●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

私が教会に行った訳

2018年05月16日 | 教会
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

神は真実である。

あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、

試錬と同時に、それに耐えられるように、

のがれる道も備えて下さるのである。

(コリント人への第一の手紙 10:13)



これは、私が一番最初に覚えた聖書の箇所だ。

それは、高校時代に朝の支度をしている時に、

何気なく聞いていたラジオから聞こえて来たものだった。

この言葉と共に、凄い大変な試練にあった年配の男性が、

益に変えられたと、喜んで話しておられたのが印象的だった。

「正しさ」とか「生きる意味」に悩んでいた当時の私には、

それは、とても新鮮に心に入って来たのだ。

宗教は嫌いだったが、聖書とかキリスト教には興味があったので。



当時の私の一番の悩みは、「自分が嫌いだ」と言う事と、

こんな自分の「生きる意味が分からない」

と言うことだった。

「何のために生きているんだろう…」と密かに思っていて、

答えを見つけたいと求めていたのだ。



高校一年の時に、ついに嫌気がさして教室の机に伏してした所、

担任の先生が不審に思い、教員室に呼び出された。

「先生は、何のために生きているんですか?」ときくと、

「生きてるから、生きてるんだよ。」との答え。

そんな空気のような答えに、気が抜けてしまい、誰かに尋ねるのは諦めた。



それからしばらくは、端から見たら華々しい高校生活だったので、

その疑問は棚上げにして、部活に勤しんだ。

自分では、暗い青春時代だと思っていたが、周りからは明るくて、

それなりに成功して、楽しそうに見えたようだった。



地元に就職したものの、まるで学校のような制服で、

人々が時間通りに動き、一緒にお弁当を食べ、

午後は部活と言う生活が絶望的に見えたので、

私は、すぐに辞めて京都に行く決心をした。



両親は、当然跡取りをすると思っていたのでびっくりしたと思うが、

私の思い通りにさせてくれた。

両親にとっても、あの就職口は納得行かなかったのではないかと思う。

高校を選ぶ時に、部活の監督と就職口への約束をもらっていたからだ。

結局、私が選んだのだから、先生のせいではないが。




京都に行ってからしばらくして、下宿の人間関係で悩んだ。

ちょっとだけ悪っぽい人達だったので、私の道徳心とは合わなかった。

でも、みんな外側の行動とは別に内面には純真な心を持っていたと思う。

そんな孤独の中で、私は再び聖書を読みたいと思うようになった。

京都には、クリスチャン文書センターがあり、大きな看板がついていた。

バスで通る度に、「あそこには聖書があるだろう。」と思い、

いつか覗いてみたいと思っていた。いつか、いつか。




そして、ある秋の日。ついに私は勇気を奮ってそこに行き、入っていろいろ見てみた。

「聖書以外にも、いろんな本があるんだな。」

何を手に取って見て良いのか分からない。全て初めて見る言葉だ。

店員さんは、そんな私に声をかける事はせず、安心してしばらく眺めていれた。

しかし、あまり長いこと眺めているものだから、ついに店長さんが声をかけてくれた。

その方に誘われて、私は初めて教会と言うところに行くことが出来たのだ。




つづく…かも知れない(笑)

たったひとりのために

2018年04月22日 | 思うこと





先日、教会でスペシャルゴスペルカフェがあり、コンサート、

ゴスペル発表会、ウクレレ隊、ゴスペルフラで盛りだくさんでした。

そして、たくさんの方々が来て下さって、最後には椅子が足りなくなるほど。 

私もとても楽しませてもらいました。




フリータイムの時に、ある方といろいろなお話をしていたのですが、

「あのね、私たちってたくさんの人達が来られた!とか、

多くの人が救われたとか、そちらの方に目が行くんだけど、

神さまって、たった一人のためにさえ、大きな集会を開かれる事があるのよね。」と。




そうかも知れない!と納得しました。

今日のこのカフェも、私のために開かれたのかも知れないし、

他のある人のために、開かれたのかも知れない。

その結果である実は、ずっと後にならないと分からないかも知れません。

でも、イエスさまの目は「多くの人々」に向いているのではなく、

一人一人の上に注がれているんですね。

私が若い時にイエスさまを信じた「特別集会」も、

わたしのために用意されていたかも?

