私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

「カポーティ」

2006-10-17 21:55:24 | 映画(か行)


2005年度作品。アメリカ映画。
1959年、作家として名声を獲得していたトルーマン・カポーティは、カンザス州で起きた一家惨殺事件に興味を持つ。カポーティは綿密な取材を開始、やがて彼の中で「冷血」の構想が生まれるが……。「冷血」の執筆過程を映画化。
監督はベネット・ミラー。
出演は「25時」「M:i:III」のフィリップ・シーモア・ホフマン。本作でアカデミー賞主演男優賞受賞。「マルコヴィッチの穴」「ザ・インタープリター」のキャサリン・キーナー ら。


鑑賞前に「冷血」を読んだのだが、本の方で意識的に存在が排除していた作者の姿がここではクローズアップされている。

カンザス州で起きた事件に興味を持ち、その取材を重ねるカポーティ。その過程でこの作品が傑作になる手応えを感じるのだが、それが完成するには犯人が死刑になることが絶対条件だ。
だが、カポーティ自体は取材の過程で、その犯人であるペリーと自分とが似ている(彼流に言えば表から出るか、裏口から世界に出たかの違いでしかない)ということに気付いてしまう。映画の内容をまとめるとそういう形になる。

ここで大事なのは、作家トルーマン・カポーティと、人間トルーマン・カポーティの葛藤という構図だ。
作家としての彼はペリーの死刑を望んでいるわけで作品のために弁護士を探してほしいという頼みを無視することも辞さない。しかし人間としての彼は自分と似たものを持ち、自分を信頼し、頼ってくる犯人を無視することができない。
最後、犯人は当然の如く、死刑に処される。それに対し、友人のハーパー・リーはカポーティに向かって、あなたはペリーを救いたくはなかったというニュアンスのことを言う。だが、果たしてそれは真実だろうか。それはハーパー・リーが作家だから出てくる言葉なのではないだろうか。
カポーティにとっては救いたいという気持ちも、救いたくないという気持ちも真実だったはずだ。ただ折り合いの付け所が見つからなかっただけのことでしかない。それだけにカポーティの苦しく重々しい感情が明確に伝わってくる。

カポーティはペリーの死後、長編小説が書けなくなってしまう。つまりは作家としての彼が、人間としての感情に屈したということになる。
そう考えるとどこか苦々しい。彼は作家として天賦の才があったかもしれない。だが、その才にまかせて、作家稼業を走り続けるにはあまりに繊細に過ぎたのだろう。「冷血」という作品は繊細な彼には選ぶテーマが悪すぎた作品なのかもしれない。見た後にそんなことを思った。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

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