栄えた代表的な商家の文書に、鮮明にありありと記録されているのです。宇佐美龍夫氏は、あえてこの地域の代表的歴史資料さえ無視してしまったようです.歴史捏造のはしり、歴史の書き変えの元祖とも言える大先生です.さらに、沿岸の人たちはみんな知っている、新潟地震の津波さえ、無き事にしてしまったのは、やりすぎではないでしょうか?。。。。

 実は、その宇佐美 龍夫氏は、原子力発電所立地の基礎となる、各地の歴史地震記録をまとめる仕事もされていました。そのご成果『 新収日本地震史料 』( 電気協会刊 )も、実は間違いだらけです.
 古文書を読む能力が足りないのでしょうか、宇佐美龍夫氏の調査は、現地で日雇いアルバイトを集め、古文書の中に「地震」の二文字を探させる手法で行われていました.。宇佐美龍夫氏自身が、古文書を通読し、その文書全体を把握するという、当たり前のことすら怠った成果が、間違いだらけの『新収日本地震史料』に結実したようです。地震の起きた日付けが旧暦、新暦で入り乱れています。「史料」を名乗るに値するのでしょうか。。。。

 そうした「調査成果」?を元に、日本の各地の、原子力発電所が建てられているとすると、たいへん危険なことですが、事実、東京電力 柏崎原子力発電所を襲った、平成19年7月16日の中越沖地震では、発電所構内に甚大な被害を受け、未だに起動出来ない状態となっていますこと、皆様ご存知のとうりです……

 日本海中部地震の後、秋田県では、若年人口が大流出してしまい、以後、若者は戻って来ませんでした。
現在の秋田県は、日本一の自殺率、低出生率、高齢化率、ガン死亡率など、暗く憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ます状態に、陥ってしまいました。
 教育の偏向や歴史の書き換えが、地域に与えた影響の龍の如き恐ろしさを示す例とも言い得ましょう……
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11 コメント

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こんにちわ (ひなぎく)
2008-05-27 18:25:01
TBありがとうございます。

震災は忘れた頃にやってくると言いますが、忘れる暇がないくらい各地で立て続けに起きていますね。
耐震構造の建物だって、本当に地震が起きてみないことには分りませんもの。
とりあえず、逃げる準備をしておくのが大事かな、なんて思っています。
ひなぎくさん、ありがとうございます。 (yuzou)
2008-05-27 22:41:29
 最近、地震が多いですね。秋田沖には、震空白域があるそうですから、気をつけませう。
耐震構造でも、危ないのもあれば、古い建物でも、地盤がしっかりしていると、案外大丈夫だったりします.
何かしら心の準備はしときましょう。
TBありがとうございます (まさゆき)
2008-05-27 23:07:20
はじめまして、弊ブログへのトラバありがとうございました。

力作の文章を精力的に書いていらっしゃいますね~

確かに、日本海中部地震沖以前は、
三陸は津波が来るけど、日本海側は
やってくるはずがない、と思い込んでいました。

もし、あの地震時、たまたま秋田の海岸に
いたら、私も命を落としていたことでしょう...

これから、他のブログ記事も拝見します~
特殊な地震 (yuzou)
2008-05-28 15:11:26
まさゆきさん、コメントありがとうございます。
>もし、あの地震時、たまたま秋田の海岸に
いたら、私も命を落としていたことでしょう...

 実は、私も全く同じ思いでした。あの地震を東京の街角で知った時に、直感的にそう思いましたよ。背筋が冷たくなり、しばらく動けませんでました。
 あの地震の後、若者が大挙、秋田を去って戻らない理由も、そうした背景が有るのかもしれませんね。 かなり特殊な地震だったと思います。

まさゆきさん、至らぬ文章に目を通して頂きありがとうございます.文がヘタですので、おかしい所など、どうかご指摘ください.
コメントどうも (arube)
2008-05-29 20:44:25
こんにちわ

当方へのコメントありがとうございました。

津波の記録を無視した報告書が作成されていたとは知りませんでした。勉強になります。

原発の設置のため活断層が無いことにするという話は良く聞くのですが、企業誘致のため津波が来ないと偽装するとは・・・
arubeさん、コメント頂きありがとうございます。 (yuzou)
2008-05-30 00:02:22
問題の報告書『秋田県地震対策基礎調査報告書』1982年 は、県庁の県政資料室に有りますから、ご覧になってください.(まだ、置いてあると思いますが、ちょっと心配)