(それぞれが、自分のためにと思って下さいね・笑)

すると、下記の御言葉が浮かんで来ました。



「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、

その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、

その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」

(マタイによる福音書 18:12)



イエスさまの目が、私に注がれているとすれば、

なんて素敵で喜ばしい事でしょう!

みんなで礼拝します!

でも、私とイエスさまの時間でもあるんです。

感謝ですねー( v^-゜)♪

神さまに立ち返る方法

2018年04月19日 | 思うこと



普段から、よく夫に言われることが、

「イエスさまを見上げて、信頼し委ねたらいいよ。」

なのですが、調子が悪くて落ち込んでしまうと、見上げ方を忘れてしまいます。

夫の場合は、毎日の習慣のお祈りを始めると、

段々、この世の事から切り離されて、イエスさまの恵みに入れるらしいです。

ところが、その習慣を持たない私は、(同じようにしても、形式的になってしまう)

なかなか立ち返り、委ねて平安を得る事が難しいのです。

病状が悪くなると尚更、自分に囚われてしまい、穴蔵の中にいるようです。




先日も、この負の連鎖に入りそうになりましたが、

ふと、お風呂に入ろうと思い、湯船に浸かりながら、

神さまを礼拝しました。

その時、私が過去にどのような気持ちで、イエスさまの元に帰ったかを、

ふと思いだしました。

私は、取るに足りない者だから、せめてイエスさまの御衣にでも触れば!

子犬でもテーブルの下のパンくずは頂きます!

この2つの信仰でした。



「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」

(マルコによる福音書 5:28 )




人それぞれ、イエスさまに近づき方があるように思います。

大事なことは、いつもその原点に帰る事かな、と思います。

マリアのように、香油を注ぐ人もいるでしょう。

放蕩息子のように、帰る人もいます。




それぞれにどんな方法でもいいと思います。

イエスさまは、温かくその信仰を認めて受け入れて下さいます。

それがどんなに小さな信仰でも、他者には見えないほどのものでも。




そして、きっかけさえ掴めていれば、迷子になってもすぐに帰れます。

私は、主の服の裾をしっかり掴んで着いて行こうと思います。

実際は、神さまの方がちゃんと私を捕まえて下さっているのですが。

感謝ですね~

天と地を結ぶ(追記あり)

2018年02月21日 | 思うこと
今朝方、リアルな夢を見ていました。

昔、教会に来ていた男性が、「イエスさまにもう一度従いたい」

と、祈るために頭を垂れていました。

私は、それを見て「彼を祝福して下さい!」と祈ると共に、

「彼だけではなく、彼の一家全員を祝福して下さい!!」

と、激しくお祈りしていました。




「彼の一家を天の祝福と繋ぎます」と。

私は、今までそのようなお祈りをした事はありませんでした。

でも、夢の中では天の祝福と、彼の一家を一生懸命結びつけてました。


それは、この御言葉があったからです。


「よく言っておく。

あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」

(マタイによる福音書 18:18)



とは言え、この御言葉は祈っている途中で思い出しました。

きっと、いつかこの祈りの結果を見ると思いますが、

今は、何が起きているのか?分かりません。

神さまの手の中ですね。





ー追記ー

この夢と祈りがあったので、この男性の奥さんにメールしてみました。

敢えてバソコンのアドレス宛にしました。

長い間、音信不通にしていたので、返信は無くてもOKと思いつつ。

次の日の朝に、返信がありました(o゚▽゚)

元気にしているって事と、私の家の出来事についての内容でした。

わぁー元気にしているだけで良かった!と思いましたし、

メールをありがとう!との言葉も嬉しかったです。

今後、このご家族がどのように祝福されるかは知りませんが、

神さまはご存知です。

いつか分かるかも知れませんし、天国で知らされるかも知れませんね。

とりあえず、感謝<(_ _*)>

全能の神さま

2018年01月17日 | 教会






(創世記17:1)

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。

「わたしは全能の神である。

あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。




今週のメッセージの聖書箇所です。

アブラムに教えられた神さまの自己紹介は、

「全能の神である」でした。

ですからアブラハムは、

「死人を生かし、無から有を生み出される神」(ローマ4:17より)

を信じたんですね。




私は横になってて、ふと思ったのですが、

「自分は、神さまを本当に全能だと信じているのかな?」と。

もちろん、理屈としては信じていますし、聖書を信じています。

でも、現実社会の中で、全能の神を信じた行動をしているのかな?

