墓碑銘に「生きた、書いた、愛した」と刻んだスタンダール(本名アンリ・ベール)。彼の代表作の一つである『赤と黒』を読んだ。
村上春樹のとき同様、『赤と黒』も手がけるまでにかなり時間がかかった。
作品についてネット上にあった目を引いた感想を読んだのは8年くらい前だったが、たしか「(~略~)スタンダールはヘッセと比べたら確かに甘い」とか書いてあった。そのころはヘッセもスタンダールも読んでなかったが、ネット上の感想を読んだ後に、ジョルジュ・サンドについての伝記で、サンドがイタリアへの旅の途中にスタンダールと道程を何日かともにした際に、スタンダールの無分別に自分がおもしろいと思う逸話を聞かせようと、相手のことを考えずしゃべりまくることに、サンドが辟易したエピソードが書かれてあったのも、食わず嫌いを覚えた原因かもしれない。それに、その頃はサンド作品をけっこう読んでいたから(笑)。
さて、『赤と黒』を読んでみた感想だが、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や『ファウスト』とかが嫌いな人は、『赤と黒』も遠慮したくなる、そんな気がした(笑)。ただ、貴顕の人やエスタブリッシュメントに並々ならぬ反抗心をもっており、己が出世のためには雇い主の夫人をたぶらかして当然、といったような主人公ジュリアン・ソレルは、スタンダール本人ではない、と読み進めるにつれて思いもした。
そのことはモームの『世界の十大小説』のなかでも的確に書いてあった。スタンダールはジュリアンに背伸びというか、かなり「無理」をさせている。その無理な主人公の「栄達」描写の背景には、スタンダール自身は体験していない、いや体験してなかったからこその願望がふんだんに盛り込まれているように思う。
しかし、『赤と黒』のいいところは、作者が何度も「才知のあるジュリアン」と言及しているにも関わらず、その才知を実際に発揮すると大抵うまくいかずに、ものごとや周囲との関係が悪い方向にこじれたりすることを、くまなく描ききっているところではないだろうか。だからジュリアンが自身に科す使命や行動によって、作者は振り回されているわけではない。ただ、『赤と黒』を書く上でモデルにした事件、つまり小説を書く上での外的作用が強すぎて、もしあのさらりと流されるように書かれたクライマックスがなければ、と思ってしまった。
ところで、ドストエフスキー作品が好きな私は、彼の伝記にて『罪と罰』のラスコーリニコフの思想を遡っていくと、その一つに『赤と黒』のジュリアンの真情にたどりつくという読み方があることを思い出した。今回、『赤と黒』にふれてみて、それは、最後の部分でそう読めるといえば読める気がするが、私の中では漠としたものだった。
さて、『赤と黒』を読んだことにより、図らずもモームがリストアップしている『世界の十大小説』の制覇もあと一作品となった。モームによるリストに別にこだわることはないし、制覇してやろうと意気込んでた時期は7年以上も前だった。しかし、ここにきて野望が頭をもたげてきた感がある。でも古い訳文でしかないし、いろんな意味でハードルが高そうなのね…『トム・ジョーンズ』は。
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