さとりを得ても、なお道を求めて歩みつづけたゴータマ・ブッダ(釈迦)。信仰の対象として神格化され、堂奥深く祀られていたブッダを、著者は永遠の求道者、人間ブッダとして把え、仏教を「道」の体系として究明することを提唱した。「われわれ一人残らず求道者となり、真実の自己たれ」と説くブッダの思想と行動は、価値観の多様化に悩み、既存の思惟方法に戸惑うわれわれの生きる指標となるであろう。
出版社:講談社(講談社学術文庫)
『聖☆おにいさん』なんかを読んでいると、建前上は仏教徒なのに、自分は釈迦のことって結構知らないのだな、ということを気付かされる。
だがきっとそういう人は多いのだろう。
そんな初心者に、本書は少しばかり難解だと感じた。
実際、専門知識がないとついていけない部分もいくつかはある。
しかし何となくの雰囲気は伝わり、釈迦こと仏陀の生涯とその思想について雰囲気だけはつかめたような気がする。
そういう点、良書なのかもしれない。
仏陀の生涯については基礎的なことしか知らない。
そのためその思想の根本には、ヒンドゥー教の考えがあると知って、目から鱗であった。
インド生まれだから、当然ではあるけれど、普通に仏教に触れていると、こういう点にはなかなか気付かないものである。
ヒンドゥーと言えば、ブラフマンとアートマンだが、仏陀はアートマンの絶対性を自己と同一視してはいけないと語っている。
そこから無我の思想が導き出されたと教えられると、ああ、そういう流れなのだな、と気づかされなかなかおもしろい。
そのほかにも、知らないことが多くて、大いに勉強になった。
しかし仏教は、こうして読んでみると、諦めの思想なのだな、ということを感じる。
四諦の方ではなく、本当の意味での諦めだ。
人生は生老病死などの苦悩に満ちているが、暗い面ばかりを見ても仕様がない。
苦悩に捕らわれずにいれば、ニルヴァーナ(僕は平安と解釈した)の境地に至れる。
仏教教義を僕はそのように受け取った。
だがその思想を平たく言うならば、暗い面から目をそらしなさいと言っているようにも見えるのである。それが僕の感じた諦めの意味だ。
仏陀はシャカ族が滅ぼされるとき、攻め込んでくる王を説得し、その都度王を撤退させている。しかし四回目にして、その説得も諦めている。
何で? と僕としては思うのだが、それは、仏陀の思想の根本にある諦めの境地が悪い方向に出たためと、僕には見える。
しかし仏陀の思想には、目を引くものも多いことは事実だ。
特に『ダンマパダ』と『スッタニパータ』をおもしろく読んだ。
他の人びとの過失や、他の人びとのしたこととしなかったことを見ることなく、ただ自分のしたこととしなかったことを見るべきである。
戦場で百万人に勝つよりも、一人の自己に勝つ者こそ、最上の戦勝者である。
自分にとってよくないことや、ためにならないことがらは、行いやすい。それに反して、ためになり、しかもよいことがらは、最も行いがたい。
同伴者たちの中にいると、遊戯と娯楽がある。また子どもたちへの情愛は広大である。愛しい者と別れることを厭いつつ、犀の角のように独り歩め。
見えるものでも見えないものでも、遠くにあるものでも近くにあるものでも、すでに生まれたものでもやがて生まれるものでも、すべての生けるものは幸福であれ。
そのことによって“わたしはすぐれている”と思ってはならぬ。また“わたしは劣っている”とか、あるいは“わたしは同等である”と思ってもならぬ。種々様々の質問を受けても、自分の高慢を思いめぐらさぬ者として過ごせ。
人は過去を追ってはならぬ。未来を願ってはならぬ。およそ、過ぎ去ったものは、すでに捨てられており、また未来はまだやって来ていない。
そこで知者は現在のことがらをいたるところで正しく観察し、揺がず動かずして、それを修習すべきである。
このあたりが個人的には感銘を受けた。
どれも仏陀のものの見方がうかがえておもしろい。
ともあれ、近しいようでなかなか知る機会のない仏陀とその思想について思いを馳せることのできる一冊であった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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