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戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか――。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み。
出版社:新潮社(新潮新書)
一つのできごとにおいて、それが起こったという事実は唯一だが、その事実の解釈はときに複数となる。
歴史は、特にそれが顕著だ。たとえば近現代史など、イデオロギーというフィルターのために、資料の捉え方、意図しない誤読等から、複数の説が生まれがちである。
数十万人逆説説から、虐殺否定説まである、南京事件など、わかりやすい例ではないか。
何でこんな抽象的なことを最初に書いたかと言うと、『ゴーマニズム宣言』で、この本が否定されていたことを、読み終わった後で思い出したからである。
そこで、どのような批判がされていたかをざっくり語るなら、著者はちゃんと資料が読めていない、反日本軍、新米という視点で書かれた、教養コンプレックスの大衆向けに書かれた本でしかない、っていったところか。
『SAPIO』でそのときの章を読んだとき、僕は実物を読んでいなかった。
なので、ああ、資料がちゃんと調べずに書いている人もいるな、としか思わなかった。
だが、実物の本書を読んでみると、何が資料を精査していないゆえの意見なのか、資料の捉え方が異なるがゆえの意見なのか、素人ではまったくわからない。
確かに著者は、東條と軍部を嫌っていて、少し思考が偏っているよな、と思う場面はあった。原爆はある意味仕方ないと語る部分は、そんなこと言って大丈夫か、とも思った。
だがどんな作品でも、一つ以上は何かしら違和感があるので、そういうものは読んでも、流してしまう。
そういった違和感は、実は資料が読めていないからですよ、と言われたら、素人の僕はどうしていいのかわからない。
どんな批判精神があっても、知識がなければ、書いてある内容を受け入れるしかないという限界がある。
この本を読んだ後、『ゴーマニズム宣言』を読み返した。いくつかの否定的な意見は小林の言う通りである。
だが『ゴー宣』の意見にもいくらかの疑問がないわけではない。
少なくとも、僕は日本軍のメカニズムにいくらかの問題があったこと自体は事実だと思う。対処療法的に軍部が行動を起こしていたとも思う。
軍部憎しの視点がそこにあるかもしれないが、いくつかはそうとしか見えないこともまた事実ではないか。
また、なぜ戦争の終着点を決めていなかったのかという問題点を照射している点も、僕は正しいと個人的には思っている。
それを蛸壺史観というなら、それはその通りだろう。そこは否定しない。
しかし蛸壺の中でしか見えない風景も、僕はあると思う。
以上の点により、僕は全面的ではないが、この本を評価する次第だ。
それにこれは個人的に、一番大事なことなのだが、はっきり言って、内容が読んでいておもしろいのだ。
本書はリーダビリティに優れ、著者なりの歴史感をわかりやすく解説しており、読ませる力がある。
意見の合う、合わないはあるかもしれないが、そのおもしろさは充分評価に値する。
大体、『ゴーマニズム宣言』だって、合わない部分も多いけれど、合う部分もあるし、何よりおもしろいから、僕は読むし、すなおに評価するのだ。
だが、近現代史でそういう意見を言ってはいけない雰囲気があるように見える。
近現代史は、正しいとか、正しくないとか、自虐だとか、自慰史観とか、いろんな意見が出すぎている。
それは何か窮屈で、正直鬱陶しい。
いろんな意見がある。何を信じればさっぱりわからないけれど、とりあえず戦争時の日本は良い側面も、悪い側面もあり、いろんな人のいろんな意見があった。そして戦争は基本的に悪である。
そこを押さえた上で、どれどれの本はおもしろかったで終わらせてはダメなのだろうか。
とりあえず僕はこの本を読んで、もう少し近現代史を勉強したいな、と思った。
そう本書は思わせる力がある。そしてその本の持つ力を僕は賞賛するのである。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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