●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

過去との対峙

2017年01月23日 | こころの健康





さっき、アメリカのドラマを観て思った事を書いておきます。

ある帰還兵がPTSDを患っていて、一向に良くならないのです。

自分が狙われていると思い込んでいるので、攻撃しようとするのです。

脳波やカウンセリングでも、余計に不安定になるので、

主人公は、その元兵士が戦場であった出来事を、何か隠していると思い、

戦場をCGで再現して、探ろうとしていました。



ですが帰還兵は、ウソをついている訳ではなく、記憶に蓋をしていたんです。

思い出している内に、とても辛くなって何度も投げ出そうとしますが、

それでは、患者として病院に隔離されるだけなので、

主人公は、なるべく彼の真相を知ろうと戦友に聞くなどして努力します。

すると、隠されてた真実に蓋がしてあると分かり、勇気を持って開けてみると、

彼が思っていた事とは違う事実が判明したんです。

上官が、彼の弱さに乗じて嘘を信じ込ませていたのでした。

そしてドラマの中では、彼の病気は良くなるのですが…。




私たちは他者から悪意を持って、あるいは悪意はなくても、

事実を曲げられて、信じ込まされることがあります。

そこに傷があると、見たくないので癒されないまま蓋をしてしまいます。

ところが、蓋の下では傷から血が流れていて傷口が膿み、

どんどん表面にも、その弊害が現れて来ることがあります。(ドラマ程酷くなくても)




そんな時に、しばらくは見ないようにしてそっとして置く場合もありますが、

勇気を持って対峙して、真実を正面から見ることによって、

傷が癒される事もあるようです。

その「時」と、「方法」は人によって違うので一概には言えませんが、

時として、神さまが摂理の中で過去を思い出すきっかけを下さるようです。

「忘れてたけど、あの時とても辛かった!」とか。

「そう言えばあの時、こんな嫌な事があった!」

「今だから言えるけど、意味が分からなくて誤解され悔しかった!」とか。

「あの時は、自分が悪いと言われたから、そう信じたけど、

今思えば、どう考えてもその件は私は悪くなかった!」とかです。




私たちが意図した訳ではないのに、過去と向き合うチャンスが与えられるのは、

本当の意味で「自由」を体験するようにとの、神さまの御配慮だと思います。



「また真理を知るであろう。

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳 '55)




走ろうと…。

2017年01月11日 | こころの健康


信仰の導き手であり、

またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、

走ろうではないか。

(ヘブル人への手紙 12:2)




ある集会に参加する途中、クルマの中で心に届いた御言葉…。

実際は、新改訳聖書の「信仰の創始者であり…」でしたが。

始めて下さった方が、完成して下さるんですね。




日々の生活の中にいると、心が揺らぐ出来事もあります。

心地良くない、嫌な事だって起きます。

それを予感してた訳ではありませんでしたが、

上の御言葉が与えられたので、どんな時にもイエスさまを見上げ、

しっかりと走ろう!と思いました。




ところが、実際には走った矢先にコケた!と言うオチが…(^^;

それでも、また起こして頂き、走り出したいのです。

みんなのように、スピードを出して走れなくてもいい。

カッコ良く走れなくてもいい。

自分の歩幅で、自分に与えられた体力と信仰で。




信仰の歩みをスタートさせて下さったお方が、完走させて下さると信じて。

完走を目指して、今日も走ります!

今日は、ちょっとゆっくりだけど(^^;)

愛が分かった日

2017年01月09日 | 日記
心の明け渡し
ふと、以前とても苦しんだ事柄について思い出しました。それは、「私は、まともな人間ではなくイエスさまに迷惑ばかりかけている。」「私は、まともに生きていけないし、その自信もない......



