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-サイキックの眼-

体罰とは。

2013-01-18 11:37:48 | サイキックの眼

   
   
体罰とは。
  
  
体罰が問題になることがあります。
「言うことを聞けないヤツには、カラダでおぼえさせなければならぬ」
 
体罰。
カラダにバツを与える。
 
罰を受けた。としたら。
その先にどのような目的を達成できるのか?。
 
罰を与えて、褒めましょう。・・・!!!?。
なんか・・タチの悪い共依存的関係・・でしょうか?。
  
   
体罰とは何か?。
 
教育・スポーツの鍛錬。家庭内虐待。そして戦争。
 
単純に言うと「チカラ関係」です。
では何故チカラ関係が?。
 
深く端的に言うと、『チカラで相手をコントロールしたい』のです。
 
では何故に相手をコントロールしたいのか?。
それは『自分の弱さ』が原因となるのでしょう。
 
   
コントロールされて生きている人は、
他者をコントロールします。
学校の教師はこれにあたります。
それに戦時中の社会はすべてがこれです。
 
コントロールから脱するのは難しい。
コントロールされている方が楽な人もいます。
戦時中のコントロールでは、沢山の人が体罰を受け⇒相手国民も体罰します。そして沢山の人が死にました。
そして敗戦後の日本は、コントロールもとがアメリカに代わりました。
皇居からディズニーランドに・・・?。
 
 
コントロールの渦の中から脱することは難しいです。
何故なら・・本当の一匹オオカミになるからです。
自己鍛錬と自己技術を磨きあげる精神と孤独が不可欠です。
そしてこれを成せる人には、自ずと人に対する『愛』が備わっています。
教育などで学ぶ前から備わっているのです。
 
   
おわかりでしょうか?。
つまり、体罰とは。
体罰に至る行為というのは、その場の人間の許容量がもうイッパイ・イッパイなのです。
コントロール関係が崩壊寸前になると『体罰』という行為がなされる訳です。
何故?コントロール体罰が止まらないのか?
それはその人もコントロールされているからです。
コントロールによって、精神と感情が崩壊しているのです。
 
本当に技量のある人は「体罰」はしません。
精神と孤独が自立している人は、人をコントロールしません。
ただ、その自己鍛錬の背中を見せるだけで、後は見守るのみです。
自分を信じている人は、人を信頼する強さがあります。
責任を取ることの出来る技量のある人は「体罰」はしません。
 
 
   
ある方のカウンセリング依頼のケース。
サッカーが得意とする中学男子をもつ親御さん。
カウンセリング依頼の本題は他にあったのですが、息子さんの悩み解消にも触れたのです。
勉強は・・あまり得意ではないようなのですが(笑)、クラスメイトにも人気がある素直な性格です。
サッカーの地域クラブにも通っていて、中学校でもクラブ活動しています。ですが・・中学校ではレギュラーに選ばれないそうです。同級生はみな「どうして?」と思うほどの上手さはあるようなのです。
確かにチーム性をこなす余裕はマダマダないようなので、顧問の先生の判断も解らなくはないのです。
素直な良い性格なのですが・・、集団社会では「我儘で自我が強い」と解釈されるのでしょう。
勿論、この男子の色んな経験不足があるのは否めません、まだまだこれからです。
しかし僕は、彼の良い所は伸ばしてあげたい。
 
同級生チームメイトも認める彼のサッカーがどうして認められないのか?。
僕の答えはこうです。
「顧問の先生が、自分の想い通りに動く生徒だけを選ぶ傾向がある」
つまりコントロールしやすい生徒です。
悪く言うと・・自我の薄い子をレギュラーにするのです。(失礼)
 
何が何でもレギュラー入りをすることを薦めるカウンセリングはしませんでした。より上手くサッカーが出来るようになる可能性が、いま居る環境では無理そうだったのです。
それよりも中学生の彼に今一番必要なのは
『社会でどんな判断をされても、その人を馬鹿にせず、ひたすら自分を信じ技能を磨くこと』
そう伝えました。
 
 
『体罰』について紐解いてきましたが・・
体罰もコントロールも無責任です。
コントロール社会の中で利益を得る欲にすぎません。
それを脱し結果を出すには、それを上回る努力と精神が必要です。
スタートラインは、常に自分の弱さを見つめ認める作業が不可欠です。
 
実力です。
実力を持って下さい。
そして、その実力は説得力が備わります。
それが愛情です。
      
『虐待とは、感情の押し付けで。
 体罰とは、精神の押し付けです。』
   
   
サイキック  山本 浩二
    
   
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