デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



法然院







京都市の銀閣寺からゆるい坂を下りると哲学の道で、その哲学の道沿いに法然院がある。法然院の周囲の景観はすばらしく新緑の頃も紅葉の頃も美しいのであるが、その法然院の墓地に作家の谷崎潤一郎の墓やノーベル化学賞を受賞した福井謙一の墓があるのは知る人ぞ知るところであろう。


福井謙一の墓



谷崎潤一郎の墓




谷崎潤一郎の墓についてはこちらに詳細があるので私からは割愛する。
私個人はこの墓地を何度も訪れている。というのは大文字山に登りその下山の際に、この墓地の傍に出るルートを使うことがままあるからである。山で知り合った旅行者が、下山ついでに日本の大作家の墓を拝んで帰りたい旨を聞いて私が場所を案内するというきっかけで訪れるわけだ。
4週間前ほどだったろうか、Cさんを墓地の傍に出るルートに案内して、相変わらずのまずい英語で谷崎潤一郎の墓のことを説明したときに、墓に何度も来ているのにそういや『細雪』って読んだことないなと思った。
読書が停滞気味だったし、これはいいきっかけになるだろうということで、二週間前に初めて『細雪』を読み始めたらこれがまたすらすらと読めるのである。(この記事を書いている時点で中巻に入っている)
まだ中途なのでまとまった感想は書けないが、上巻だけ読んでみてもこれほどまでに人の常というものを美しい日本語を用いて作品として表現している作品はそう無いのではと思った。小説には作家の内面の声らしき時に暗鬱な教訓や警句や哲学的な主張みたいなものが盛り込まれるべきで、それがないと物足りないという意見もあれど、『細雪』はそんな主張よりも作品自体で日本の奥ゆかしさを表現しているように感じる。大げさに言えば、日本人の営みの一形態を学問的に簡潔に短く表現して分かった風に言ってのけるより、『細雪』を一度でも読めば日本の空気を肌身で感じることができるのではないだろうか。
読みながらつけているメモには、面子、体面、体裁、格式、見栄、警戒、家名、因習、繊細、功利、旧家、前時代、現代、様々な事情、各々の事情、脈々、維持、存続、継続、暗黙、錯誤、僭越、頑迷、因果応報、世代間対立、世間体、奥ゆかしさ、建前、本音、怠慢、依存、様式、因縁、境遇、しがらみ、人情、思惑、宙吊り、時代の趨勢、階級などの言葉が知らない間に並んでいた。中巻以降どのような言葉が並ぶのか分からないが、この先の展開も楽しみにしたい。

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運動するときにいつも登る大文字山には外国人観光客もよく登ってくる。登り口が分からずに佇んでいる外国人に登り口をろくすっぽできないむちゃくちゃ英語で説明したり、一緒に登ったりすることはざらだが、ビジネスや留学で市内に年単位で住んでいる外国人ともだんだん顔見知りになってくる。
そのなかに台湾出身の大学で教えていたCさんという人がいて、まことに寂しいことだが来月台湾に帰省しそこで仕事をつづけると本人から知らされた。Cさんは基本的に英語で話すので、Cさんとは私も自分で話せる範囲、乏しくも自分の中からでてくる表現で言葉に詰まりながら英語で話す間柄となっていたのだが、私の言いたいことを察してくれて山で会う度に辛抱強くレッスンをしてくれたので、私も山の歴史や世間話などで自分が言いたかったことを家に帰ってから復習する意欲が湧くのであった。
台湾の人の多くが中国語と英語を流暢に操るが、Cさんもその例に漏れず(というか中国語の方が得意だろう)時々は挨拶程度の中国語も教えてくれた。まだ2週間は市内にいて山に登れる時間があればまた会えると分かったので、昨日ばったり顔を合わせたときに「下次見」と言って別れた。いつも「我走了」「慢走」ぐらいしか言えなかったが、昨日ほどCさんが日本を発たれる前に、またお会いできたら、もしくは「明天見」と強く思った日はなかったように思う。

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先月のことだが映画館へ久しぶりに足を運んだ。鑑賞した作品は『妻への家路』である。

作品は単純なストーリーながら複雑な社会背景が絡んでいる。『妻への家路』で最初に描かれる時代は中国の文化大革命の時代で、わかりにくい例えかもしれないが、1930年代のソ連に漂っていた親であろうが隣人であろうが互いに密告しあう空気が当たり前で、1930年代のソ連で子供たちが見ていた「少女オーリャ」を髣髴とさせるような場面が、作品の前半に登場する。
主人公馮婉玉は、文革の敵とされ囚人となった陸焉識の妻であり、二人の間には娘の丹丹がいる。陸焉識が逮捕されたのは娘の丹丹が三歳の頃であったので、十数年ぶりに父と娘が顔を合わせたときのジェネレーションギャップは想像に固くない。しかしもっと事情を複雑にしているのは丹丹が文革を賛美するバレエ団で頭角を現し努力と才能で成り上がれる希望を抱いていたその最中に、脱走した父親が家にやってくるというジレンマを、父母と娘の三人が同時に抱え込んでしまうところだ。
このあたりの描き方が非常に秀逸で、私個人は公式サイトにある心労という傷痕を抱いた妻が文革終結まで長い間会えなかった夫のことを思い出せるのかという関心よりも、後から考えるとどうしようもなく難しい時代を過ごさざるを得なかった父母とその娘という構図の方がずっと印象に残った。つまり、文化大革命がもたらした悲劇の面を作品は全体的に強調しているように思うのである。そのせいもあってか、私個人は丹丹が文革で成り上がった場合のストーリーも映画の途中から想像するようになった。

出演のコン・リーや丹丹役を演じたチャン・ホエウェンの演技はすばらしく、作品内で時間の流れがストップしてしまった母と、過去の影を引きずりつつも時代の変化を受け止めて生きていく娘との対照的な姿に見事に合致していたように思う。また、作品内の象徴的な場所である駅の背景が時代とともに変化し、時の経つ無情さを視覚的に見せる演出もよかった。

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ルーベンス『ローマの慈愛(キモンとペロ)』(1612年頃)

昨日、スタインベックの『怒りの葡萄』について感想を書いたが、読了直後に感想こそしばらくまとまらなかったものの、ルーベンスのこの絵のイメージがすぐに頭に浮かんできたものである。ひょっとするとスタインベックはこの絵(エルミタージュ美術館蔵)を見たことがあったのか?と思ってしまった。
今となってみればスタインベックがこの絵を見た可能性は限りなく低いだろうと思う、しかし絵の主題である古代ローマでのエピソードについては知っていたかもしれない。

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読了後、正直、感想に困った。ただ、この作品については文庫の末にある解説よりももっと深い読み方があるのではという気がしたのでいくつかあたってみたら、亀井俊介編著『アメリカの旅の文学―ワンダーの世界を歩く』(昭和堂)所収の金澤智 氏の「『怒りの葡萄』論―ルート66の先にあるもの」が私が感じたこの作品のもつ力の説明になっているように思った。よって、この記事では、金澤氏の論を参考にしつつ、作品について触れることをお断りしておく。

作品を読み終えて、これまで読んだ旅文学のなかで最も悲惨な話であると感じた。『旧約聖書』を髣髴とさせるうんぬんは前半を読んでいてすぐにわかったが、それ以上ものが作品にはある。ずばり、理想の国アメリカの現実、アメリカに抱きがちな夢を打ち砕くことを、作品はフィクションを用いてその真実を描いている。私はアメリカ文学をそこまで読んでいるわけではないけれど、こんなに心を動揺させられたのはアメリカ文学ではこの作品が最初といっていい。
作品が暴き出す資本主義者を自認しても自由競争の名のもとに暴利をむさぼる構図は、古代ローマでユリアヌスが激昂(穀物の値段を吊り上げるために穀物を燃やして本国ローマに穀物を送らない行為やその他に対して)したことと大して変わらない。この種の問題は今もなお問題であり続けているし、また1960年代の既存の社会に反抗する「自由を求める若者が向かうカリフォルニア」という土地がかつて「約束の地」の幻影でしかない土地であったことは、少なくとも私にとってロシアに対する幻想をショーロホフの『静かなドン』で粉砕されたときに味わって以来の苦い歴史の事実である。
作品の主人公トム・ジョードとその家族は、旅に出て理想の国アメリカの過酷な現実を知る。そしてアメリカに足りないものに気づいていく。

