![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/58/cedab08d41f73c739ae3e996f5febaea.jpg)
夢と現実のあわいに浮び上る「迷宮」としての世界を描いて、二十世紀文学の最先端に位置するボルヘス(一八九九‐一九八六)。本書は、東西古今の伝説、神話、哲学を題材として精緻に織りなされた彼の処女短篇集。「バベルの図書館」「円環の廃墟」などの代表作を含む。
鼓直 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)
以前本作を読んだときにも感じたが、ボルヘスの作品はどうも僕の趣味ではないらしい。
それはお話を楽しむというよりも、知的遊戯を楽しむ、って感じの作品が多いからだ。
僕が読みたいのは物語そのものであり、堅固に構築された物語の設定ではない。
だから難解ということ以上に、作品そのものになじめなかった。
しかしそこで描かれる発想は鮮やかであり、目を見張るものがある。
好悪はともかく、その点は否定できないのだ。
特に『八岐の園』の各作品は、その傾向が強かったと思う。
たとえば有名な『バベルの図書館』。
いろいろ書いてあるが、特に正書法の記号に関するところを興味深く読んだ。
アルファベットは二十数個の文字なわけで、それをでたらめに羅列していけば、偶然にも一つの文章ができることもある。その数学的な発想がおもしろい。
そしてその中からは意味のある物語が生まれることもある。
だから図書館に、あらゆる物語が含まれるというのは、ある種の自明なことだろう。
しかしそれを発想できるという点が、すばらしいのだ。
その知的な思考ゲームの側面に心を奪われた。
『バビロニアのくじ』もおもしろい発想だ。
くじは、金銭を得るための、偶然性の遊戯でしかない。
それがどんどん人間の行動を左右するようになる、ってところがすばらしい。
しかしそうなることで、どんどんくじの存在が強まるか、と言ったらそうではなく、逆にくじとそのくじを扱う講社の存在が、どんどんとぼやけていくところは深く感心した。
オチもいかにも人を食ったような、茶目っけがあり、印象的である。
『記憶の人、フネス』には、居心地の悪ささえ覚える。
この作品で、僕の心を奪ったのは、数字の数え方を別の言葉に置き換えるところだ。
七千十三のかわりにマクシモ・ペレスと言うところや、三時十四分と三時十五分の犬が同一の名前を持つことに対する違和感などは、よく考えつくものだとつくづく思う。
そこにあるのは、人間社会で前提となっている約束事の否定なのだろう。
犬はどんなものであれ、犬であるとか、七千十三は、あくまで七千十三と呼ぶべきだという、前提で人間社会は成り立っている。言うなればお決まりの記号だ。
そういった記号を、人は自然に受け入れるものだけど、たしかに冷静に考えたら、必ずしも自明とは言いがたい。
その微妙な矛盾を見事についている。
ほかにも目を引く作品は多い。
『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』
架空の物語が現実に左右していくという様の不可思議さがおもしろい。
虚実がないまぜになっていて、その微妙な居心地の悪さは忘れがたい。
『円環の廃墟』
まさに円環の廃墟と呼ぶにふさわしい作品。
想像力によって、人を創造してみるけれど、そうして想像(創造)した人間を想像(創造)した自分も、また想像(創造)された存在でしかない。
その円環構造と、ある種の虚無な雰囲気が、廃墟の舞台設定とよく合っている。
『ハーバート・クエイン作品の検討』
『エイプリル・マーチ』なんか、読んだら混乱しそうだけど、刺激的な考えだ。
また『秘密の鏡』は、円城塔の『道化師の蝶』にも通じるところがあり、興味を引いた。
『八岐の園』
数多くの現実的な選択から生まれた分岐を、小説の中ですべて再現するという発想はすてきだ。
その哲学的なテーマ性と共に、オチの利いた展開はすなおに楽しめた。
『隠れた奇跡』
最後に与えられた一年を彼は幸福に思ったのだろうか、と個人的には思う。
僕ならたとえやりたいことがあったとしても、この状況は耐えられそうにない。
彼だってせっかく完璧なものにした戯曲を公表できないことに、絶望を感じなかったか疑問。
それはそれとしてSF的な発想は鮮やかだ。
『南部』
一つの偶然の悲劇から虚脱気味になる男の心理がおもしろい。
実存が心の中から存在を失い、死に近接していく心理を映しているように見える。
その虚無に満ちた雰囲気が心に残る。
全体的に、物語のおもしろさを追求しがちな僕から見ると、必ずしもすなおに楽しめたとは言いがたい。たぶん、人によって好き嫌いははっきり分かれるのだろう。
それでも読めば、いろいろ心に残る。
ボルヘスの作品はそんな作品であるらしいと感じた次第だ。
評価:★★★(満点は★★★★★)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます