超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

オウム帝国の正体 闇に葬られた警察情報 1

2008-01-08 21:36:28 | 公案公案
 女がひとり、泣いていた。

 1983年。その女性は関東地方のある町で暮らしていた。

 厳格で真面目な仕事人間である父親。優しく控えめな性格ながら、シンの強さを持っている母親。そんな典型的な中流家庭に育った女性は、地方都市ではよく見られるように、家柄や学歴、父親の職業に対する信頼度、地域社会における評価などから、学校や周囲の推薦もあって、その地方でも規律が厳しいことで知られる団体に就職した。父親がその団体の関係者であったことも影響したのは間違いない。

 その団体は全国組繊で、本拠地が東京にある。女性が勤めたのは、その県の中心都市にある本部であった。

 職場では総務畑に属し、さまざまな事務処理を担当したほか、本部の上層部である上司の秘書的な仕事も任せられた。

 明るく素直な性格や、スリムで都会的な容姿、のびのびと健康的な色気を感じさせる肢体は、圧倒的に男性が多い職場ではかなり目立ったようである。

 元同僚の一人は、こう話す。

「とにかく明るくて、我々がからかうと、頬をポーッと染めるような純情な女の子でした。何一つ不自由なく育ったせいか、ややひ弱で、他人に甘えるところもありましたが、そこがまた可愛らしくて、『俗世間の荒波から守ってあげたい』と思わせるところがありましたね。男性からも女性からも“職場のマスコットガール”として、大変な人気でした」

 数年後、職場の先輩からの紹介で同じ団体に勤める“明朗快活で前途有為な青年”と見合いし、半年程度の交際期間を経て婚約……という、これまた、お決まりの「幸せコース」を辿った。

 すべてが順風満帆……のはずだった。そんな彼女に悲劇が襲いかかったのは、結婚式を数ヵ月後に控えた、ある蒸し暑い日のことであった。

 女性はその日、東京から単身赴任中で、団体の上層部専用宿舎に1人で生活している上司のため、宿舎の清掃に出掛けた。

 これは正規の業務ではないが、そうした上司のほとんどが単身赴任であるため、総務畑の女性職員が月に数回、交代で宿舎の清掃などを行うのが、長年の慣習となっていた。同僚の女性織員と一緒のケースが多いのだが、この日はたまたま、同僚に急用ができたこともあり、1人で宿舎に向かった。

 この女性にとって、こうした雑用は貴重な休日を潰される難点はあったものの、必ずしも嫌な仕事ではなかったようだ。

 彼女はある日、女友達の一人に、

「あの上司は男らしいし、仕事もできて尊敬できる人だから、(身辺の世話は)決して嫌じやないの。それに、私たちからすれば、雲の上の人みたいに近寄り難いエリートでしょう。その素顔を見ることは、他の人にはなかなかできない訳だから、楽しみなところもあるわ」

 と語つている。

 だが、そうした“密やかな期待”が、逆に警戒心を緩め、悲劇を生んだ。

 女性が家事をしている最中に、その上司が突然、襲いかかってきたのである。

 上司は団体内におけるポストはもちろんだが、社会的にも信頼される地位にあった。しかも、日頃の温厚で紳士的な言動、いかにも優秀なエリートといった感じの冷静沈着な仕事ぶりなどから、まさかそんな破廉恥行為に及ぶなどとは想像もできなかった。女性の心の油断を責めるのは、あまりにも酷い状況であった。

 その男の妻が長期間にわたり重病を患っていたことも災いした。

 不意をつかれた女性は最初、ショックで呆然としてしまい、「止めて下さい」と懇願するのが精一杯だった。それでも途中から必死に抵抗したが、女性の細腕ではどうにもならなかった。

 それは決して不倫だとか、醜聞などではない。レイプというれっきとした犯罪行為であった。しかも、被害者は親子ほども年齢が離れた自分の部下で、フィアンセがいる女性なのだ。

 女性は帰宅後、ずっと自分の部屋に閉じこもって泣き続け、事情を知らない家族を心配させた。

 信頼していた上司に裏切られたショックや、婚約者に対する悔恨の情が女性の心を苛み、絶望の淵に追いやったことは想像に難くない。女性は誰にも相談できず、1人部屋の片隅で泣くしかなかったのだろう。

 女性はその“事件”の後、しばらく勤め先を休んだ。それを知った上司は自分の行為が発覚し、スキャンダルに発展することを恐れた。何どか女性と通絡を取り、謝罪するなど善後策を講じようとしたが、うまくいかなかった。

 男は立場上あまり自由に行動できなかった。そうかと言って周囲に相談することもできず、焦り始めた。

 そこで、本拠地の東京近辺にいる腹心を呼んで打ち明け、“事件”のもみ消しを依頼した。

 腹心が何をしたのかは分からない。が、女性は数日間休んだだけで、その後は何事もなかったかのように出勤し、前にも増して熱心に仕事を続けた。

 ただ、私生活の面は大きく変わった。

 明るく爽やかな笑顔は消え、口数も滅った。あまりの激変ぶりに、同僚らは心配して理由を尋ねたり励ましたりしたが、女性は何も語らなかった。

 しぱらくして、女性は結婚相手の青年に理由を一切告げないまま、一方的に婚約を解消した。

 そして何と、いつの間にか、その上司の愛人となっていたのである。

 最初は男の方が女性を無理に呼び出し、関係を続けていたが、そのうち、女性も男の指示に従うようになったようだ。

 2人の関係は密かに続けられた。周囲に悟られないように、女性が深夜や休日にこっそり宿舎を訪れたり、東京などに出張した際、都内のホテルで会うようにした。

 翌年、その上司は東京に栄転したが、度々お忍びでその県を訪れては女性と会ったり、時には東京に呼び寄せることもあったという。

 最終的には、その女性を退職させ、都内にマンションを借りて住まわせた。

 女性が口を噤んだおかげで、男は順調に出世街道を歩いた。ついに、その団体全体のトップクラスにまで上り詰め、絶大な権力を握った。

“事件”のもみ消しに奔走し、女性のその後の世話係を務めた腹心たちも皆、揃って出世した。

 現在、男は団体を定年退職し、海外で別の仕事をしている。外国に出発する際に、その女性も連れて行こうとしたが、さすがに腹心たちが押し止め、女性が日本を離れるのを嫌がったこともあって、実現はしなかった。ただ、2人が会う機会は減ったものの、その関係は未だに続いている……。

捜査打ち切りの「取引」
 これは、女性の周辺や、元の勤務先の関係者の問で密かに語り継がれている「伝説」である。

 2人の関係はもちろん、一部の人間しか知らないトップシークレットであった。

 だが、そこは狭くて排他的な地域社会のこと。それぞれの様子が微妙に変化したことに不審を感じ、あれこれ詮索する人がいたり、1人が一緒にいるところを目撃した人も現れた。

 最初の“事件”の直後、憔悴し切った女性の姿を知っている家族や友人には、その後の女性の変化が訪しく映った。一方的に婚約を破棄されたフィアンセとその関係者たちも、突然の破談に思い当たるフシがなく、とても納得できなかった。

 そうした疑念がやがて、関係者の間で1つの「伝説」となって語られるようになったのである。数年前には「内部告発」として一部のマスコミに伝わり、取材されかけたこともあった。

 だが、幾つかの客観的な証拠や、複数の関係者証言がありながら、それが「事実」として報じられず、今でも「伝説」のまま残っているのは、女性がレイプ事件はもちろん、その後の愛人関係さえ頑として認めなかったからだ。

