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2004年12月のスマトラ沖大地震。マグニチュード(M)9・1の同地震に伴うインド洋大津波でタイなどで20万人以上の死者が出た。
岩手県宮古市の田老地区(旧田老町)。1896年の明治三陸地震M8.5と1933年の昭和三陸地震M8.1で、壊滅的な大津波に襲われた。明治の時、最高15mの大津波には午後8時頃襲われ1800人近くが死亡、町は全壊した。次に、昭和の時には真夜中の2時、最大10mの津波で、人口1800人中、800人近くの死者を出して町は全壊した。この時には近くの大船渡市では最大28.7mの津波の記録が残っている。
これらの100年以上前からの津波被害を受け、万全の備えとして50年かけて作り上げた高さ10メートル、長さ2キロメートル以上の二重防潮堤。
東日本大震災の津波で、木っ端みじんに打ち砕かれた。
下の表にあるように、二重の堤で守られていた地区にも被害が生じてしまっている。
東電は2009年から津波による被害の再評価を進めていながら、結果的に3月11日の震災に間に合わなかった。2006年に国の耐震指針が改定されたのを受け、揺れに対する設備の耐震性の評価と対策を先に進め、津波対策は後回しになっていたためだ。
福島第1原発1~4号機は、約14メートルの津波で非常用発電機が水没しすべて使えなくなり、冷却機能が失われ、深刻な危機を招いた。同原発では原子炉建屋、タービン建屋がある主要建屋設置エリアと、海水ポンプが設置されている海側エリアのほぼ全域が浸水。浸水の深さは約4~5メートルに上った。
同原発1~4号機は海抜約10メートル、5、6号機は海抜約13メートルに設置されている。浜岡原発では約10メートルの砂丘が防波堤になるなどという小賢しい対策が役に立とうはずがない。
福島第1原発は、石の棺か、水の棺で、永遠に葬るのであろう。
岩手・釜石湾入り口の「世界最深」の防波堤を破壊した津波について、「時速1000キロ・メートルで飛行中のジャンボジェット250機分以上の運動量があった」と試算されている。
浜岡原発を復活させるときがあるのか。東海地震という直下型大地震の震源の真上に立つ原発の運転再開について、津波対策だけできればいいとも思えないが、津波対策のための防波堤、防潮堤建設と言っても並大抵ではないことを、タイ、釜石、田老地区が教えてくれている。
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「世界一深い防波堤」ギネス認定 釜石湾で市長に認定証
2010年9月28日 朝日新聞
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揺れる船の中で、石川佳織ギネス世界記録公式認定員(中央)からギネス認定証を受け取る野田武則市長(左)=釜石湾 |
釜石港湾口防波堤が世界最深の防波堤としてギネス世界記録に認定され、認定証贈呈セレモニーが27日、釜石湾であった。釜石市の観光船「はまゆり」を最深の位置に近い同防波堤南堤の付近に航行させ、ギネス世界記録公式認定員の石川佳織さんが野田武則釜石市長に認定証を手渡した。
湾口防波堤は1978年から31年の歳月と総事業費1215億円をかけ2009年3月に完成した。中央の開口部を含め延長1960メートル。南堤の開口部側付近が水深63メートルとなり、世界最深にあたる。
認定証を受け取った野田市長は「市民を津波から守る命の防波堤であり、湾内に静穏水域が生まれた。釜石港のすばらしさを発信していきたい」とあいさつした。認定証は全文英語のため、同市は近く和訳版をつくり、「はまゆり」内に掲示する方針だ。
世界一の防波堤 津波後
。総延長2.4キロ、高さ10メートルの世界にも類がない二重の壁は、半世紀近い年月を費やし築かれた。だが、下のように二重の砦はあっけなく砕かれ、街は流された。
明治(1896年)の大津波では1859人の死者・不明者を出し、浸水した平たん地で生き残ったのはわずか36人。昭和(1933年)の大津波では全被災地の3分の1に近い911人の命が奪われた。いつからか「津波田老」とまで呼ばれるようになる。
津波への恐れを、どこよりも感じ、高さ10メートルの二重の壁で十分に備えていたはずだった。それでも200人近い死者・不明者を出した。
ジャンボ機250機分の波、世界一の防波堤破壊
太平洋沿岸を襲った大津波は、世界有数の規模を誇る三陸海岸の防波堤を軒並み破壊した。
早稲田大学の柴山知也教授(海岸工学)が19日午後、本社機で上空から視察し、岩手・釜石湾入り口の「世界最深」の防波堤を破壊した津波について、「時速1000キロ・メートルで飛行中のジャンボジェット250機分以上の運動量があった」と試算した。
釜石湾の入り口に南北からせり出した防波堤は、全長約2キロ・メートル。地震前は海上に高さ約8メートル、厚さ約20メートルでそびえ、港湾を守っていた。しかし上空から見ると、北側の防波堤は約800メートルにわたり大きく崩落し、かろうじて残った部分が海面に虫食い状に残っていた。海面に出た部分には、残ったコンクリートブロックが様々な方を向いて崩れた姿をさらしていた。
防波堤は、最深63メートルの海底に東京ドームの7倍に当たる700万立方メートルの巨大なコンクリート塊を沈め、その上部にコンクリート壁が構築され、2009年に完成したばかりだった。
国土交通省によると、1896年(明治29年)の明治三陸地震(マグニチュード8・5)の揺れや津波に耐えられるように設計され、「世界最深」としてギネス記録に認定されていた。
大船渡港(岩手県大船渡市)にある巨大な湾口防波堤(全長約750メートル、水深約40メートル)も完全に崩壊し、水没していた。柴山教授は、「地震で破損した箇所に高い破壊力の津波がぶつかり、一気に崩壊した可能性がある。予想をはるかに超える威力だ」と指摘した。
防波堤内側の海岸沿いにある「最後の砦(とりで)」の防潮堤も多くがなぎ倒された。同県宮古市田老の高さ10メートルの巨大防潮堤(全長約2・5キロ)は、住民らから信頼感を込めて「万里の長城」と呼ばれていたが、津波はそれを乗り越え、集落をのみこみ大きな泥沼を作っていた。
同県山田町の防潮堤も50~60メートルにわたり激しく倒壊し、灰色の泥をかぶった町には漁船や家々が、がれきと一緒に転がっていた。
柴山教授は、「全国的に防災対策を作り直す必要がある」と唇をかんだ。(金子靖志)
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