 報告書の偽装も幼稚です。新潟地震の津波に言及が全くないなど、赤子をだまくらかすような見え透いた文章が続いてます.
 地域が、衰退する理由が分かるような気がいたしますよ。とほほ…
TBありがとうございます (むらおさ)
2008-05-31 19:24:25
 人災社会学、実在の学問でしょうか? そうでないとしたら素晴らしいネーミングですね。
 そもそも天災とは、比較的長生きをし丈夫な居住物に定住するヒトという存在にのみ言えることなのかもしれません。 それ以外の生物にとっては、周期の長い自然現象の一つなのでしょう。
 
 人災という言葉は、主に天災に絡むヒトの所業の善し悪しで使われますが、地方から都会への若者流出なども、天災に関わらずとも立派な人災だと、私は考えています。 
 余計なことを述べましたが、今後とも宜しくお願いいたします。 
むらおささん、的確なコメントを頂き、ありがとうございます (yuzou)
2008-06-01 17:16:51
以前、災害社会学者とか名乗るお方がいて、日本海中部地震の後、秋田で地震時のデマの調査を行いました。が、その報告書には、事前の例のデマ=「日本海に津波なしデマ」は、全く記載されていませんでした。
宇佐美龍夫氏と同じ学校のヒトでした・・・・

 天保の大飢饉では、食料不足・食人の他、豪雨による洪水、伝染病、大地震、強力な津波も発生しました。その上、食料不足の最中に、役人が食料をまき上げる人災が、追い討ちをかけたました。

 秋田では、役人が米価格の高騰を期待して、収穫出来たわずかな米を供出させ、投機に失敗。農民にお金を支払いませんでした。一揆が発生し、餓死者が積み上げられた街道各地には、多くの塚が築かれ、土崎港では、暴動も発生しました. 地元の天保の飢饉研究者も、津波隠匿に関わっています.

 これから急速な気候温暖化が進むと言われていますが、世界各地で再び起こりうる事ではないかと思います.
東日本に通じるもの (リバティ)
2013-01-20 08:44:32
古里を岩手に持つものです。岩手では、特に若手の先生は最初に沿岸部に赴任することが多く、その経験を次の赴任地の学校で生徒に授業の合間にしていました。ですので内陸部出身の私でも、津波の怖さは聞いていたものです。さて東日本大震災ですが、被害拡大の一端に、経験の風化、津波への意識低下があったのは否めないと感じております。そこからふと30年前の秋田の地震のことを思い出しました。当時の報道ではそもそも津波への備えについての考え方が無い、というのが驚きでしたが、今になって思うと多少の経験があっても風化してしまうという点では同じだったなとしみじみ思います。 また、原発付近の活断層が問題になっていますが、例えば秋田付近が津波や地震にきわめて安全だという結論を出されたら、今の秋田の経済状況を踏まえると、原発立地へ大きく傾いていたかもしれない、そんなことも考えました。確かに太平洋側よりは比較的安心かもしれない、でもゼロではない、逆に意識が薄い分だけ、阪神の地震の時のように備えがおろそかになる・・・ 2年前、18年前、30年前、の貴重な経験を次の東海、東南海へどう生かせるか、東海地方で自衛隊に勤務しながら考えています。
狂教育アキタ (U-3)
2013-04-12 12:35:01
コメントありがとうごいます!!!
お返事遅れまして、ごめんなさい。

秋田では、かつて、原子力製鉄所の誘致をしようという、運動もありました。 「秋田市から男鹿市沿岸を埋め立てて、一大鉄鋼コンビナートを建設するという計画だったそうです。」が、過去の津波や大地震のことがバレルと、工場がやってこないので、「日本海には津波はない」ということに、なってしまいました。

 私も、小学校の地理の時間に、そう習いましたよ¥!! 本当に!