 それを敢えて、ここに記したのには訳がある。

 実は、その「伝説」に関する情報が、オウム真理教との関与が囁かれている暴力団に流れた形跡があったからだ。

 そして、何よりも、2人が勤めていた団体が「警察」であったためである。

 それが漏れ出したのは、ひょんなことからであった。

「オウム真理教がまだ、オウム神仙の会と呼ばれでいたころ、ある事件に関連して現地の警察に目を付けられていたことがあった。ところが、当局がいよいよ、麻原彰晃被告ら幹部から事憤聴取を行い、本格的な取り調べに入ろうとした矢先、なぜが、上の方からストップがかかったらしい。

 その事件自体は今、次々と判明している一連のオウム事件のような凶悪犯罪ではなかったし、オウムの名前もまだ知られていなかったから現場の捜査員たちは皆、訳が分からずに首を傾げはしたが、結局、そのままになったようだ。当時の捜査員たちは、オウム真理教の実熊が明らかになるにつれ、『あのころ、オウムを摘発していれば、地下鉄サリンなど悲惨な事件を未然に防げたかも知れない』と侮しい思いをしていると聞いている」

 捜査関係者の1人は、そう明かす。

 その事件があったのは、2人がいた県であった。

 しかし、それが「伝説」とどう繋がるのであろうか。

「その事件が潰れたという噂は、私も警察内部で耳にしたことがある。でも、その背景にある話の方が、もっと恐ろしい内容なんだよ」

 と話すのは、別の警察関係者。

「事件が潰れた時期は、オウム真理教側はちょうど、東京都に宗教法人の認証を得るため申請している最中で、トラブル発覚にはかなり神経質になっていたんだ。約1年後、オウムは坂本弁護士一家を殺害しているが、それも認証を得た直後ゆえに「トラブルの表面化を恐れて犯行に及んだとされている。だが、この場合は警察全体が相手だから、まさか皆殺しにする訳にもいかない。困り切ったオウムは、その当時親しい関係にあった暴力団組長に対応策を相談した、というんだ。

 その暴力団が独自の情報網を駆使して調べたところ、現地警察の最高幹部の女性スキャンダルが浮がんできたどいう訳だ。そこで警察組繊に太いパイプを持つ政治家らを通して、警察当局の上層部に『スキャンダルを公にしない代わりに、ある小さな事件の捜査を打ち切ってほしい』といった趣旨の取引を持ちかけた、という途方もない話なんだ」

 確かに、信じがたい話である。

 だが、この警察関係者が明かした女性スキャンダルは、登場人物から発生場所、年月日、ストーリーの細部に至るまで、冒頭に紹介した「伝説」そのものであった。

 実際、そうした取引が行われたのか、また、それが功を奏したかは定かではない。

 だが、結果的にその事件に関する捜査はストップががかり、「伝説」は再び、闇の中に葬られた。

 その1件に関わった警察関係者が、一連の顛末を記録したメモは、組織の奥深くに封印されてしまったのである。

 ところが、その“信じがたい話”は、後にオウム捜査に関わり、少なからぬ影響を及ぼすのである。

この取引疑惑から1年後に発生したのが坂本弁護士一家殺害事件である。

 この事件は、早川紀代秀被告ら実行犯グループが自供し、その供述通り3人の遺体が発見された。また、今年[1996]3月12日に東京地裁で開かれた中川智正被告の第4回公判をはじめ、一連の坂本事件の公判で、被告たちが犯行を大筋で認めたことで、事件の真相は解明されたかに見えるが、果してそうだろうか。

 本誌はこれまで再3にわたり、坂本事件が抱える数々の疑問点を指摘してきたが、それらは公判段階に至った現在でも、必ずしも解決していない。

 実は、この事件に関しても“闇に葬られた警察情報”があった。

 それを明らかにする前に、坂本事件の疑問点について振り返ってみよう。詳細な検証は、本誌1995年8,11月号で行っているので、ここでは要点だけを記す。

 第1の疑問は何と言っても、坂本宅の鍵はなぜ、開いていたかということだろう。

 中川被告らに対する検察側の冒頭陳述によると、早川被告ら6人は1989年11月2日深夜から1日未明にかけ、静岡県富士宮市の富士山総本部で麻原被告から坂本弁護士殺害の指示を受け、3日午前中、2台の車に分乗して出発。途中で地図や背広を買い、同日夕、坂本宅付近に到着した。

