Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

私はね,教職に就こうとする者はね・・・

2013年02月22日 | 教育・研究・ひとの育ち
「私はね,教職に就こうとする者はね,自分が今何をやっているか,いつも客観的に振り返る能力とその必要があると思いますね。」

これは教職でも責任ある立場にいる,ある人と話をしているときに聞いた言葉だ。

その先生によると,教職にある人だって所詮人の子,いろいろな問題もあるのだそうだ。例えば,最近話題に上ることの多いいじめ問題だって,教師集団の中にないわけではない。

でも,傍から見るといじめている当事者であるその先生が,話をしてみるといじめているという意識がないばかりか,その行為が正当であるという気持ちになっていたり,時には自分こそが被害者だと思っていたりする。そんなことも多いという。妥当かどうかは別にして,いじめる側にはいじめる側の論理がそれなりにあるものなのだ。

ある人がいるだけで極めて不快だから睨んだり無視したり集団で陰口を叩いたりしているというケースでは,当人とその取り巻きにとってはある意味正当な理由であって,それは「私と私たちを不快にさせているあなたが悪い」という論理なのだろう。

ただ,教職にある者がそのような行為をしたり,それを正当化したりして,反論も攻撃もしない立場の弱い者に辛い思いをさせ,集団の中でさらに孤立させているとすれば,その人間の人権感覚のアンテナは大きく狂っており,教職の適性がないものと断じられてしかるべきだろう。

その意味で,「自分が今何をやっているか,いつも客観的に振り返る能力とその必要」というのは,やはり教職に就く者の最低限の資質であり能力だな。なるほどと思い,話を聞いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニッポンの学校の先生はエライ

2013年02月21日 | 教育・研究・ひとの育ち
時々授業を見せていただく機会がある。そしていつも思うのは,ニッポンの学校の先生はエライ!うん,そういうことなんだ。

欧米諸国であれば「はっ?なんでそんなことを学校がやらなきゃならないの?」ということを,何から何まで引き受け背負いこみ,時には喘ぎながらも身体を張って,まさに24時間体制で対応しておられる,それがニッポンの学校の多くの先生の実態だ。

それなのに,時にはあれができていないこれができていないって,先生の背負い込んでいる全体像が見えない人から批判されることがある。それでも多くの先生は「自分の力が足らなかった」って,自分に目を向けただ黙って耐え,むしろ自分を責めていらっしゃるようにも見える。

こんな実態だから,先生の専門性は本来あるべき姿にまで十分高められ発揮されていないことが多いのではないか。本来家庭でやるべきことや社会でやるべきことの負担を先生から減らさなきゃいけないんじゃないか。それも即刻だ。

そのことによって,本来先生がやるべき新しい時代への対応の学びや準備ができるようになる。これが今一番求められている。

それは決して先生のため,なんかじゃない。それは結局,子どもたちの学びの質の保障,そして子どもたちの学力保障,ひいては子どもたちの倖せにつながっていくことなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭が痛いでござる。

2013年02月20日 | Weblog
昨日の想定外の寒さの影響かな。ちょっとだけ忙しくしているし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人のため社会のために歯を食いしばって専門性を身につけること

2013年02月20日 | 教育・研究・ひとの育ち
「私はもう日本には戻りません」と断言し12年4月に研究拠点を東京大学医科学研究所からシカゴに移した米国シカゴ大学の中村祐輔教授(60歳)が次のように述べている。

日本の教育は『人を育てる』のではなく『人を甘やかす』ものになっています。『研究は楽しいですよ』と若手を誘うのではなく,『歯を食いしばって世の中のために研究しなさい』と,研究者としての使命感を持たせる教育が必要だと思います。

転じ,「人のため社会のために仕事を選ぶ」という意識を育て,「人のため社会のために歯を食いしばって専門性を身につける」という使命感と責任感を与える環境は,果たして我が国の大学に今あるのだろうかと思う。もちろん不必要な精神万歳主義を言っているわけではない。学問の世界は本来楽しく,それが必要であることはよくわかっているつもりだ。

しかしその本当の楽しさにたどり着くまでに必要な,ちょっとした努力をさえ求めることができなくなってはいないだろうか。向上するためのストレスでさえすべて悪と決めつけ切り捨て,市場原理に基づいてお客様扱いしご機嫌伺いするかのような振る舞いは迎合でしかなく,教育の場に決してなじまない。私はそう思う。……って、実は自分に足りないことを反省しているだけなんだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日城下町

2013年02月19日 | 旅行・交通

旨いもの食べタイのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

a journey through seasons

2013年02月18日 | 旅行・交通
ノルウェーの四季。「ノルウェーのトロンヘイムとボドを結ぶ鉄道「Nordland Railway」から見える四季の変化を、約1分間に圧縮したタイムラプス映像」なんだそうだ。昨秋の彼の地を思い出した。学会のこともアップしたいと思っているんだけど,今振り返る余裕がない,,,。
a journey through seasons
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿 風雲児

2013年02月14日 | たべもの・スウィーツ
これは2月2日土曜日晩の写真。いや、ここには参ったね。美味い。旨い。上手い。これまでつけ麺は、何のかんの言いながら、中野の青葉が常に安定していて一番美味いと思っていたけれど、超えてるね。一番とは言わないが、それでもやはり、後生畏るべし。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

it's difficult to be!