「そうとすりゃ、何でもねえじゃねえか。つまり、おれは暗闇のどこにでもいるってことになるだもの。どこにでも――おっ母が見さえすりゃ、どこにでもいるだ。パンを食わせろと騒ぎを起せば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいるだ。警官が、おれたちの仲間をなぐってりゃ、そこにもおれはいるだよ。ケーシーが知ったら、何ていうかわからねえだが、仲間が怒って大声を出しゃ、そこにもおれはいるだろうて――お腹のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいるだ。それに、おれたちの仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、そのときにも――うん、そこにも、おれはいるだろうよ。わかるかい? ちぇっ、おれの話し方、ケーシーに似てきやがっただ。あまりケーシーのことを考えすぎたからだね。ときどき、やつの姿が目に見えるような気がするだよ」
  スタインベック『怒りの葡萄(下)』(新潮文庫)p364 大久保康雄 訳

作品を読んだ方およびウディー・ガスリーの「トム・ジョードの歌」を聴いたことのある方には馴染み深いこの箇所は、一家とともに旅に出たトムが旅をしてアメリカの現実を知り、弱い者を押しつぶそうとする現実に対して共感と連帯でもって対峙する使命を帯びた瞬間である。その使命を全うしようとするトム・ジョードは時代が変わってもアメリカ国内で何度でもよみがえる。
今もなおアメリカには幻想が漂う。格差や自国民がまともな生活環境におかれていないことに対する憤りは21世紀に入ってなお解決されていないし、間違っても理想的な充実した福祉社会を実現したとはいえない。1930年代、土地を手放さざるを得なかったジョード一家が旅に出て知る現実から得ることになった使命はその予言的性質を未だ保ち続けているのである。

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豊かな水が

古代ローマではアレクサンデル・セウェルスが引いたアレクサンドリアーナ水道まで含めたら、11もの水道がローマに流れ込んでいたという。
ローマ郊外の水道橋公園には現在、地上地下計7本の水道が保存されていて、こちらの記事の三番目の画像は、調べてみると旧アニオ水道、ユリア水道、テプラ水道の水道橋なのだそうだ。


この水も古代の水路から流れ出て
いると思うと感慨深いものがある。

水道橋公園の水道ではないが、古代ローマの水道で現在も水を供給しつづけていることで有名なのはヴィルゴ水道であろう。アウグストゥスの右腕アグリッパに仕える技師が水源を探索していたところ、水源を教えた乙女にちなんでヴィルゴと名づけられたヴィルゴ水道の水はトレビの泉に流れていて、噴水を楽しむとともに壁の管から流れている水を飲んだら普通に飲めて美味しかった。ペットボトルの水が無くなったら、トレビの泉の壁の管の水を汲むのもおすすめである。

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愛新覚羅溥任氏死去=中国清朝最後の皇帝溥儀の末弟(時事通信) - goo ニュース

トップニュースで流れる訃報は偉人や有名人や著名人のものを扱うことが多いのは当たり前だが、レナード・ニモイ、桂米朝、リー・クアンユー(初代シンガポール首相)、愛新覚羅溥任など、今年に入ってなぜだか個人的にどこか心にズシリとくる人の訃報が続いている。亡くなられた人とは直接話したわけでなし、イメージのなかの存在であることには変わりないのだけれども、訃報を目にすると歴史というものが地続きなものであることを感じさせられる。

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常緑樹と対照的なところがいい



手入れが行き届いているようだ

昨日の雨で、市内のほとんどのソメイヨシノは散った。これからは八重の桜をたのしめるだろう。

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多くの人が訪れる桜の名所もよいが、町なかを自転車で走っていてふと見かける存在感を放っている一本の桜は、それはそれで見ごたえがある。ここ2・3日気温が下がったせいか、微妙に満開のタイミングが遅れた桜もあるように思う。

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自転車に乗っていると覆いかぶさるような
桜の軒下を通っている気分になるになるの
だが、画像ではなかなか感じが出ないものだ




これらの画像を撮った日から、三日ほど雨がつづいたが、(4/7現在)意外と散っていなかった。

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