LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

体裁第一主義のニッポン!

2013-01-04 07:04:51 | サイキックの眼

      
   
体裁第一主義のニッポン!
      
    
そしてもうヒトツのタイトル
「不体裁も第一主義のニッポン!」
  
  
【体裁】とは、人に気にいられるような振る舞いや言葉、他人の目にうつる自分の姿・外見・形式。
【不体裁】とは、恰好の悪いこと。外聞の悪いこと。
  
調べてみるとこうなのです・・。
 
僕のサイキック(透視)の眼から人を視た時には、体裁も不体裁も存在しません。
なぜなら、ありのままの姿が在るからなのです。
  
  
「体裁」と「不体裁」は対義語にあらず。
 
体裁も不体裁も同じことです。
たてまえが良い・たてまえが悪い。
どちらにせよ本当の自分、本心(本質)ではないので同じです。
 
   
病気・疾患・憂と鬱。
人間関係・心身衰弱。
様々な症状・現状をカウンセリングし、完治してきました。
しかしその元凶のヒトツ・・。
いえ・・。
大きな要因として、「体裁と不体裁に対する、本心(本質)とのギャップ」
これが言えます。
 
クライアントさんの話しでは、会社の同僚にも鬱の人がいっぱい居ると聞きます。
或いは・・鬱を克服し、社会復帰を果たす為のトレーニングをするセミナーなどもあるとか。
僕は・・なんて無駄な事をするのかと、不思議な想い・苦しい思いを抱きます。
つまり体裁社会でうまく生きていけるようコントロールするセミナーということになります。
本当の自分、本心との差がひらく訳なので、更に鬱になるどころか・・セミナーから得た虚偽の達成感?のせいで、鬱状態にまして・・いずれ躁状態がふえて、「躁鬱」になるでしょう。
 
肝心要なのは「本当の気持ち」です。
 
   
たてまえ・体裁主義は社会のみに在らず。
それで言うなれば何処の国もあることです。
実を言うと今回の一番の本題は
『体裁第一主義の日本人家族の情けない現状』
これが主題です。
 
「体裁悪けりゃ我が子も捨てる」
 
情けない現実です。
体裁ありきで出来上がった日本社会。
その体裁たてまえ社会を維持することが社会活動であり一般社会の成り立ちですが、それが・・各々の家庭内の環境もズタズタです。
家庭内も体裁ありきとなっているので、体裁の悪い・不体裁とされる家族には居場所がありません。
居場所を用意してもらえない。
笑い話でよくある、会社では窓際族・家にも居場所が無い。なんて冗談なら良いですけど・・、実際笑えない家庭が多い。
日本のしきたりなども・・僕には許せないものが多い。
みんな、どの人も同じ魂があり、喜怒哀楽を感じる心身精神がある。
そして何よりも誰でも自分にしか出来ない事がある。
必ずあります。
 
   
第二次世界大戦・戦後の事。
旧満州からシベリア抑留され、過酷な極寒労働を強いられた人の中に、生きのびることが出来る人と・・そうでない人がいたそうです。
その理由とは、日本に帰国しても実家に居場所のある長男と、そうでない次男との境遇に命の差があったそうです。
返る実家がある長男には生きる希望があったということです。
京都・舞鶴の「舞鶴引揚記念館」に訪れたおり、語り部ボランティアのお爺さんに説明して貰って知りました。
質問も沢山しました。
2時間以上マンツーマンで色々と教えて戴いて、「こんなに長く話しを聞いてくれた人は初めてですよ」、そう言われました。
元々、満蒙開拓団に参加して大陸に渡った人の多くは、家庭内に居場所を持てない親族の決まりから、他国の土地を奪う国政を利用し、実家と国を出るしか方法の無い人々だった。
ですが国政の宣伝文句は「自由な新天地」と謳っていたでしょう。
「舞鶴引揚記念館」のある場所は、引き揚げ船がついた旧港で、あたりは今は公園になっている。
日本海に面したその公園には繰り返しエンドレスで「岸壁の母」の唄がスピーカーから流されていた。
僕はこの「岸壁の母」の歌唱が・・体裁なのか?と、ひねくれた捉え方をしました。
体裁第一主義の日本人風習の恥部を覆い隠して、美化する歌のように聞こえてしまいました・・・。
 
 
敗戦後。
日本の狭苦しい風習をぬぐうことを敗戦から得ることができて、アメリカの風習を取り入れることを行いました。
(現在、戦争当時の天皇制からディズニーランドへと改宗。)
 
そして高度成長期。
誰でも自分の労力で、誰にも遠慮なく自分の好きな土地と人生を手にすることができるようになる。
もう親族に追い出されることもない、本当の生きる自由?。
 
しかし、たてまえ体裁第一主義の日本人気質は全く変わらず。
経済が順調な時は見栄えのいいモノですが・・、不景気になれば戦時中と同じになります。
一時的に自由を得た時代があり、誰も文句を言わなかっただけであり、社会体裁と現実は変わっていません。
体裁さえ良ければいいという冷たさは健在です。
なぜ健在か?と言うと、体裁に勝る価値観・感情が成長していないからです。
 
   
A 「体裁が良い」ことには気分が良く?、なぜかホッとするでしょう?。
B 実力で勝ち得た人の姿を見た時、熱くなるでしょう?。
AとB、どちらも感情です。
 
なにも体裁をとることを撲滅しようとは言ってはいませんし。
不体裁になれとも言いません。
違います。
そうではなく、
自分の価値観を磨いてほしいんです。
踏ん張って!愛ある価値観を育ててほしい。
虚偽の社会体裁・たてまえに惑わされないでほしい。
実力を磨いてほしい。
 
本当の自分の価値観とはなにかを考えてみて下さい。
体裁・不体裁に負けないで下さい。
ありのままの自分で良いんです。
 
体裁ほど無責任なモノはありませんから!!。
   
   
サイキック 山本 浩二
    
   
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