2013年02月13日 | たべもの・スウィーツ
ありがとう!とは、有り難きdifficult to beこと、と認識することなり。ありがとう!!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修士論文の最終発表会

2013年02月05日 | 教育・研究・ひとの育ち
修士論文の最終発表と審査会が行われた。博士課程前期生涯活動教育学専攻修了予定生のうち,造形芸術教育学専修では昨日3名が発表を行った。

丹内 愛「作品に愛着を持つことのできる工芸学習の検討」

和佐博視「昭和戦時下における中学校図画教科書の分析」

越智奈穂子「加守田章二の造形表現に関する研究」

3人とも論点の整理が厳密に行われて明快な結論を得ており,とても優れた論文であったと思う。

丹内さんの主指導教員と主査であった身としてつくづく感心していたのは,成果物としての論文の質の高さはもちろんだが,むしろそれ以上に,その過程において彼女が見せた粘り強さと,その度にバージョンアップする姿だった。学部時代は他大学で染織の制作を行っていた彼女は,論文というものを書いたことがなかった。だから大学院の進学先として広大教育を選んでくれたあとは,論文についての理解やイメージを持つことが最初の大きな仕事であったといえる。

彼女が二年間を通して行ったトレーニングは,単に論文の書き方を理解するというのではなく,作業を通して自分自身の頭の中を整理する「クセ」をつけることに本質があった。言い換えれば,闇雲に現状を見ていい加減に感想を持ち適当な対応をするのではなく,目の前の確かな事実を基に確かに考え判断する思考力と判断力を鍛えることに他ならない。このクセは実は研究者はもとより,教員にとってもとても大切な専門性の一つなのだが,残念ながら一般にはそう理解されていないことが多い。そして,このクセがついていない者にとっては実に訳のわからない作業(できない者は,できるようになってからしかできなかった自分を俯瞰できない・・・)で,恐らく大きなストレスを抱えたのだと思うが,それを乗り越える能力と精神を彼女は持っていた。

昨年後半から私のところに草稿を持ってきては何度も何度も書き換えを指示されてきた。しかし毎回確実に,そして私が指示した以上の出来映えで次の提出を行ってくれた。もう既に半年前には修士論文としての一定のレベルまでには達していたが,さらに高みを目指してバージョンアップを繰り返してきたのだ。学術的な良心から何度も何度も書き換えを指示したりすると,その本質がわからない者にとってはハラスメントと受け止められかねないので,そんなリスクを冒すくらいなら面倒なことは言わないでおくといった実態も他大学ではあるようにげなげな話で耳にしたことがある。しかし私「も」投げ出さずに最後までバージョンアップのための指摘を続けることができたのは,彼女の能力の高さと精神の強さがあったからに他ならず,その意味では私も彼女に支え続けられた一人だったと言えるだろう。

これらの力は教壇に立ってからも大きな武器となるに違いない。本当に教員としての適性を持つ一人として,将来はリーダーになること間違いないと思う。

※あ,発表会の時に,彼女がχ(カイ)二乗検定のことを,「エックス」二乗検定と口走っていたのは,ほんのご愛敬ですから(^^;)。あとでメモに書いて渡したら,「え,私,そんなこと言ってましたか???」って。ずいぶん緊張していたのだろう。こんな抜けた天然さ加減も,現場でかわいがってもらえるいい素質なのかもしれない(^_^)v。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金のその正体は?

2013年02月04日 | たべもの・スウィーツ
季節変わって春。そう、今日は立春ですな。ってことは、、、昨日は節分。で、写真は昨日のスウィーツ。右下の黄金は、、、鬼の足あとさ!はたして、心の中の鬼は退治できたか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自衛隊式最強のリーダーシップ』石田英司著

2013年02月02日 | 本・書評
高校時代の同級生が本を出版したので購入した。まだ読んでいないが,読みやすそう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島名物牡蠣の加熱用・生食用の違い

2013年02月01日 | たべもの・スウィーツ
昔一度聞いたことがあったんだけど,老化の進行によって記憶から消滅していたので・・・ログログ。

牡蠣による食中毒は,広く知られているように牡蠣が海水から吸い込んだ小型球形ウイルス(SRSV:Small Round Structured Virus)即ちノロウイルスによって引き起こされる。そこで加熱殺菌の登場。60度の30分以上では不十分で,100度の加熱が必要だ。その牡蠣をもし加熱せずに生食したら・・・人の消化器官の中で繁殖し食中毒を引き起こす場合がある。

だから生食用の牡蠣は,海水中の細菌数が一定基準を満たしている海域で採れたものに紫外線で殺菌した海水を注ぎ,牡蠣内に蓄積した細菌やノロウイルスを体外に排出させる処理を行っている。だいたい2~3日で生食に適した牡蠣ができあがるわけだが,このような処置を加えた牡蠣が「生食用」,一方海から採れたままの牡蠣が「加熱用」と分けられて市場に並ぶ。

さてさて,2~3日殺菌処理をしたら牡蠣はそれだけやせ細るわけで,加熱して食べる分にはコクも旨みも「加熱用」の方が上で美味しいらしい。だからもし,「生食用」の牡蠣を牡蠣フライや牡蠣の土手鍋にしたんだとしたら,自然と100度以上の加熱となるため,金を余分に払って不味いものをつくることになっちゃうんだと。処理の手間分生食用は加熱用よりも高くなっちゃうからね。チャンチャン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする