橋本屋吉次郎電子日誌

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萩へ

2017-04-11 | ドライブ・旅行

泉大津港からフェリーにのって西進し、6:20に門司港に上陸。
九州に進軍すると見せかけ、反転して東に向かいます。


関門トンネルです。
結局、九州滞在は20分でした(汗

ほどなく、下関に到着
本州と九州の狭間である関門海峡は3つのトンネルと1つの橋で繋がれています。
在来線(山陽本線)の関門鉄道トンネル、新幹線の新関門トンネル、一般国道(国道2号)の関門国道トンネル、なんとこの海底トンネルを歩いて渡ることもできるのです。
 

さらに、高速道路(関門自動車道)がとおっている関門橋・・・あれれ?
 

なんと、みもすそ川公園には大砲が並んでいました。
1863(文久3年)、長州藩は尊皇攘夷を実行すべく、関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました。
しかし、翌年8月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきて、これに大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。
外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となります。

みもすそ川公園
所在地: 山口県下関市みもすそ川町1


長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離.威力ともはるかにすぐれたものでした。


源義経と平知盛像
ここは、源平最後の戦いである壇ノ浦の合戦の舞台でもあります。
義経(左)は八艘跳び、知盛(右)は錨を担いで入水自殺する姿を現しています。

みもすそ川公園を後にして、日本海側を海沿いにクルマで走ること1時間
着いたのがここ


角島大橋
所在地: 山口県下関市豊北町神田~角島

あいにくの曇天でしたが、充分綺麗な海の色を堪能することができました。
 

さらに、40分ほど東へ移動して、


元乃隅稲荷神社
所在地: 山口県長門市油谷津黄498
参拝時間: 日の出から日没まで ※夜間の立入禁止

北東の風が吹き荒れるとここに打ち寄せる波が最大30mも吹き上がることもあるそうで、
「龍宮の潮吹き」とよばれています。
 

幸か不幸か、この日は穏やかな波で潮吹きはみられませんでしたが、ダイナミックな景色に感動です。


 
 

本殿はこぢんまりとしています。
 

無人ですので、御朱印もあらかじめ押してあるものをいただくシステムです。
 


本来はこの鳥居の上部にお賽銭箱が設置されており、日本一入れにくい賽銭箱として知られているようですが、工事中のためおろされていました。

このあと、萩市内に入ったところで、はやい昼食を取ることにしました。


どんどん 土原店
所在地: 山口県萩市土原377
営業時間: 09:00 〜 21:00
まだ、10時だというのに駐車場はいっぱいで、いやがうえにも期待しちゃいます。


肉うどんに、わかめのトッピング
テーブルの上には刻みネギがどんぶりいっぱい用意されています。
福岡のうどんのように柔らかめの麺ですが、中はしっかりコシがあります。
こんぶ出汁に肉の煮汁がたっぷり入って、甘めになったつゆがサイコーでした。
山口県によることがあったら、ぜひとも再訪してみたい店です。


東萩駅前にある萩ロイヤルインテリジェントホテル
本日宿泊するこのホテルの駐車場にクルマを置いて、
 

ホテル横の貸し自転車店でレンタサイクルを借ります。
萩にかかわらず、城下町は狭くて曲がった道が多いですが、こぢんまりとしたところに見所も多いので、自転車でまわるのが良いかと思います。
 


東萩駅前にある萩城天守の1/6復元模型を見て、スタート

最初に訪れたのが、


萩反射炉
所在地: 山口県萩市椿東4897-7
海防強化の必要性を感じた長州藩は、西洋式の鉄製大砲を鋳造するために金属溶解炉として反射炉を築造しました。
日本に現存する近世の反射炉は、この萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)のみであるため貴重な遺構とされています。
2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産(文化遺産)に正式登録されました。
よくもまあ今まで残っていましたねぇ。

萩反射炉から海側へ約0.6㎞移動しました。


恵美須ヶ鼻造船所跡
所在地: 萩市椿東5159-1

1853(嘉永6)年、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請し、この造船所がつくられました。
かつては多くの建物があり、木材を加工するところ、原寸大の図面を起こすところ、製剤した部品を組み立てるところ、船のロープをつくるところなどが分かれて建っていました。ロープはそれぞれの建物の跡を示しています。


スクーネル打建木屋跡
船の組み立てを行う施設=ドッグですね。
黄色の枠と赤の枠はそれぞれここでつくられた洋式帆船の大きさを表しています。
陸上で建設し、海まで曳いて浸水する方式だったので、これ以上大きな船を作るのは無理だったそうです。


石積みの防波堤
よくこのアングルの写真が紹介されていますが、


この燈台はコンクリート製で上部に電灯を持ち、幕末のものではありません。
(とはいえ、かなりの年代物には違いないです。)


突き出ている白い石は、船のロープをつなぎ止めるためのものです。

ボランティアガイドの方にいろいろ説明いただきました。
その中で印象に残っている話をひとつ紹介します。
毛利領は江戸時代になり、かなり縮小されました。
関ヶ原の戦いで西軍についたのでしかたないことなのですが、せめて藩庁は山陽に置きたかったそうです。
しかしながら、幕府はこれを認めず、山陰で方を山、一方を海に囲まれた萩に押し込まれてしまいます。
世が世ですから、表だって文句を言うことはできませんでしたが、このときの不満は幕末まで続いたそうで、せめて山陽のどこかに藩庁を置くことを認めてくれたなら討幕派にならなかったかも・・・とガイドさんは話してくれました。


道の駅 萩しーまーと
所在地: 山口県萩市椿東北前小畑4160-61
営業時間: 9:30~18:00

貸し自転車屋のおじさんのすすめにより寄ってみました。
日本海の新鮮な魚が販売され、食べることもできます。
たしかに、レストランは3店舗あり、いずれも鮮魚をウリにしたメニューがいろいろあるのですが、価格は観光客向けでした。
さきほど、うどんを食べたので、鮮魚は夜まで我慢することにして、城下町に向かいました。


野山獄跡
所在地: 萩市今古萩町35-6
1854(嘉永7)年、ペリーが再航した際に、吉田松陰は旗艦ポーハタン号に小舟で近づき、乗船し、密航を願い出ました。
しかし、渡航は拒否されて、投獄されてしまいました。
その後、国許蟄居となり、長州へ檻送された後にここに幽囚されました。


岩倉獄
野山獄跡と道路を隔てて向かい合わせになっています。
士分の者を収容する上牢が野山獄で、士分以外の者を収容する下牢が岩倉獄でした。
1645(正保2)年、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こしました。
しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、跡は牢獄に立て替えられますが、切り込んだ岩倉家側に非があるとして、岩倉獄は下牢とされたそうです。
吉田松陰と共に黒船で密航を企てた金子重之輔はここに入れられますが、野山獄とは異なり環境が劣悪で、着物や食べ物が満足に与えられなかったため、獄中で病死しています。

コメント (4)
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