何でも出来る神さまに期待しているのかな?と。




そして車に乗りながら、心の中で叫びました。

「神さまの全能を見たいです!神さまの全能を見たいです!」

それは、ホントの神さまがどんなお方かを、もっと知りたいって事です。

そしてその前に、先週のメッセージで語られた、

「God is good.All the time.」の愛を信じた上でのことです。




意外に、イエス様を心から信じて、熱心なクリスチャンにも、

神さまの最善を信じていないことがあります。

(って、昔の私ですが・・・苦笑)

愛のゆえに苦悩を与え、練り清め、ぐちゃぐちゃにし、謙遜を身につけさせ、

整えられた有用な器へと、コテンパンに変えられる。。。

(これは私の偏見でした、ははっ(*_*;)

確かに、神さまはそうされる時があるかも知れませんが、

そこには愛と慈しみが覆っています。




アブラムが、アブラハムに変えられるには、

試練を通されなければならなかったかも知れません。

ヤコブが、イスラエルに変えられる時もそうだったでしょうが、

そこには、打たれたイエス様ご自身が覆っておられたと思います。



全能の神さまの時空を超えた偏在ですね。

(注・今気づきましたが私はいわゆる「全能神」とは関係がありません)










走るべき行程

2018年01月13日 | 思うこと
走ろうと…。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。(ヘブル人への手紙 12:2)ある集会に参加する途中、クルマの中で心に届いた......




昨年の今頃の日記ですが、「走ろうと」してました。

で、結果は???(笑)

ほとんど走った記憶はなく、特に秋口からは止まりそうに(^^ゞ

しかし、昨年の大きな行事を思い浮かべると、神さまがそうして下さったかも?

と言う、痕跡を発見します。




先ずは、3月にはソウルに行って、チマチョゴリの採寸やショッピングをしました。

行こうかどうか?考えていたのに、娘のお婿さんが、

「おかあさん。いつ韓国に来ますか?」と言われ、行くことにしました。

そこでは、教会の礼拝にも参加しましたし、

マンションの祝福式もして頂きました。





そして6月には、韓国での結婚式に行きました。

これは、大きなイベントでもあり、体力が持つか心配でした。

実際は、体力の問題ではなく、チマチョゴリが暑くて大変でしたが。

それでも配慮して頂き、午前中は休んで午後から着替え、写真、夕方から式、

バイキングで食事をしている方々への挨拶、それから自分たちの食事。

終わったら、即マンションに帰ってダウン!!!

守られました~~~~(^^♪




8月には、娘が帰って来て、日本での「お披露目会」と韓国人家族の接待。

これは、暑い中での大変な行事でした。

皆さんへの朝食も、接待が苦手な私の大仕事。



10月ごろから、体調がかなり悪くなってきて、毎日が苦しかったです。

秋の「寒さ」を感じたのが引き金になって、不安と恐怖でタジタジに。

って時に、11月には昔お世話になった大阪の牧師先生ご一家を我が家にお迎えしました。

私は何度も夫に「これは無理だから、他で泊まってもらおうよ」と言ったのですが、

珍しく夫は、頑として聞いてくれませんでした。




その11月の接待も、今まで韓国人を何度も泊めた経験が生かされて、

何とかなりました・・。(私はマルタの賜物はありません。どっちかと言うとマリア系)

それよりもご夫妻とのお話しが楽しくて楽しくて、恵みがいっぱいでした。

ずっと先生ご夫妻の隣で、座ってお話ししていたかったくらいです。

「お招きしてよかった~」と思ったのでした・・・。




の翌日また韓国に行きました。

この時は、娘が失業中で時間が空いているので、ぜひ来てくれって言うので、

体調が悪い中でも、気分転換になるかも?と思って行きました。

元気でしたー(と言うか、韓国の方が島根よりも空気が軽い?気がする・笑)




その後も、ずっと体調は悪い日が続いたのですが、

昨年は、悪いながらも守られたなぁ~と言う感想です。

今年は、「走り」ませんが、信仰によって遥か天を見上げながら、

自分の走るべき行程を(やっぱ走るのか?・笑)、止まらない程度に行きます。







旅人、寄留者として

2018年01月06日 | 思うこと



「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。

まだ約束のものは受けていなかったが、

はるかにそれを望み見て喜び、

そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」

(ヘブル人への手紙 11:13 )




