田舎医者ボヴァリーの美しい妻エマが、凡庸な夫との単調な生活に死ぬほど退屈し、生まれつきの恋を恋する空想癖から、情熱にかられて虚栄と不倫を重ね、ついに身を滅ぼすにいたる悲劇。厳正な客観描写をもって分析表現し、リアリズム文学の旗印となった名作である。本書が風速壊乱のかどで起訴され、法廷に立った作者が「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったのは、あまりに有名である。
フランスの写実主義文学を代表する作家、ギュスターヴ・フローベールの作品。
生島遼一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)
不倫の果てに身の破滅を招く女性を描いた作品と聞いて、正直読む前はどの程度楽しめるのか、不安な部分もあった。
だが、読んでみると、これが予想以上におもしろい内容だったので驚いている。
なるほど100年以上の長きに渡り読み続けられるわけだと変に納得してしまう。
おもしろく感じた最たる要因は、やはり主人公のエマ・ボヴァリーのキャラクターに尽きるだろう。
エマという女性は空想癖のあるロマンチストだ。
結婚しても恋に恋するところがあり、退屈な日常を許容できない。加えて派手好きな部分もあり、金銭を浪費する。
その人物像はリアルそのものだ。それもこれもエマの心理を丁寧に追っているから、そう感じられたのだろう。
たとえば、エマは最終的に不倫に走るが、彼女だって最初からそんな行動をとろうと思ったわけではない。
最初の方は飽きっぽい性格ゆえ、単調な毎日に嫌気が差し、熱情に憧れているだけでしかない。
すてきな男性に出会い、彼らと恋に落ちたらどうだろう、と空想する姿はエマのキャラクターからすれば変でもないと思う。それに夫の醜さに嫌気も覚えるのも、そんなにめずらしいことでもないと思う。
だが、ロドルフという行動的な男の登場で、彼女は実際に不倫の道へと踏み出してしまう。
そしてそこから自身の派手好きのために破産に至る流れが手にとるように伝わってくるのだ。
すべての流れには無理がなく、丹念であるだけに恐ろしく説得力がある。
その的確な描出力には感嘆とするばかりだ。
しかし、ロドルフにしろ、レオンにしろ、仮にエマが実際に彼らと結婚したとき、彼女はいつまで彼らを愛せただろう。結構すぐに破たんしたんじゃないかな、と僕としては思うのだ。
彼女は恋に恋しているだけである。
だから彼女は、不倫という隠れて行なう恋愛でなかったら、彼らをそこまで愛せたかは疑問だと思う。
彼女が求めたのは結局、男(恋愛)にしろ、お金にしろ、派手さだったのではないか、と僕には見えてならない。
それを愚かだと断じるのは簡単なのだろう。
しかし愚かと一言で終わらせるわけにはいかない力強さとリアリティがこの作品には漂っている。
それがいまになってもこの作品が評価される所以なのだろうとつくづく思い知らされた。
ところで同じ男ということもあってか、夫であるシャルルのキャラクターが僕の中では強く印象に残った。
彼は妻に裏切られるのだが、彼に落ち度があるかと言ったら、そういうわけでもない。
実際、彼は妻のことを愛しているし、思いやりを持った行動をとっている。こういう男性を求める女性もいるのだろう。
しかし彼は、エマが求めるタイプの男ではなかった。
彼に罪があったとしたら、それは平凡すぎたということなのだろう。
言うなればエマとの相性が悪かったと言えるのかもしれない。
派手好きな彼と、鈍感でエマが求めるような過剰な情熱を持ち合わせていないシャルルと方向性が違うのは明らかだ。
とはいえ、それだけで片付けるにはやはりラストは哀れすぎる。
人の出会いというもののふしぎを、シャルルというキャラを通して考えさせられた次第だ。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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