おはようございます。

この時、初めて神さまに愛されている・・・と分かった日でした。



ずっと教会に行けずにいたある日…。

西の空を見た時に、ふっと「愛されてる気がする」と思いました。

なぜ、そう思ったのか?分かりません。

神さまのことを考えていた訳でもありません。

ホントに、ふっと何気なく思いました。

その日…私は何も出来ない、何も取り柄のない私が、

このままで愛されてると言う驚愕の事実を知ったんです。



それまでのイエスさまに対する認識とは、全く違うものでした。

祝福されること、愛されること、神さまに喜ばれることには、

何か凄い条件があると思っていたからです。

もちろん、愛されてる事を知った上で喜ばれる生き方をするのは、

とても良い事ですが…。



この時から、少しずつ恵みが分かって来ました。

しあわせ

2017年01月03日 | こころの健康



おはようございます。

珍しく連投しています。早速飛ばしてますね〜(笑)

今朝は、不思議な感じで目覚め起きました。

起きたら、4時半〜

フワッとした気持ちで目覚め、「お祈りしたいなぁ〜」と思いました。

これは異例の事です(笑)

なぜなら、普段はいくら祈りの生活を確立して来たとは言え、

「お祈りしなきゃ!」って思って祈り始めるので…。

もちろん、お祈りしている内に段々平安で満たされるのですが。




それで、すぐにお祈りし始めました。

娘のお義母さんも、最近から早朝祈り会に毎朝教会に行かれてるそうなので、

お義母さんのためにもお祈りしました。

イエスさまが、祈りの場に招いて下さっているように思いました。

しあわせな気持ちの中で、イエスさまにいろいろな事を祈り願いました。




私には、何もないけれど私からイエスさまの香りが流れると良いなぁ〜

イエスさまが、いろんなところに現れて下さると良いなぁ〜

などと思っていたら、次の聖書の言葉が浮かびました。




「生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」

(ガラテヤ人への手紙 2:20 口語訳 '55)




もはやわたしが生きているのではない!と言える人生。

神さまの素晴らしさを分かち合う毎日って素敵じゃない!?

そんな日々を、この年は歩んで生きたいなぁ〜





私は、これから幸せになるのではなく、この祈りの歩みが既に幸せなんです。

この瞬間も幸せですし、この力強いお方が一緒にいて下されば、

この後も幸せです!と言えるはず!




ある本に「キリストがわたしの人生」と書いてあったのですが、

まさに、この歩みのひとつひとつがわたしの人生を作っています。

し・あ・わ・せー(*´∀`*)

あけましておめでとうございます。

2017年01月02日 | こころの健康

「由志園」にて…。






「このようにして、キリストの日に、

わたしは自分の走ったことがむだでなく、

労したこともむだではなかったと誇ることができる。」

(ピリピ人への手紙 2:16 口語訳 '55)




あけましておめでとうございます(*´∀`*)

今年もスタートしましたね。

何となく生きていると、何となく終わりそうなので、

ちゃんと目標を立て、御言葉を握りしめて歩みたいと思います。

やはり、御言葉は年末から温めていたピリピですね。

最期の時に価値ある生き方がしたいと望んでいます。

何か新しいことを始めるのではなく、今始まっていることの

延長線上にある祝福を、逃したくないと言う気持ちです。




私の私生活でも、いろんな喜ばしい変化は起きていますが、

信仰生活でも、何かが動き出している気配がします。

新しく出会った、たくさんの友達…。

そして、祈りの生活の確立。

今朝見た初夢も、何か意味あり気な感じでした。



私と友達が、他の2人の友達と4人で遊んでいました。

体は、大人なんですが気持ちは子供みたいにゲームをしていました。

そして、2人の友達のことを気遣いながら遊んでいました。



今のところ私に与えられていることは、「祈り」と「交わり」です。

どんな事を神さまがして下さり、素晴らしい事を見せて下さるのか?

とても期待しています。



そしてもう一つの御言葉は…

「わたしは思う。

今のこの時の苦しみは、

やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、

言うに足りない。

(ローマ人への手紙 8:18 口語訳 '55)



私は今、苦しみに合っている訳ではないのですが、

ずっと、何がしかの苦しみの中を生きていたので、

これもまた、後に来る祝福がどんなに素晴らしい栄光か?

期待でいっぱいになり、今を生きる生き甲斐となります。

イエスさまを信じる道は、エキサイティングでワクワクしますね。




それも、数知れない「普通の毎日」の積み重ねではあります。

この普通の毎日を天を見上げて、歩みたいと思っています。