年末に、T 先生のメッセージを聞いて、本当にワクワクしました。

それは、モーセの最期の場面の話しからでした。

旧約聖書に出てくる人たちは、まだ完全には約束のモノを得てはいませんでした。

しかし、遥か彼方にある約束を既に得たと信じて死にました。

その事に、不満などなく信仰によって望みを抱いて喜んで逝きました。

私たちクリスチャンは、常に信仰によって生きています。

だとすれば、旧約聖書の人たち以上に喜びを持って生きて行けます。

なぜなら、約束の救い主イエスさまと出会って、共に歩んでいるんですから。




しかし、まだまだこれから更なる祝福が待っています。

そして、この世を去って行く時には、永遠への扉が開くのです。

まだ見ていないけど、私も天を目指して今を生きていきたいです。

この地上には楽園などはなく、この毎日を旅人、寄留者と生きて行ける幸せ。

後は、旅人として如何に旅を楽しめばいい。

旅には、ハプニングも出会いもあります。

必ず予定通りに行くとは限りません。

それが楽しみでもありますね。

この年、旅人として、人生の旅行を楽しみながら歩みます。



あけましておめでとうございます。

2018年01月04日 | 思うこと
しあわせ
おはようございます。珍しく連投しています。早速飛ばしてますね〜(笑)今朝は、不思議な感じで目覚め起きました。起きたら、4時半〜フワッとした気持ちで目覚め、「お......




なんか、いい事言ってますよね、去年。。。(笑)

今年は、そんな風にカッコ良くはいかないんですが、

遥か「天の御国」を仰ぎ見ながら、毎日をイエスさまに根ざして生きたいと思います。

(これも結構カッコいい?・笑)

流れのほとりに植えられた木の、その葉もしぼまないように、

しっかりとイエスさまって言う土壌に根ざして、

満たされて、解放されたいなぁーと思います。




イエスさまに根ざすって事の内容は、言うは易しでなかなか難しいですよね。

ある先生は、「いつもイエスさまに話しかける」と言っておられました。

ある本には、「聖書の言葉」に立ち続けるとか?

いつも神さまの臨在の中で生き続けたいです。




泉の湧く教会

2017年12月12日 | 思うこと

11月に私たちの教会にお招きした牧師先生が、

ご一家で我が家に泊まって下さったのですが、

その時には、励ましの言葉を、たくさん頂きました。

その中でも、先生がわざわざ聖書を開いて語って下さったのが、下の御言。




彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。 」

(詩篇84:3~7)。





昔の事ですが、私たちの教会でも今までいろいろな事が、たくさんあり、

「イエスさま、これはどんな意味があるのですか?」

と思えるような事が多々ありました。

ですから、先生が私たちの教会に「涙の谷が泉の湧く所となります。」

と励まして下さった事は、本当に喜びでした。




私自身も、涙の谷を通った事が幾度とあり、その都度絶望しました。

完全に望みを失った事もありました。

ですから、今あるのは全て神さまの恵み!のみ!

来年は、教会から泉がどんどん湧くかなぁ〜





内面の姿

2017年10月15日 | 思うこと



今朝の夢です。

久しぶりに(30年振り)、友達のTちゃんに会いました。

彼女とは、若い時に一緒に教会で賛美したり、伝道活動してました。

懐かしくて近寄ると、彼女は私を拒みました。

他の昔の友達とは、とても親しくしているのに、

何故だか?私とは話してくれません。

すると、ある人が私に言いました。

「ぴーちさんが彼女に攻撃的だったから、傷ついているんだよ。」と。

私は、泣きながら訴えました。

「私は、かつて攻撃的な人間だったけど、Tちゃんを攻撃した事はありません。」

「私は、Tちゃんを攻撃してないのに!!」

…と言う内容でした。




スクッと起きて、お祈りしました。

私の中には、自分を守ろうとするあまり「攻撃性」があります。

自己弁護したい気持ちが満ちています。

イエスさまの愛の中で、「攻撃や反撃的な自分を手放します。」と祈りました。

それを自分では、どうすることも出来ませんが、

イエスさまの十字架には、これを破壊する力があります。

破壊?と言うより、「十字架による死」ですね。