デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



バイロンの叙事詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』(全4巻)を読むきっかけは、ターナーのこちらの作品を鑑賞したことが大きい。ただ、何年も前にドストエフスキーに影響を与えた作家として、プーシキンの次にバイロンをいつか読んでみたいと思っていたし、ソチ五輪の前にロシアの歴史を特集した番組を見て、

 スターリンはプーシキン記念碑の複数の計画案を検討していた。
 第一案は、プーシキンがバイロンを読んでいる、というものだった。「これは歴史的には正しいが、しかし政治的には正しくない。党の総路線が示されていないのではないか?」
 第二案は、プーシキンがスターリンを読んでいる、というものだった。「これは政治的には正しい、しかし歴史的には正しくない。プーシキンの時代には、わたし、同志スターリンはまだ本を書いていなかった」
 第三案が政治的にも歴史的にも正しいことが判明した。それはスターリンがプーシキンを読んでいる記念碑である。
 こうして記念碑が建てられ、開幕式で、みなが眺めると、スターリンがスターリンを読んでいた。

というアネクドートを思い出し、そこでプーシキンも影響を受けたバイロンのことがじわりと気になりだしたというのもある。(このアネクドートひとつだけでも十分な記事になるのだが、ここでは書かない(笑))。

読了直後の感想は、もし7・8年前に ドストエフスキー → プーシキン → バイロン という読書順序をコンスタントに踏んでいたならば、おそらく「私が読書を続けてきたのは『チャイルド・ハロルドの巡礼』を読むためだったのだ!」と叫ぶなりしていたことだろう、というものだった。
叙事詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』には、たしかにプーシキンが影響を受けていてもおかしくないなと思わせるものがあった。プーシキンの特定の作品に『チャイルド・ハロルドの巡礼』の影響が顕れているというのでなく、プーシキンの詩人としての魂というか、プーシキンが作った詩に『チャイルド・ハロルドの巡礼』のエッセンスを感じるというべきか。またはバイロンの無軌道で放縦で多情多感で浪費癖があることとエネルギッシュで愛に盲目的ですばらしい観察眼と審美眼と美しい詩を生み出すセンスとが作品に昇華されているのを、プーシキンはあこがれと共感をもって眺めていたのかもしれないと感じた。
若いころは世の中の物事すべてが自分の感情で思いどおりにでき、また自分の身勝手な理論の型を世の中に強要させることができて、ものごとは理論どおりに収まると往々に勘違いし痛い目にあうこともしばしばだが、貴公子ハロルドの精神の遍歴のいいところは、自分の業の深さから(他人を傷つけ、また自分を傷つけたことで)傷ついた己の魂を救済しようとしても、やはり自分の信念から現れた理論の型の存在と、それとは正反対の現実の存在があることを臆することなくつまびらかにしているところだ。自分の気持ちの中で矛盾を生じさせる大きな存在に対し、矛盾があるからといってどちらかを解消しようとせず、矛盾は矛盾としてそのまま認め、貴公子ハロルドが自分の分身であることも潔く読者にさらしているのを読んだだけでも、読者は作者の精神の遍歴に共感を覚え、読書を通し精神的に楽になる体験を得るように思うのである。



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