 メンバーはこの日が祝日であることを忘れていたため、早川被告ら2人が坂本弁護士が電車で帰宅するはずのJR洋光台駅前に、岡崎一明被告ら4人が坂本宅付近の路上に、それぞれ車を停めて見張った。

 坂本弁護士の帰宅が遅いため、岡崎被告は午後9時ごろ、坂本宅の様子を窺い、玄関ドアが施錠されていないことに気づき、早川被告に無線で連絡した。早川被告は坂本弁護士が家族とともに自宅にいる可能性が高いと考え、公衆電話で麻原被告に報告した結果、深夜になってから家族とともに殺害するように指示された。そこで実行犯グループが相談し、犯行時刻を4日午前3時と決め、無施錠のドアから坂本宅に侵入した。その際、故・村井秀夫幹部は事内に手袋を置き忘れ、早川被告はポケットに手袋を入れてあることを失念し、素手のままであった……というものだ。

 この冒陳を読む限り、6人の犯行はとても計画的だとは思えない。

 まず、メンバーが誰一人、下見しておらず、祝日さえ認識していなかったのに、坂本弁護士がなぜ、在宅中だとか帰宅すると決めつけられたのかとの疑問がある。

 実際、坂本一家は3日から2泊3日の予定で、四国に旅行に出掛けるはずだった。たまたま坂本弁護士と息子の龍彦ちやんが風邪気味だったため、2日前に中止しただけで、在宅していたのは偶然であった。

 次に、現場での見張りだが、両崎被告ら4人は坂本弁護士宅近くの路上に駐車していたとしているが、坂本宅付近の道路は皆、狭くて一方通行が多いうえ、生活道路として意外と交通量がある。

 しかも、タ方6時から夜9時という車の通行が多い時間帯に、大の男4人がビッグホーンのような大きな車に乗っていたら、かなり目立っただろう。それどころか、通行妨害でトラブルさえ発生する可能性が高い。ところが、近くに駐車していた京都ナンバーのワゴン車を目撃した人はいたのに、ビッグホーンの目撃情報は皆無なのである。

 そして、いよいよ問題の鍵についてである。冒陳では岡崎被告が午後9時ごろ、坂本宅の様子を窺って、初めて無施錠状熊が分かったことになっている。鍵がかかっていなかった理由については、「就寝の際、自宅の玄関ドアの鍵は施錠されていなかった」としか触れておらず、はっきり分かっていない。

 ただ、そう記されている以上、こじ開けた形跡などはないのであろう。

 坂本弁護士は同僚に、わざわざ電話をかけて「鍵をしっかりとかけた方がいい」と注意しており、妻の都子さんの几帳面な性格からしても、自宅のドアの鍵をかけ忘れることはまず、考えられない。

「龍彦ちやんに添い寝してうたた寝したのではないか」との説も、同じ冒陳で、都子さんがネグリジェ姿で絞殺されたことが明らかになっており、考えにくい。

 例えば、坂本一家がついうっかり、鍵をかけ忘れて就寝したのだとしても、実行犯グループは、坂本一家がたまたま風邪のために旅行を中止して家におり、たまたま鍵をかけ忘れた日に襲撃したことになる。

 しかも、岡崎被告がたまたま、その事実を発見したのだから、計画性云々のレベルではなく、3重の偶然が重なった犯行としか言いようがあるまい。

 実行犯は、坂本一家が旅行に出掛けていたとしたら、何日も坂本宅の前で待機するつもりだったのか。もし、ドアが施錠してあったら、ドアや窓を叩き割って侵入したのであろうか。

 もう一つ気になるのは、岡崎被告から無施錠の報告を聞いた早川、麻原両被告がなぜ、坂本弁護士の在宅を確信したのかだ。普通は無施錠と聞けば、家族は在宅していても坂本弁護士は掃宅していないとか、外出時にかけ忘れたと考えるはずである。

 それに、仮に午後9時段階では鍵が開いていたとしても、その後かけられてしまう可能性もあるはずだ。

 実際、早川被告の「やるなら今だと言ったら、麻原に『3時を待って侵入しろ』と言われた。鍵がかかっていたらどうしたらいいかを尋ねると、麻原は『大丈夫だ。玄関のドアは開いている』と答えた」という供述が、いつの間にか消えているのも不可解だ。

 早川被告は「そんな馬鹿なことはないだろう。どうぜ、鍵がかかっているから、今夜は中止だとタカをくくって、村井とともに手袋を付けずに行った」とも供述しており、これらの供述内容の方がよほど自然であり、説得力がある。

「この連中が本当にやったのか?」
 第2点目は、坂本夫妻が自宅で殺害された際、実行犯グループとかなり争ったと見られるのに、周辺の住民が物音ひとつ聞いていなかったり、事件現場に争った跡がほとんどないという疑問だ。

 冒陳によると、6人は寝ていた坂本夫妻の上に馬乗りになり、殴る蹴るの暴行を加えている。激しく抵抗する坂本弁護士の両足を押さえ付けていた早川被告は、途中で蹴飛ばされ、後ろに倒れて鏡台にぶつかり、その反動で鏡台が襖に当たって、襖が外れたほどである。

 一方、都子さんは村井幹部の指に噛みつき激しく抵抗。村井幹部の指から流れ出た血が畳に付着し、龍彦ちやんは泣き出すなど現場はかなりの惨状だったようだが、隣家も階下の住民も、全く気づいていない。

 プレハブのアパートに暮らした経験者はよくご存じだと思うが、ドアの開閉や子供が走り回る音でさえうるさく聞こえるものだ。ましてや夜中の3時に、これほどの騒ぎがあれば、地震が起きたと思うほどではないか。

 それも、隣家の主婦は「その日は午前3時ごろに起きて、赤ん坊にミルクを上げていたが、何の物音も聞こえなかった」と証言しているのだから、いかにも奇妙だ。これもたまたま聞こえなかったのだろうか。

 さらに、冒陳は、実行犯のうち5人が坂本一家の死体をそれぞれ布団やタオルケットでくるみ、外に運び出し、アパートの階段を下りる際には靴音を立てないように注意して、車の後部に乗せた、という。

 だが、アパートの階段はいくら注意深く昇り降りしてもギシギシと音を立てるし、幅80センチしかないドアから、小太りの坂本弁護士の死体を布団でくるんで遅び出すのは至難の業。後日、同僚弁護士たちがモデルになって実験してみたが、重くて数人がかりでなければ運べないし、壁や家具に何度もぶつけ、大きな音がしたという。

 それに3人も殺害し、しかも、かなり争ったとなれば、とにかく直ぐに逃げることを考えるのが犯罪者心理であろう。血の付いた布団を遅び出さなければならなかった事情を考慮しても、遺体を1人ずつ担ぎ上げて車に運び、布団だけ別に運搬した方がずっと効率的である。

 また、冒陳では、岡崎被告が坂本宅寝室内に付着した村井幹部の血痕などを浴室にあったタオルで拭き取ったり、早川被告が倒れたために外れた襖を元に戻すなど、最後にチェックしたことを明かしている。

 ところが、中川被告が肌着に付けていた教団のバッジであるプルシャが寝室内に落ちていることには気づかず、しかも、そのプルシャの存在は、最初に坂本宅を実況検分した神奈川県警の警察官さえ見落としているというのだ。その警察官は鑑識係であり、他の警察官以上に現場の状況には目が届くはずであった。