自衛隊の皆様の今回の地震での、有能ぶり、本当に敬服しています。私もボランテアで、三陸に行きましたが、橋や道路の復旧の早いことと、自衛隊の皆さんが、テント住まいで、復旧に取り組まれているの拝見して、敬服いたしました。
リバテイさん、ありがとうございました(^^)!
あれから30年ですね。 (一秋田県民)
2013-05-27 22:19:15
昨日は、日本海中部地震から満30年という節目の日でしたね。地震が起こったあの日、現在も住んでいる秋田県湯沢市におりました。天気のいい、晴れた日でした。当時、中学3年生で4時間目の理科の授業を受けていた時でした。間もなく正午になろうとしていたとき、自分の座っていた椅子がビリビリし始め、「んっ?なんだ?」と思っていると段々と理科室がグラグラし始め、理科室内が騒然となっていきました。間もなく「地震発生、至急グラウンドに非難してください!」という校内放送が流れ、授業を教えていた理科の先生の指示でグラウンドに非難しました。当時から住んでいた秋田県湯沢市は秋田県内陸部のため被害は少なかったようで、私らも地震がおさまったあとは授業を再開し、授業終了後に給食を食べながらテレビのニュースを見ていました。そのときに衝撃的なニュースが流れました。「秋田県沿岸に津波が発生し、男鹿市に遠足に来ていた小学生が津波にのまれた!」。私もそうだったんですが、一緒に給食を食べていた同級生達は、そのニュースを見てみんな驚きを隠せないようでした。そうしているうちに、津波にのまれた人の遺体が発見されたニュースが流れ、楽しいはずの給食が重苦しくなっていきました。時間・日にちがたつにつれ、徐々に被害が明らかになっていき、前述した津波にのまれて行方不明になっていた合川町立合川南小学校(現・北秋田市立合川小学校)の子供達は、全員遺体で発見されるという大変痛ましい最悪な事態になってしました。この津波は、他の方々もコメントしていますが、当時日本海で地震が起きても津波は来ないという誤った認識があったため、あれだけの被害に発展したと言われています。あの年、1983年は秋田県にとって悲しみのドン底に突き落とされた最悪な年でした。あの地震後、北海道南西沖地震・東日本大震災など、日本海中部地震と同様に大津波で多くの尊い人命が奪われる地震が発生していますが、日本海中部地震の教訓が生かされているかというと、そうとは言い難い気がします。東日本大震災の際も、あれだけの揺れの大きい地震だったのに、避難せず建物の中に留まって津波に巻き込まれて命を落としたり、自動車などの乗り物を使って避難しようとして自動車ごと津波にのまれてしまったり(それでも、なんとか助かった人はいますが。)、また行政の対応が後手になってたりと問題はありますね。さてあれから30年たち、当時中学3年生だった私も40代半ばになり、あの地震発生時に授業を教えてくれていた、大学を卒業したばかりの新米教師だった先生も、今は私の勤務する職場の近くの小学校の校長先生になり、現在もお世話になっております。30年なんていう時間は、あっという間だった気がします。しかし、私など以上に月日の流れを感じているのは、あの地震の遺族の方々でしょう。30年間、一日たりとも、地震のことも亡くなった家族のことも忘れたことはないと思います。特にそれを感じているのは、あの地震で犠牲になった合川南小学校の子供達の親御さんたちでしょう。考えてみれば、あの地震で犠牲になった小学生の皆さんは、ご存命だったら今年40・41才。年齢的に考えてみれば、夫婦の夫・妻として、また子供の父親・母親として、職場・地域では中堅という立場だったはず。また親御さんたちもおじいさん・おばあさんとして孫のことを可愛がっていたことと思います。昨日、県内地方テレビ局で放送された特別番組で、亡くなった子供さんのお話をしていた親御さんを見ていて、本当に目頭が熱くなってきました。突然あの地震で最愛の子供さんを亡くした親御さんのことを思うと、私達の想像を絶する辛さ・悲しみだったと思いますし、志半ばで幼い命を奪われなければなかった小学生だった子供さんたちは、どれほど無念だったことかと思います。今は、天国に旅立たれた小学生の皆さんを含めた全ての犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、今生きている私達達も、今一度あの地震の教訓を考えていくべきだと思います。犠牲者の皆さま、安からにお眠りください。そして天国から我々のことをお守りくださいますよう、お願い致します。

長文失礼致しました。

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