 また、捜査当局がプルシャから指紋を採取したところ、発見者である坂本弁護士の母さちよさんらの指紋しか検出されず、中川被告の指紋は出ていないのだ。

 さらに、坂本宅の電話の呼び出し音がオフになっていたが、岡崎被告をはじめ誰もオフにしたと供述した者がいなかった。

 ところで、冒陳は犯行時、寝室内は豆電球しかついておらず、薄暗かったとしている。そこに、村井幹部と早川被告が素手のまま乱入したのだ。襖は外れ、血痕は飛び散り、指紋が付いているかも知れない室内を、両崎被告は豆電球の薄暗い中でチェックしたのだろうか。

 それにしては、捜査当局の現場検証では実行犯たちの指紋も血痕も発見されず、せいぜい襖や敷居の傷と敷物がめくれていた程度でしかなかった。その状況は、相当綿密に事後処理したことを物語っているが、それなのにプルシャが落ちていることには気づいていない。この綿密さと杜撰さが同居した現場は、いったい何を意味するのであろうか。

 事件を担当した神奈川県警の捜査員は、こう明かす。

「捜査本部は各容疑者を取り調べた際、坂本弁護士一家が住んでいたアバートの模型を作り、それを示しながら進めた。ところが、彼らの供述はかなりいい加滅で、殺害の手順も計画性はなく、行き当たりばったりといった感じだった。供述内容はいずれも、あいまいで2転3転するし、辻棲が合わないことも多かった。正直言って、この連中が本当にやったのかという印象が強かった。中川以外は皆、小柄で腕力もなさそう。空手の有段者とされた新実にしても、本当は8級だったからね」

 これらの疑問点や矛盾点を解決するにはたった1つのケースしかない。

 現場を下見したり、信者たちの犯行を見届け、現場の事後処理を行うための別働隊がいた、という想定である。

 本誌はこれまで、暴力団員らによる犯行支援グループの存在を指摘してきた。

 また、付近住民の目撃情報や、坂本宅から来客用の湯飲み茶腕がなくなっていることなどから、3日夜8時過ぎに、坂本宅に来客があったとの説を提示している。

 重複するので詳述しないが、その来客が別働隊の一員なら、鍵や電話のミステリーに説明がつく。拉致・監禁を専門とするメンバーが支援すれぱ、事後処理などは完壁にできるはずだ。

 プルシャについては「暴力団員が後で教団から莫大な資金を脅し取るために、わざわざ落としてきた」という暴力団幹部の証言を紹介している。

 冒陳が示すように、麻原被告が宗教法人の認証を得た直後ゆえ、教団のトラブル発覚を防ぐために、坂本弁護士一家を殺害したとしたら、何よりも犯行に細心の注意を払うばずである。

 公安関係者の中には「麻原は早川、岡崎ら幹部たちの忠誠心を試すために、殺人を命じた。坂本事件の共犯になることで離反、逃亡の可能性を断ち切った」との見方を取る人もあるが、いずれにぜよ、犯行の失敗はもとより、教団関与の発覚だけは避けなければならなかったはずだ。

 それを、こうした“成り行き任せ”的な行動を取る信者たちだけに任せられるだろうか。麻原被告が並行して、何らかの善後策を講じた可能性が高いのではないか、と見る方が自然であろう。

 そうした観点から坂本事件を検証してみると、随所に暴力団の影がチラつくことが分かる。

 例えば、坂本弁護士宅付近で目撃された京都ナンバーのワゴン車が京都の暴力団関係者の所有で、坂本一家の死体遺棄の際、富士山総本部でも目撃されていたこと。さらには、オウム真理教との関与が囁かれている組長の隠し口座に、坂本事件の後、オウム関係者と見られる人物から約5億円が振り込まれたとの情報もある。

 そして、これらの話は単なる情報ではなく、実は、別の事件で逮捕されていた暴力団幹部が詳細に供述し、調書まで取られていたのである。

 因みに、その幹部は、私が数年前にインタビューした人間とは違う。もう1人、極秘の情報を告白した人物がいたのだ。

 それが、2つ目の封印された警察情報であった。
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